10月5日16時、ジャズシンガーの五十嵐はるみさんはライブハウス『ラドンナ原宿』(東京・渋谷)のステージで、リハーサルをしていた。

ジャズシンガー五十嵐はるみさん

 バックバンドと音合わせをしながら歌っていた五十嵐さんが突然「ちょっと止めて!」と叫んだ。

「違う違う。ドラムはもっとバーンと来てくれないと」「ギターはそのパートじゃなくて、変更があったこと言ってたよね」

 矢継ぎ早に指示を出す。いずれも相手は、日本トップクラスの有名ジャズミュージシャンである。しかも、五十嵐さんよりはるか年上だ。

「私のリハを見るとみなさん驚きます(苦笑)。ベテランになると、どうしても自分を過信して“本番はきっちりできるから”と事前に渡した譜面を見てこないこともあるんです。でも、迎えるお客様をいい加減に思うようなリハや、私の要望どおりにできていないときはきつく言います。もしかしたら、私にいちばん小言を言われているのは最年長のミュージシャンかもしれません(笑)。ステージは五十嵐はるみが全責任を負わなくちゃいけないですから」

 15年前に初めてライブを聴いて以来、多くの楽曲も提供している音楽評論家の湯川れい子さんは、そんな五十嵐さんを「自分にも厳しい人ですから。でもステージを降りると、とても無邪気ですよ。私とのツーショットをスマホで自撮りして、私に猫ちゃんのヒゲをつけてくれたりします」と笑う。

 19時30分。ステージが始まった。赤と紺のドットのワンピースに赤い帽子と赤いブーツ。オープニング曲は『ムーンライト・セレナーデ』。ジャズのスタンダードナンバーだ。その後もビートルズの『CAN'T BUY ME LOVE』、サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』、松任谷由実の『あの日にかえりたい』、石川さゆりの『ウイスキーが、お好きでしょ』などジャズアレンジされた14曲が歌われた。

 湯川さんが「飾り気がない、心の優しさが出ている声。歌い方に日本的叙情感や情緒があります」と惚れ込んだ声を、所属事務所『ゼロクリエイト』の石川修社長はこう評する。

女優の大原麗子さんが甘い声でジャズを歌っているイメージで心を奪われるんですよ。

 音の高さを決める周波数のベースの基音に対し、他の音が何層にも重なって聴こえる倍音が松任谷由実さんと同じらしく、聴く人の耳に心地いいとレコーディングディレクターから聞きました」

 この日も、透明感あふれるハイトーンの「エンジェルボイス」が、100人超の観客を魅了した。

「駆け出しのころは、酔ったおっちゃんに“そんな可愛らしい声のジャズはジャズやない。黒人みたいにハスキーな声で歌わんと。ウイスキーでうがいせい”なんて言われたんですけどね」

 と五十嵐さんは苦笑する。

 メジャーデビューから18年。ジャズの本場ニューヨークでも認められるほどの実力派シンガーになった五十嵐さんだが、道のりは決して平坦ではなかった。

「どん底を経験しました。それでも私が今日まで歌ってこられたのは、多くの人との出会いに恵まれ、その方々に支えられてきたからです」

 そう微笑(ほほえ)む五十嵐さん。実は「大阪で知らない同世代はいなかった」というほどのヤンキーだった。かつて「ケンカ」で周囲を黙らせていた女番長が、なぜ「歌声」で人を唸(うな)らせる人気シンガーになったのか、その軌跡をたどった。

15歳のころ。各方面からヤンキーが集まり、名前を売る絶好のチャンス。住吉大社のお祭りに甚平を着て参上

 五十嵐さんは子どものころ、両親と妹、弟の5人で大阪市住吉区に住んでいた。父の憲治さんは和風スナック『美紀』の経営者として忙しい日々を送っていた。

 五十嵐さんにとって『美紀』は大人の世界を覗(のぞ)ける場所。店の2階が居間になっていて、そこでよく父の仕事が終わるのを待っていた。ときどきこっそり下りていき、柱の陰から赤ら顔の客が楽しそうに話す店の中を盗み見る、そんなおませな女の子だった。客に「お、目がのぞいているぞ! こっちおいで」と遊んでもらった記憶もある。

 活発な子どもだった。Tシャツに短パン姿で近所の長居公園まで男の子と遊びに出かけた。その一方、女の子らしく童話好きでもあった。

3歳ごろ。子煩悩な父は近所の子どもたちも誘い、よく遊園地などに連れて行ってくれたという

「本好きが高じて妄想癖が芽生えました。妹を相手に『美容室ごっこ』をしたときは、妹の髪に洗濯バサミをいっぱいつけて、さらにその上に洗面器をかぶせてパーマごっこをしたり(笑)。すぐ何かになりきる変な子でした。主人公はいつも私なので、妹は迷惑だったでしょうね」

 そんな五十嵐さんが、歌と出会ったのは小学4年生のとき。音楽の先生が合唱指導に熱心で、4、5、6年生から歌の上手な児童を募って歌唱班をつくり、全国コンクールの本選にもたびたび出場していた

 本来なら4年生は全国大会に出場できなかったが、五十嵐さんの歌唱力を認めた先生が、特別にメンバー入りをさせた。カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』など今まで聴いたことがない素敵な洋楽にも出会えたが、「練習嫌いでサボってばかりでした」と苦笑する。このメンバー入りが、後にいじめを引き起こすとは、想像もしていなかった。

「一生懸命に練習している同級生にしたら“サボってばかりやのになんで?”となりますよね。それに活発で目立つ女の子でしたから。いじめは突然始まりました。最初は無視です。私が何か話しかけても無反応。その後は近づくと遠ざかっていく。昨日まで仲よく遊んだ友達が全員です。自分の中でも何が起きているのか理解できなかった」

 思い悩んだ五十嵐さんは友達にこっそり「なんで?」と聞いた。すると「6年生から、はるみと話すなって言われてん、ごめん……」と小声で告げられた。

「自宅の窓から同級生たちが帰るのを見かけたときは、母に“百円ちょうだい”とねだって、“これあげるから私と遊んで”と同級生に頼んだりしました。いじめは3か月くらい続きましたね。たった10年しか生きていないのに、人生の絶望を経験しました。目の前が真っ暗で、どうしていいかわからなくて……」

 このいじめの経験は、今回初めて明かしたという。家族も知らなかった事実である。

「いじめを経験した私だからこそ、いじめられている子どもたちの何か力になれないか、と最近、強く思うようになりました。心の整理ができてきたのかもしれません」

ヤンキー街道まっしぐら!

 絶望の淵(ふち)に立たされた10歳の女の子は、「自分が強くならなくちゃダメだ」と決意。そして行動に出た。しかし五十嵐さんの場合、「気持ちを強く」ではなく「ケンカが強く」だった。以降、長居公園でひたすら蹴りの練習に励んだ。

「いじめは連鎖するので、私がいじめられると妹や弟もいじめられる。“それを防ぐには自分を鍛えればいいんだ”と考えたんです」

 中学に入学後、その名前が他校に知れ渡るのに時間はかからなかった。もちろん、ヤンキーとして。

「だけど、ただケンカ好きな女の子とは違いますよ(苦笑)。自分の中に“弱い者をいじめるやつ、シンナー、カツアゲは許さない”というルールがありました。シンナーを吸っている同級生、後輩を見たらボコボコに殴ったし、他校の生徒にカツアゲされた後輩がいたら、すぐその学校に乗り込みました」

 3歳違いの妹、高木憲子さんも、そのころの姉の姿をよく覚えている。

「ヤンキーでしたが、人の心の機微には敏感。いつも“こうするとあの人が傷つく”と考えるような人でした」

 しかし、破茶滅茶な行動も目立った。髪にメッシュを入れたいが校則で禁止されていたために絵の具で染めたり、身長が低いから長いスカートが作れないときは、見ず知らずの背の高い女の子に声をかけて百貨店へ連れて行き、その子のサイズで制服を作ったりもしていたという。

高校入学時、道を歩いていた背の高い子に声をかけ、その子のサイズで作った制服

 憲子さんは中学入学早々、「姉のすごさ」を思い知る。

「ものすごく迷惑な話でしたけど(笑)。3年生が“はるみ先輩の妹、どれ?”って教室に来たんです。私は黙っていたんですけど、友人が“あ、この子です”って私を指さして。そうしたら、“何か困ったことがあったら私らに言ってや”って周囲ににらみをきかせながら出て行きました。私にしたら“あなたたちが教室に来た今が、その困ったときですやん”でした(笑)」

 ヤンキーとして名を轟(とどろ)かせた中学生活だったが、知人や友人に取材してもこの時期は歌に関するエピソードが聞こえてこなかった。今回の取材で、「小さいころから今まで、歌はずっと好きでした。いつも癒されて、優しい気持ちにさせてくれたのが歌でした」と言ったにもかかわらずだ。

 小学4年生のときのいじめが起因しているからだろうか。本人にそう投げかけると、

「トラウマ? それはなかったですね。家では音楽、いつも聴いていたんですよ。ヤンキーになっても歌は好きでした。ヤンキーだから矢沢永吉さんはもちろん聴きました(笑)。でもケンカして帰ってきたときは小学校の合唱団で出会ったカーペンターズや、ユーミンさんの曲。だけどヤンキーがカーペンターズってカッコ悪いじゃないですか。だから言わなかっただけです」

 と、笑顔を見せた。

「相手を威嚇するためにヤンチャな格好をしてました(笑)。武勇伝があれば相手もケンカをしかけてこないし、仲裁することもできますから」と五十嵐さん

 

体操着で先輩と血みどろの決闘

「バイクを乗り回し目立つ存在でした」と妹の憲子さんは話す

 中学卒業後は「普通科より自習時間が多そう」という理由もあって私立高校のデザイン科に入学。直後、五十嵐さんは「死ぬかと思った」という血みどろの決闘をする。その学校は大阪府内のワルというワルが集まってくる「ワルのチャンピオン高校。漫画の『ビー・バップ・ハイスクール』のようだった」と振り返る。

「1年狩り」という悪しき伝統があった。3年生が1年生を締めるのだ。同級生から「次はデザイン科らしい」と聞いた五十嵐さんは「そんなグダグダ言わんと、さっさといちばん強いやつが来いって言うとき」と啖呵を切った。

 そして3年生がやってきた。

「あつらえたばかりの制服が汚れるのは嫌だったので体操着に着替えました。中学のときも先輩からいただいた制服だったので、ケンカのときのユニフォームは必ず体操着」と五十嵐さん。そのため体育の授業で体操着に着替えただけでも、同級生たちは「何か起きるで」と緊張した。

 15分に及ぶ公開決闘は決着がつかず、「これ以上続けたら死んでまうわ」と周囲が止めた。そして、後味が悪い結末を迎えることになる。

「その3年生が退学したんです。メンツが立たなくなったと噂(うわさ)されました。そればかりではないと思うんですけど、私にしたら“なんで?”ですよね。でも、そこから1年狩りもいじめもなくなり『学園天国』になりましたから、先輩と私の決闘も無駄ではなかったんでしょうね」

「大人ぶって吸っていたタバコも、大人になってやめました(笑)」と五十嵐さん

 このころ「ヤンキーが歌うって、恥ずかしい」と思っていた五十嵐さんも「みんなの前で歌いたくなった」のだろうか、中学と高校の同級生で、今は『美紀』のカフェ営業を任されている玉木宏司さんに「あること」を頼んだ。

「あまりに怖い存在だったので中学のとき接点はありませんでしたが、高校のとき僕は軽音楽部に所属していたこともあり突然、“ギター弾けるん? うち、歌上手やから弾いて”と彼女と友達が来ました。そして“文化祭で歌うから”と、あみんの『待つわ』を練習しておくように命令されたんです。僕は一生懸命に練習しました。しばかれたくないので(笑)。だけどその後、彼女が僕を訪ねてくることはなかったです」

 そのことを五十嵐さんはまったく覚えていなかった。

「確かに『待つわ』は、通っていたスナックで女友達とよく歌っていました。だから、歌いたくなったんでしょうね」と笑い飛ばす。気の毒なのは恐怖の日々を過ごした玉木さんである。

 しかし玉木さんはいい人である。卒業後、同窓会で五十嵐さんがジャズシンガーになったことを聞きCDを購入。松田聖子のような声でジャズを歌っていることに驚いた。しかもジャケットには「エンジェルボイス」の文字。「エンジェルって……彼女、デビルやのにね」と苦笑する。

父が導いてくれた突然のデビュー

 高校卒業後は2年制の美容専門学校への進学を希望。めでたい門出を祝う春になるはずだった。しかし、大きな不幸が五十嵐家を見舞う。

専門学校入学直前の3月24日、突然父が亡くなったんです。若いころに結核を患い、確かに丈夫な身体ではなかったんですけど、私は検査入院くらいにしか思っていなくて。

 そのときのこと、あまりにショックが大きかったんでしょうね、ほとんど記憶がないんです。でも父が亡くなる前日に電話で話をしたことは覚えています。めったに怒らない父に“俺がこんなときくらい、妹や弟の面倒を見られなんでどないするんや”と怒られて。ちょっと家のことをサボっちゃったんですね。次の日、父の誕生日でもあったのでお見舞いに行って謝ろうと思っていたんですけど……。誕生日が命日になってしまいました。謝れなかった悔いがずっと心に残ってるんです」

 五十嵐さんも母親も、心のダメージは想像以上に大きかった。「このままではお母さんも私もダメになってしまう。お父さんが残した『美紀』を盛り上げて元気にならなくちゃ」と美容学校を休学。友人たちの手も借りながら『美紀』を再オープンさせた。

 悲しみに包まれつつも次第に日常を取り戻した五十嵐家。ある日、五十嵐さんは友人と、気晴らしに近所のピアノバーへ飲みに出かけた。そこで思いもよらぬ「デビュー」を果たすことになる。

 たまたま五十嵐さんの知っている曲が流れ、休憩のときに「さきほどの曲、素晴らしかったです」とピアノ弾きの男性に声をかけると、「君、詳しいね、歌えるの? 歌ってみますか?」と言われた。

 怖いもの知らずだった五十嵐さんは「歌わせていただきます」と即答。何を歌ったか覚えていないそうだが、オーナーから「ギャラを出すから歌いにこないか」と誘われた。月に1回のステージで5千円。評判が評判を呼び、他店からも「出演依頼」が舞い込むようになった。五十嵐さんは、歌う楽しさを思い出していた。

「持ち歌が10曲ほどしかなかったので必死に曲を覚えました。ピアノバーの先生が、私の声のキーに合うように譜面を作ってくださったり、個人が運営する音楽学校に通ったり。“スタンダードジャズって何?”と言うくらい知識がなかったですから(笑)」

 そして’92年、五十嵐さんにジャズシンガーの道を歩むための決意と、自信をもたらす出会いがあった。大阪日航ホテルのラウンジが、1年間ホテルで歌うシンガーを募集。そのオーディションでのことだった。

 審査委員長は著名作曲家の服部克久氏。以前、酔った客に罵倒された五十嵐さんの声を「ジャズは個性。あなたの声はすごくいい。このままで頑張りなさい」と褒めた。

 オーディションは持ち歌が少ないため、対象外だった。しかしメジャーデビュー後、五十嵐さんがMCをするラジオ番組に服部氏がゲスト出演。そのときにこのエピソードを披露すると「僕、そんなこと言ったの? 無責任なことを言っちゃったな」とふたりで笑い合った。

新人でも嫌な仕事は断るプロ根性

 レパートリーも100曲ほどに増え、自身でライブハウスに売り込むなどして仕事も少しずつ増えていったが、それでもジャズシンガーの収入は月におよそ5万円。歌で一本立ちするにはほど遠かった。

 ’93年、歌手仲間から「プロフィールにできる何かを持っていたほうがいい」とインディーズのアルバム制作をすすめられた五十嵐さんはサザンオールスターズの『いとしのエリー』などをビッグバンド風にして収録。自身が作詞、お笑いタレントのグレート義太夫が曲をつけた歌も挿入した。

音楽評論家の湯川れい子さんとは長い付き合いで、プライベートでも食事に行く仲。ここぞというときに話を聞いてくれる頼れる存在

 デモテープを東京のプロダクションに送り、ライブステージの企画を作ることもした。そして大阪日航ホテルのオーディションから2年後、安室奈美恵などが所属する『ライジングプロ』から声がかかる。

「勝負をかけるほどの意気込みはなかったです。“大阪では経験できない音楽が東京にはあるんじゃないか”と思った程度で、半年したら帰るかもしれないと、マンスリーマンションに住みました(笑)」

 ライジングプロと仮契約した五十嵐さんは、給料をもらいながら無料でボイスやダンスのトレーニングを受けた。

 ライジングプロは1年で辞めることになるが、社長から「せっかく東京に来たんだから、もう少しこっちでやってみたら」と、その後も3か月、給料を支払ってくれたという。やがて、仕事のオファーも順調に入るようになっていった。

「少しずつ活躍し始めた私を知って、大阪の友達は私が想像もつかない努力をしたと思っているようですけど、『努力』とは言いたくないです。ちゃんと音楽を勉強していないからそれなりに大変でしたけど、そのすべてが喜びだと思っています」

 弱音を吐かない、見せない五十嵐さんだからこその言葉だが、妹の憲子さんは東京でひとり暮らしをする五十嵐さんのアパートに行って、肌が粟立(あわだ)ったと言う。

 五十嵐さんの曲はほとんどが英語で歌われる。発音はネーティブと変わらないほど流暢(りゅうちょう)。本人は「子どものころ両親が外国人と日本人の子どもが触れ合うバザーやキャンプファイヤーなどの集まりに参加させてくれたので、自然と英語を聞く力が養われたんだと思います」と謙遜するが、憲子さんは首を横にふる。

「アパートの玄関、トイレ、キッチンに英語の歌詞がびっしり貼ってあったんです。トイレもキッチンも、家にいればよく使う場所ですよね。いつも目に入るところに貼って覚えていたんですね。“努力してるんやな。やるやん”と思いました」

2001年、ギタリストのジョン=ピザレリなど海外のアーティストとアルバムをリリース

 大雨で客足もまばらな都内の小さなジャズバーで、その歌声を聴き「一発で心を奪われた」と語る石川社長は五十嵐さんのジャズに対する真摯(しんし)な姿勢に感心する。出会った直後の’99年、こんな提案を持ちかけたときもそうだった。

「白いドレスを着て、何年もかけて世界中のジャズクラブを巡り、武者修行をして打ちのめされながらも帰国して日本武道館でボロボロになったドレスでジャズを歌う」というテレビ番組の企画を、五十嵐さんは断ったのだ。

「駆け出しの新人歌手なら普通は飛びつく企画だし、ミュージシャンも五十嵐が断ったことに驚いていました。だけど本人に理由を聞くと“ジャズシンガーは夢を売る仕事です。汗水垂らしてボロボロになった姿を晒して歌いたくはありません”って。これには僕も何も言えませんでした」

いつか天国の父に届くまで……

2002年、NHK総合『金曜オンステージ~いっきにパラダイス』で原信夫さん、五木ひろしさんらと共演したことが転機となった

 2000年、正式にジャズシンガーとしてメジャーデビューを果たし、ファンも増えてきた五十嵐さん。しかし、「私の歌なんて、なんの役にも立ってへんやんか!」と引退を考える出来事に直面する。大切なファンの自死である。

「歌好きの女の子でした。いつもカップルで聴きにきてくれてね。ただ、その彼と結婚して幸せだったのですが、環境の変化のためか、心の病になったと聞かされていました。私もお見舞いに行きましたが、しばらくライブに来られなかったんです。でも、“クリスマスライブには行きたいです”という連絡があり“元気になったんだね”と喜びました」

 ライブ当日、久しぶりに彼女やその家族と一緒に記念写真を撮ったりして楽しい時間を過ごした。だが翌日、友人からの電話で、亡くなったと聞かされた。

 “私はなんのために歌っているのか”“私の歌なんか、なんの励ましにもならない”“歌って、自分だけがいい気持ちになっていたんじゃないか”と落ち込み“歌えない、歌いたくない”と、ふさぎ込んでいった。

 五十嵐さんは自死したファンの仏壇に手を合わせに行き、頭を下げた。すると、彼女の夫から、「それは違います。五十嵐さんがそう思ったら彼女が救われません。彼女は最後に五十嵐さんの歌が聴きたかったんです。だからこれからも歌い続けてください」と言葉をかけられ、その場で泣き崩れた。

「逆に励まされちゃいました」と涙目で苦笑するが、これがジャズシンガーとしてのさらなる飛躍にもつながった。

 五十嵐さんは休暇を利用してマネージャーとニューヨークに渡った。多くのライブハウスを訪ね、勉強も兼ねてジャズにどっぷり浸かった。

 ある店で歌うことになった五十嵐さん。歌い終わるとジャズを知り尽くした本場の客がスタンディングオベーションをしていた。コースターの裏にサインもせがまれた。

 服部氏と同じように「日本から来るシンガーは黒人歌手のまねをする人が多く、誰をまねしているかすぐわかる。でも、こんな個性的な歌声は初めてだ」とニューヨーカーは絶賛したのだ。ささやきかけるようなエンジェルボイスは新鮮だった。

 五十嵐さんは自死したファンのことも思いながら、「もしかしたらお客様にとって、これが最後に聴くステージになるかもしれない。そう思いながらお客様のために歌おう」と改めて決意したのだった。

 五十嵐さんは自身が「ナルシストでいよう」と心がけている。自分の美しさに酔いしれるのではない。「自分が好きになる自分を作ろう」ということだ。

「例えば人様に何かいいことをしたら、それをした自分を好きになるじゃないですか。化粧が上手にできたら、その化粧ができた自分を好きになる。そうすることで自然に周囲にも優しくできます。そしてマイナス部分をプラスに変えるには、それを個性にすればいい。その個性を作れるのは自分自身だと思うんです」

10月5日、『ラドンナ原宿』のステージで観客を魅了。1曲ごとに雰囲気を変え、その世界観を見事に表現してみせた

 五十嵐さんは歌を聴いたお客さんに対して「みなさんそれぞれの受け止め方があるでしょうけど、何かを伝えられ、そして心を癒していただけたらうれしいですね」と思っている。

 そう言った五十嵐さんがふと、

「でも実は、どんなに歌っても満足することがない」

 とつぶやいた。

 どういうことなのだろう。次の言葉を待つと、亡き父、憲治さんへの思いがとめどなくあふれだした。

「父はヤンチャな私しか知らないんです。ジャズシンガーになって、こんなにも拍手をいただいている姿を見せることができませんでしたから。だから、いくら歌って頑張ってもその姿は父に届かないんじゃないかなって。

 今、私は自分でも信じられないくらい多くの出会いがあり、その方たちに支えられています。父はいつも“出会いを大切にしろ”と言っていましたから、ヤンキーだった私を心配して天国で導いてくれているんでしょうね」

 中学のときコンパスで手に穴をあけ、そこにインクを垂らして入れ墨のまね事をしたことがある。憲治さんは「人様はこれを見て、お前という人間を判断してしまうんやぞ」と烈火のごとく怒った。

「せっかくの出会いが、そんないたずらで台無しになってしまうと教えてくれたんですね。その父への恩返しも込めて、これからも、ずっと歌い続けていきたい。みなさんが“今日は楽しかったよ”と言ってくださるエンジェルボイスが、いつか父に届きますようにと願いながら」

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★五十嵐さんのLive、ラジオ番組など、詳しくはホームページで。

(取材・文/伊藤進司 撮影/坂本利幸)

伊藤進司◎ノンフィクションライター。大学在学中よりライターとして活動をはじめ、卒業後は週刊誌、月刊誌、インターネットニュースサイトなど幅広い分野で執筆。ジャンルは社会風俗から歴代総理大臣夫人のインタビュー集まで、分野は多岐にわたる。