赤木春恵さん

彼女のような役者さんはいませんよね。ユニークな優しさと、温かい厳しさを兼ね備えているような方でした

 赤木春恵さんの訃報に接した橋田壽賀子の言葉だ。11月29日、赤木さんは静かに94年の生涯を終えた。

「『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)で泉ピン子さんをいびる姑(しゅうとめ)がハマり役でした。橋田ファミリーには欠かせない女優さんでしたね。『3年B組金八先生』(TBS系)の校長先生や、NHK朝ドラ『おしん』の演技も印象的でした」(テレビ誌ライター)

 戦前の1940年に松竹ニューフェイスとしてデビューし、戦時中は満州での慰問団に参加して、一緒に旅をした故・森光子さんと親交を深めた。

町内会の行事にも

「森さんとは“ソウルメイト”だと言っていたほどの仲よしでした。私生活では'47年に東映プロデューサーの栄井賢さんと結婚し、娘さんを授かります。お孫さんの野杁(のいり)俊希さんは俳優になりました」(映画関係者)

 誰もが知る名バイプレイヤーとして活躍した赤木さんだが、地元では気軽に町内会の行事にも参加していた。

40年以上前から住んでいたんじゃないでしょうか。役員が“赤木さんが来てくれたら、みんなが盛り上がると思うんです”と言うと、進んで集まりに来て盛り上げてくださったんです」(近隣住民)

 不定期で催された親睦旅行にも、参加していたという。

便利とは言えない地域ですが、赤木さんは引っ越す気はないとおっしゃっていました。“この土地に来てから運が回ってきたの”とも話していて、地元にとても愛着があったようです」(同・近隣住民)

 近所の理容店にもよく顔を出していた。

「娘さんと一緒に来て“髪はカツラをかぶるから、顔のお手入れだけお願いします”と。何度か来るようになって“ここだと本当にゆっくりできるのよ”と言ってくださっていましたね」(理容店店主)

 孫の野杁俊希も一緒に来店したことがある。

「お孫さんがまだ芸能人になる前のことです。素敵な方だったので“お孫さんは俳優にならないんですか?”と聞いたんです。そしたら“芸能人は頭がよくないとこなせない。孫には難しいわね”って笑いながらお話ししていました」(同・店主)

 言葉とは裏腹に、実際は孫のことを愛情深く見守り、将来を気にかけていた。4年前の週刊女性のインタビューで、本当の気持ちを語っている。

今は俳優として頑張っている24歳になる孫が私の夢。早く一人前になってほしいと見守っています。先日、高崎映画祭で主演女優賞をいただいたときにもらった大きなだるまに目をいれるとき、もう私には願い事がないわ……と困ってしまって。代わりに孫のことを祈って目をいれることにしました

 家族への感謝の気持ちも明かしていた。

《自分が置かれている環境がとっても幸せで、老後に対して何の不満もありません。昨日も孫の誕生日で、家族でお寿司屋さんにいったりしました。そういう時間が本当に楽しいんですね》

 赤木さんが娘と孫を連れて通っていた寿司店『勇(いさみ)鮨(すし)』。30年以上前からの行きつけで、出前も頼んでいたという。

1年前にも車イスで来てくださいました。そのころはとてもお元気で食欲もあり、“やっぱり食べる方は元気なんだな~”と思った記憶があります」(店主の鈴木健一氏)

 いつもカウンターに座り、目の前で職人たちが握る様子を見ながら寿司を楽しんでいた。

数の子、赤貝、手巻きと何でも召し上がりました。白身魚もお好きでしたね。一番お好きだったのは中トロかな。いつもお孫さんに“もっと食べな”ってお寿司を勧めていました。ご家族と本当に仲がいいということが伝わってきました」(鈴木氏)

 先のインタビューでは、自身の死についての思いも打ち明けていた。

《死へのこだわりは……あります。嫌なのは、私のスッピンの顔でみなさんにお別れすること。最後が見苦しいのは嫌ですから。でも、唯一気にしていたのはそれだけです。娘に伝えたら、長年メイクを担当してくれた方に頼んでくれるそうです》

 娘の野杁泉さんは、1か月半ほど前から傍にいて見守り続けてきた。少しずつ衰弱し、大きな声が自慢だった母の言葉が50センチの距離でも聞き取れなくなっていく。

「それでも“お友達とはどう?”と孫たちに語りかけたりして、病室へお見舞いに来た方も私たちも、周りはいつも笑顔でした。看護師さんたちにも丁寧な言葉遣いで接していて“芸能人なのに気取らない方で、ファンになりました”と言っていただきました。

 こんなに好きと言ってくださる方がいるということは、いい意味で普通だったんだと思います

 普通の人を演じ続け、人柄と演技が幸福に結びついた女優人生だった。