3年前の2015年、大阪の北浜で撮影されたドキュメンタリー映画がある。

 田中幸夫監督作品の、『徘徊~ママリン87歳の夏』(以下『徘徊』)がそれだ。

 公開当時、“悲劇と喜劇、涙と爆笑が入り交じる”と評され、今でも行政や各地の学校、病院などで上映され続けている同作は、高齢女性がデイサービスの送迎車から降り、娘さんとともにギャラリー兼自宅マンションへ向かうシーンから始まり、母娘2人の、奇妙でどこか滑稽(こっけい)な会話の様子をとらえていく。

 “あんた、誰?” “娘のアッコ” “私の娘!? なんか大きくなりすぎたなや” “そらもう、おばはんや” “ホンマ? おかしいなあ……” “結婚はしてはんの?” “いや、クーちゃん(飼い猫)としてる!” “え!? 猫とですか!? ホンマに……”

 上映会では、このあたりでいつも爆笑だ。認知症を描いた作品だというのに。

 画面は突如として衝撃的なシーンへと切り替わる。

 深夜、同じ女性が暴言を吐きながら玄関の扉を強打し、蹴り上げ、寝間着姿で雨がそぼ降る深夜の街を歩き始める。

 彼女の名は、ママリンこと酒井アサヨさん(当時87)。

 映画『徘徊』は、認知症を患い、4年間に1388回も家出をし、時間にして1730時間、総距離1844キロを徘徊(はいかい)したアサヨさんと、来る日も来る日もそれを介護し、追跡しながら見守った、娘の章子さん(当時56)を描いた作品なのだ。

娘・酒井章子さんと母・酒井アサヨさん

 ちなみに、北海道最北端の宗谷岬から鹿児島県最南端の佐多岬まで、およそ1888キロ。それとほぼ同距離を、2人は歩いたことになる。

 章子さん宅の近所でカフェ『北濱クントコロマンサ』を営む柿坂万作さん(47)が、当時を思い出しながら語る。

「夜、銭湯からの帰り道、電柱の影に人が立っとるの。なにやらあやしい。よう見たら章子さんで、じーっと前を見ている。“なにしてますのん?”って聞いたら、“尾行!”。見たら前のほうをママリンが歩いていた(笑)。

 章子さんは、嫌になって投げ出したいことも、笑い話にしてケラケラ笑い飛ばすような人。素晴らしいポジティブ精神の持ち主やね」

 そんな章子さんが、加齢によって足が衰え今では静かに余生を過ごすアサヨさんを見つめながら言う。

「やることやったから負い目がないの。認知症の悪魔のようなピークを見て、それが去ったら天使のようになっていく。施設に入れないで最後まで介護して、初めて見える境地や。周りのみんなからは“アホや”とも言われたけれど、いろいろとラッキーでもあったんです」

◇  ◇  ◇  ◇

 章子さんの涙と笑いの介護生活は、2006年、北浜の自宅にかかってきた1本の電話から始まった。

「(アサヨさんが暮らしていた)奈良県大和郡山の主治医からでした。“認知症なので、病院に来てください”と。感想? “ああ、そうですか”という感じでしたねえ」

 肉親が認知症と聞かされて誰もがまずとるであろう行動を、章子さんもした。病気の関連本を買い、アサヨさんに大丈夫かと尋ねたのだ。アサヨさんの返答もまた、認知症患者に典型的なものだった。

「“元気だし、隣近所とも仲よくやっている”そう言っていましたし、自炊もしていると機嫌よく言っていた。だから信じました。認知症患者は、それはうまい嘘(うそ)をつきます。今考えると、これは“取り繕い”という、認知症の症状のひとつだったんですね」

 だが実家に帰るたび、アサヨさんの症状が悪化していく。

 章子さんに“あんた誰?”。さらには通帳やキャッシュカードが見つからない。章子さんは、近所の銀行を訪ね歩いては取引銀行を見つけ、何回も作り直した。

 やれやれと北浜の自宅へ帰宅すれば、5分おきに電話が鳴る。財布の置き場所を忘れてしまって、“お金がない! 今すぐに持ってこい!”。

 ご近所からも苦情がきた。

「認知症と知られた瞬間から、“火が出たらどうする!?”。追い出したかったんだと思います。それで、もうこんなところに母を置いておくわけにはいかない! と」

 “毎日楽しく暮らしていると、健常な状態が延びますから”そんな主治医の言葉も同居を後押ししたという。

「私みたいな人間と楽しく暮らしていれば、ご機嫌さんでいてくれるだろうと思ってました。自信があったんですよ。それに、認知症にも興味があったの。もともとは頭のいい人で、それは面白い嘘をつくから。

 例えば、住んでるマンションを徘徊、それを隣の理事長さんが見つけてくれて、“なんで夜にウロウロすんねん?”。

 すると母は“違うんです! ウチの娘は酒飲みで、すごく飲むんですが、ウチのゴミ箱に缶を捨てると酒飲みなのがバレるから、遠くに捨てに行けと言われたんです!”。

 ちゃんと私を悪者にするんです(笑)」

遠距離介護時代、章子さんはユニークな写真ハガキを定期的に送り、母を楽しませていた

 2008年のある日、章子さんが、「ねえ、大阪に、遊びに行かへん─?」とアサヨさんを誘い出す。

 同年11月、大阪は北浜の章子さんのギャラリー兼マンションでの、母娘2人と猫の同居生活がスタート。

 だがそれは、章子さんの言う、徘徊とその介護に明け暮れる『認知症フルコース生活』の始まりだった。

「家にどえらいものを入れてしもうた」

「この家に移したとたん、“どえらいものを入れてしもうた”と思いましたわ(笑)。

 毎日毎日、“(奈良の自宅に)帰らせろ!” “なぜ閉じ込める!?” “私の金が目当てなのか!?”って、扉を叩(たた)く、暴力をふるう、家の中で5時間でも怒鳴り続ける」

 それでも同居を続けたのは、預かってくれる施設がなかったからだ。

暴言、暴力、徘徊が凄(すご)くって、デイサービスを2か所クビになってます。デイをクビになる認知症がどれだけ凄いか。家にヤクザがいると思ってください。ほかの人への迷惑を考えれば施設だって受け入れてくれない。預けなかったのは“逃げたくても逃げられなかったから”。預かってくれるんなら、預けとるわ!(笑)」とは言うものの実に見上げた孝行娘ではないか。

 認知症発症以前のアサヨさんは、やさしい母親で感謝の念ゆえの親孝行と思いきや、

「ウチは絵に描いたような親子断絶家庭。私は18歳で家出しています。ずっと音信不通で、40歳ぐらいでやっと盆と正月は帰るようになりました」

 会社員だった父・正夫さん(故人)はとても厳しくワンマンな人だった。母・アサヨさんは正夫さんの勤務先の保健室で看護師として働き、それが縁で恋愛結婚。2人の子をもうけたが、アサヨさんは正夫さんに従わず逆らってばかりいる子どもたちを恨んだ。父親も母親も厳しいだけで「いい大学に行き、いい会社に就職しろ」と言うばかり。当然、子どもたちは反発する。章子さんも2歳年下の弟さんも、中学からは両親とは口もきかない状態に。章子さんは大阪芸術大学舞台芸術学科入学を機に家を出て、アルバイトで自活する道を選んだ。

 そんな娘に助けられたアサヨさんだったが、日ごとに暴言や徘徊に拍車がかかっていくばかり。

 住んでいるマンション9階の窓から身を乗り出しては、

「“監禁されています! 人殺し! 助けて!”と叫ぶ。果ては、“あんた(章子さん)のこと信用できないから、交番に行って相談してくる!”。

 そのうち交番のおまわりさんも慣れて、“おばあちゃん、来ましたよ~”と電話をくれる。迎えに行くと、“信用できない”はすっかり忘れ、“迎えの者が来ましたので帰ります”。

 このへんには7か所交番や警察署がありましたが、異動の際はちゃんと引き継ぎしてくれて、“ああ、これがあのおばあちゃんね!”。ウチの母は有名人ですわ(笑)」

 だが、昼夜を問わない家出や罵声(ばせい)、騒音に、気が滅入らない人などいない。同居を開始して数か月後には、章子さんは徘徊を止めるのではなく、好きなだけ歩いてもらうよう方向転換を決断する。

「母がわめき、物を叩いている音は戦場と同じ。戦争でバキューン、爆弾がバーン、自動小銃をバババと撃たれたらおかしくなるじゃないですか。

 だったら徘徊させまくって、疲れさせて寝かしたほうがええ、と思ったんですよ」

 さらにはアサヨさんを、友人やギャラリーにやってきた人たちに紹介もすれば、行きつけの居酒屋にも連れ出すことを自ら決めた。

 章子さんとモンスターママリン・アサヨさんとの決して隠さない、むしろ“お披露目系”ともいうべき徘徊生活の幕が切って落とされた。

好きに徘徊する母が危険な目にあわないよう少し離れて尾行した(提供=風楽創作事務)

 

大阪の人情に助けられて

「初めて徘徊に付き合った日には、びっくりするくらい歩いたんですよ。初日は梅田まで行きました。5キロ6キロは普通ですわ」

 章子さんが、5年間にわたって記録したという『徘徊ノート』を取り出す。

 某年3月20日《出て行く。7回。1時間×1キロ》

《出て行く》が日に5回、7回はざら、10回(!)という日もある。回数が増えれば、1日の総徘徊時間も6時間、9時間と増えていく。

「なにが嫌かといって、せっかく連れて帰るでしょう? 健常者だったら、“さあ一服でもしよか”となる。

 でも認知症患者は違う。歩いて疲れたことも忘れるから、“さあ、行こうか!”。これは大誤算だった。歩かせて疲れさせ、コロッと寝かせようと思っていたわけだから」

 アサヨさんの1回の徘徊時間の最長記録は15時間で、USJのある此花区までのおよそ11キロ。此花までタクシーで行き、警察に保護されて迎えに行ったら、その帰りにずんずん歩かれた。

「此花警察のおまわりさんも慣れてきて、ここまで迎えに来るのも大変だからと、“タクシーでそのまま送り返してくれるようになった”(笑)」

 アサヨさんの徘徊に付き合うだけでなく、居酒屋などにも積極的に連れ出し、マスターやお客さんたちにも紹介した。

 前出の柿坂万作さんが言う。

「いつも寄っていかれるんやけど、ママリン、来るたびに“この店、いい感じや〜ん! 初めて知ったわあ。あんたええ店知ってますね”ってアッコさんに感心してる(笑)。

 アサヨさんはここではオレンジジュースを飲みはるんですが、アッコさんから言われて、ウイスキーをチョロチョロと。帰るころにはふわ〜となって、いい気持ちになって寝てくれる(笑)。

 でも若いころは厳しい人やったろうなあと思うわ。姿勢のきれいさ。あれは1日じゃ身につかない。『徘徊』の撮影でも、カメラが来たとたんシャキッと。“女優やなあ!”と思いましたわ(笑)」

 章子さんがしみじみと言う。

「同居して数か月は、“それは違う”とか“家はここでしょ!”とか、ママリンの言っていることを正していたけど、それをやめ、忘れることを受け入れたら、怒ったりわめいたりがなくなりました」

 アサヨさんの徘徊を少し離れて尾行し、道に迷うそぶりが見られたら、絶妙なタイミングで声をかける。“あれ、ママ。こんなところでどうしたん? 私、タバコ買いに来てん。一緒に帰る?”。

 そんなふうに声をかける章子さんの印象的な姿が、『徘徊』には何度も登場する。

道に迷う母にすかさず声をかけ帰るよう仕向けたが、これも至難のワザ

 決して隠さず、ありのままをむしろ積極的に出していく、こうした“お披露目介護”には、実は専門家の間でも賛否両論がある。アサヨさんのケアマネージャーで、7年の付き合いという中村さんが言う。

「アサヨさんがひとりで徘徊して警察に保護されるということがあって、前任者から引き継いだ段階では、危ないな、と思っていました。

 でも章子さんが腹をくくって“深夜早朝、何時であろうがついていく”と決めてからは、ケアマネとして、その生活スタイルを支援することに決めました」

 章子さんの覚悟と、ケアマネの理解があってのお披露目介護。2人のことは次第に、近所や大阪の交番・警察署で、知らぬ者とていないものとなっていた。

 北浜でサロン喫茶『フレイムハウス』を経営する加藤美佐子さん(51)が言う。

「おふたりはこのへんの有名人。ほっとけないというか、ひとりで歩いていたら事故にあったりとかもあるから、知っている人は目で見て確認していましたね。この町には、ポイントポイントに、そんな店があったりします」

『フレイムハウス』の加藤美佐子さん

 映画『徘徊』にも登場した『珈琲専門店 リヴォリ』も、そんな店のひとつ。マスターの堀敬治さん(71)は、

「初めて(徘徊するアサヨさんを)見たのは、5~6年ぐらい前かな。“歩いて九州に帰りたい”とか店の前を通ってはる人に聞いたりしはって。ですから、“おばあさん、コーヒー飲んで休んでってください”と声をかけて。

 あたしらは朝6時前に店に入るんですが、その開店前からタッタタッタとお母さんが歩いてくる。章子さんは、そんなお母さんの何メーターか後ろを、毎日のように追いかけていましたね

 妻の堀真理さん(69)も、毎朝店の窓から「今日は来はるかな」と気にかけていた。

 アサヨさんがひとりで歩いてきたら店の中へ招き入れ、章子さんが追いつくまでコーヒーを飲んで待つ日もあった。

「前の通りに座っていらして。“帰りましょう”と店までお連れしようとすると、おっしゃることはしっかりしているんです。“ご主人(敬治さん)が忙しいでしょうから帰ってください”と。本来は頭のいい方なんだと思いますね」

『珈琲専門店リヴォリ』の堀ご夫妻

 こうした人々に、章子さんもおおいに助けられた。

「警察に迷子の捜索願を出しに行っても“お母さんのこと、ちゃんと見とかなあかんやないか!”と叱(しか)られなかった。おまわりさんが“まかしとき! 迷子になったらすぐに見つけたげるわ!”と言ってくれたのが本当にありがたかった」

 そして、こう続ける。

「最近、人は冷たいっていうじゃないですか。でも、ママの後をついていってると、ママがピューと歩き出したら、“ばあちゃん、信号赤や!”と手をつかんでくれたり、全然知らない人が、ママにトイレを貸そうと自宅のマンションまで連れて行ってくれたり……。

 思いのほか、人って優しい。大阪だから? いえ、そうじゃないと思いますよ」

 思いやりや人情は、今も決してすたれてはいない。そして、家族が認知症でなければ得られないものも、またあるのだ。

喫茶店やバーでくつろぐ2人の姿は北浜でも有名に

 

元バニーガールのフリーライター

 さて、4年間で北海道―鹿児島間を歩いてしまったアサヨさんも型破りならば、それに付き合った章子さんもまた型破りな人である。ちなみにあだ名は、『エイリアン』。

 大阪芸大へは、親へのあてつけで入学した。

「普通の四大のほうが親は喜ぶじゃないですか。親が喜ぶ大学には行きたくなかった。当時の芸大は、こんな子ばっかり(笑)」

 大学の近所に2万円で6畳ひと間、風呂なし、ポッチャントイレの安アパートを見つけて自活した。

「貧乏学生のはしりですよね。生活費は喫茶店やスナックでバイトしたり、パチンコで稼いだり」

 卒業後は大学時代から始めたフリーライターを続けながら、なんとウサギ耳のヘアバンドとセクシーなボディスーツで、バニーガールのアルバイトをしていた。

「大阪の中之島にあったプレイボーイクラブで。時給350円の時代に、1700円でしたから」

 ちなみに、このバニーガール、ナイスなボディだけでは採用されない。知性と、打てば響く会話のセンスが必要な非常に狭き門である。

 1982年に大学を卒業してからは、朝日放送の出版局が発刊していた情報誌『プラスQ』の編集部に契約社員として入社する。半年ごとに契約更新というシビアな条件のもと、編集とライティングの技術を磨いた。

 数年後、同編集部は情報誌大手『ぴあ』に買収され、契約社員に採用された。

「遅刻はするわ、昼から酒飲むわ、ホテルがわりに会社に泊まるわで、メチャクチャしていた。組織をわかっていなかったですね。で、4年ぐらいで辞めて。’87年、28歳でフリーになりました」

 翌’88年には、編集プロダクション『ワットコーポレーション』を設立、代表として吉本興業や、テレビ大阪などの広告宣伝の制作物を手がけた。

 当時のバブル景気もあり、1日に締め切り7本、スタッフ5人を抱えるなど仕事は好調を極めた。しかし、2000年ごろから仕事がめっきり減ったため、事務所を閉め、現在の自宅であるメゾネットマンションを購入。新たにギャラリー経営の準備を始める。

「全面改装する前はひどくって。売れ残っていて安かった。ここを選ぶまで200軒見ました。介護もそうだけど、徹底的にするんです、私」

 2003年42歳のとき、『10W Gallery』をオープン、現在にいたるという。

 学生時代からさまざまなバイトに明け暮れ、卒業後も自分の決断を信じて自ら人生を切り開く、こんな姿勢には、大阪芸大在学中の20歳のときにあった出来事が影響しているという。

「お金がなくて、バイトに行く交通費に困った。友達に借りに行こうにもそこまで行く交通費がない。二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくて、18歳で家出して、初めて母に電話をかけた。

 “申し訳ございませんが、2000円貸してもらえませんか? 通帳に2000円振り込んでくれませんか?”と」

 丁重に頼み込む章子さんに、アサヨさんが、冷たく答えた。

「あなたが勝手に出て行ったのだから、あなたが勝手にどうにかしなさい!」

 ガチャンと切られた。

「2000円のお金も助けてくれない。“親には決して頼れない! 自分の人生、自分でどうにかしていくしかないのだ”そう強く思った。すべて自分の力だけで生きていくしかない!」

 この“困ったときに見捨てられた”エピソードをよく人にも話していた章子さん。だが、ある友人にこう指摘されたという。

「お前が強いのは、そんなおかんのおかげやん─」と。

「“きつい親のおかげで、人に頼らず、自分だけの力でどうにかして生きぬく覚悟ができた。

 さらには父親の奴隷のようになっている母を見たせいで、“結婚はつまらん”と。母は反面教師だったんですね」

バリバリ働いた20代。当時はまだ自由な独身ライフを謳歌していた

 妥協がなく、頑固にどこまでもわが道を行くその姿勢。この母子は確かに似ている。

 章子さんの性格も成功も、そして傍目(はため)には壮絶この上ない介護も、すべてはこの母あってのものだったのだ─。

「アッコがいるから大丈夫」

 映画『徘徊』の撮影と公開から、もう3年。

 今ではアサヨさんは、通い慣れたデイケア施設に毎日行き、家では章子さんの手から大好きなプリンを食べ、母子2人と猫の、穏やかで普通の時間が流れる。

「映画を撮ったあとぐらいから、みるみる徘徊が減って。

 これは母の老いプラス認知症が進んだからです。今は完璧に過去の記憶がない。過去に惑わされたり未来を憂えたりがなくて、今を生きている。これは極めて幸せな状態です。

 普段は歌を歌ったり、自分のひとり言に自分で答えたり。子どもに返って小学生みたいになっているから、可愛らしいですよ」

 今、ようやっとそう言えるようになった。

「認知症介護の勝ち組かも。紆余曲折あったけど、終わりよければすべてよし!」と笑顔で語る

 章子さんがあの壮絶ともいえる徘徊介護を耐え抜けた理由を、前出の中村ケアマネージャーがこう分析する。

「章子さん自身もおっしゃっているように、自由業で比較的時間の自由がきくというのもあったと思います。ですが、本質的にポジティブな人なんですよ。深夜について回るのも、“ダイエットにつながるからいいわ”というように。

 そういう性格だからやれた。

 彼女の介護も、これからは街に認知症の人がいっぱい出てくる時代になりますから、ひとつのやり方としてはありかなあと思います」

 リヴォリの堀敬治さんは、「もともとの性格というか、根が優しいのと違います? 歩き方もしゃべり方も竹を割ったようにシャキシャキとされているけど、迎えにこられたときも、優しいですよ。“はよ、帰れ!”と言って引っ張ったりは、絶対にされない。

 アサヨさんも道を聞くときには“あれはどう行ったらいいですか?”と、やはりパキパキと聞かれて。母子、似ていると思いますわ」

『徘徊』を撮影し、レンズを通して2人の関係を見つめた田中幸夫監督(66)は、こう喝破(かっぱ)する。

「アッコさんは20~30代のときメチャ遊んで仕事して、一生分のことを全部しているんです。後悔することがないから、できたんだと思う。

(電話をガチャ切りされても受け入れたのは)親子の愛憎というのは、常に100%愛しているわけでも、憎んでいるでもない。揺れ動きがあるのが親子関係。その中で覚悟して、ひとたび決断したらそれを貫く。これは彼女の美学なのかもしれないけれど、そこが彼女の人間として信頼できるところでもある」

 当の章子さん自身は、介護のモチベーションを保つためにこう考えたという。

「私が知ってる母は鬼親やったけど、おぎゃあと生まれてからお乳を飲ませておしめを替えて物心つくまで、それは私を慈しんで育てたはずで、10年ぐらいは母がいなければ生きていけなかったんですよ。

 だから10年間は面倒みようと決めたんです。10年みたら、お互いプラスマイナス0になる、と」

 そう語ると章子さんは、この上なくうれしそうな表情でノートを取り出し、2年ほど前、ちょうど症状が穏やかになり始めたころに書きとめたという、アサヨさんの言葉を読み上げてくれた。

《─私は頭が悪いんです。お馬鹿なんです。すぐになんでも忘れるんです。(中略)。私は忘れても大丈夫なんです。アッコがいてくれますから。私は、“忘れ人さん”なんです─》

 “アッコがいるから大丈夫”

 恩讐(おんしゅう)を忘れて介護に挑んだ娘の地獄と、聡明だった自分の、記憶が消えゆく母の地獄。

 この言葉こそが、そうした地獄をくぐり抜け、章子さんが手にしたなによりの賜物(たまもの)であり、2人がたどり着いた境地なのだ──。

毎日、楽しい会話を交わしてくれる娘を穏やかな表情で見つめるママリン

(取材・文/千羽ひとみ 撮影/吉岡竜紀)