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 日本で暮らす障がい者は現在、約936万6000人。全人口の7・4%にあたる。高齢者が増化傾向にあるというが、もちろん、子育て世代もいる。障害のある女性たちは、どう子どもを産み育てているのか。その実態は、あまりにも知られていない。

障害のあるママの出産・子育てを阻むもの

 大阪市大正区の一角に『障害者自立生活センター・スクラム』はある。「障害者の、障害者による、障害者のためのサポート」に取り組むNPO法人だ。

 ここで相談支援専門員として働いているのが、尾濱由里子さん(50)。夫とともに中学1年生になる娘を育てているワーキングママだ。視覚障害があり、網膜色素変性症という難病で、現在はほぼ全盲に近い。

 障害のある人からは、どのような相談があるのだろうか?

「大きく分けて2つですね。メインは障がい者の計画相談支援といって、介護保険のケアマネージャーさんのような仕事が中心。もうひとつは、ピアカウンセリングで話を聞き合うことや、飛び込みで相談に来られる方の対応をしています。ヘルパーさんの頼み方など、内容はいろいろですね」

 ピアカウンセリングとは、同じような境遇や障害のある人同士が、対等な立場で悩みや不安を話し、共感的に聞き合いながら、解決策を見いだしていくカウンセリングのことだ。ひと口に障がい者といっても、その種類はさまざま。由里子さんのように、生まれつきの障害がある人もいれば、人生の途中で障害を持つ人もいる。

 由里子さんは香川県で生まれ育った。

 弱視で誕生し、4歳のころに視覚に異常があることがわかり、香川県から連絡船で何度も岡山県に渡って大学病院で診察を受けた。その結果、網膜色素変性症という特定疾患であることが判明する。約半数は遺伝子異常によるものと考えられ、徐々に視力や視野が衰え、いずれは失明する進行性の難病だ。

 高校生まで地域の学校で学び、見えにくい不便さは多少感じながらも、障がい者という意識を持つことなく育ってきた。しかし、芸術系の短大に進んだころから、視覚に限界を感じるようになる。

 卒業後、いくつかの職に就いたが、視力も視界もどんどん衰え、それまでできていたことがひとつひとつできなくなっていった。

 自分が自分であるという自信を失い、未来に絶望しかけた由里子さんだったが、33歳で一念発起、大阪にある視覚障がい者のためのリハビリ施設に入所する。歩行訓練や音声ソフトによるパソコン操作などを学んで、一般事務の職を得た。

 そんな過程で由里子さんは、ある誤解をしていたことに気づく。

由里子さんは夫と12歳の娘の3人家族。結婚や出産を頭からあきらめていた時期もあったという

「メディアに踊らされていたと思った。つまり、『24時間テレビ』などで流れる“頑張る障がい者”のイメージを植えつけられていたことに気づいたんですね」

 私はあんなふうに頑張れない。結婚なんて無理、親戚付き合いなんてできないし、法事でも立ち回れない。料理をきれいに盛りつけられないし、ダンナのネクタイもよう結べへん……。

 だが、ピアカウンセリングを続けるなかで変化が訪れる。子どものころから心の奥深くに眠らせていた、結婚と出産への思いがあふれ出てきたのだ。

 私は私らしく生きればいい。目が見えなくても私は私。もうあきらめるのは嫌だ。結婚も出産も、何もかもあきらめない。そんな前向きな気持ちを持ち始めた由里子さんは、ピアカウンセリングのスタッフだった男性と出会う。

 彼は、由里子さんの目が好きだと言ってくれた。ずっとコンプレックスに思っていた目をきれいだと言ってくれたのだ。星が見えない由里子さんに、当たり前のように「一緒に星を見よう」と言ってくれたのだ。

 2003年、由里子さんは彼と結婚した。

はびこる「優生思想」の闇

 出産、子育ては、想像以上に大変だった。

「まさか差別や偏見との闘いになるとは思いもしませんでした。最初は、医療関係者でも障がい者のことを知らないからだろうな、くらいに思っていたんです。ところが、出産が現実のものになるにつれ、よりはっきりと壁に直面していきました」

 妊娠初期に通ったのは、自宅マンションに近く、おいしい病院食で知られる有名な産婦人科だった。

 ある日の検診で由里子さんが通されたのは、いつもとは違う診察室だった。そこには、いつもの女医ではなく、男性の医師がいた。

「この病院で産むつもりですか?」

 いきなり聞かれた。

「目が不自由なんだよね? ちょっとうちじゃ、そういう人をサポートする体制がないから、大きな病院で産んだほうがいいよ。それに産んでからどうするの? あなたひとりで育てられるの? 

 あなたの目は遺伝性なのかな。じゃあ、なおさらうちではダメだね。大きな病院なら生まれたらすぐ検査できるし、対応もちゃんとしてるから、そっちのほうがいいよ」

 一見、気遣いをしているようで、容赦なくたたみかける医師の詰問に、由里子さんは声が震えないように、気持ちを落ち着かせながら答えていった。

 たいていのことはひとりでできる、入院中は夫やヘルパーに来てもらう、遺伝については夫婦ともにまったく気にしていない……。

 それでもなお詰問する医師に、由里子さんは気がつくと、こう叫んでいた。

「障がい者は子どもを産んだらダメなんですか?」

 どうやって帰ったか記憶がなかった。ふらふらな状態で部屋に倒れ込んだ途端、涙があふれてきた。悔しくて悔しくてたまらなかった。私は差別を受けたのだ──、由里子さんは初めて、そのことに気づいたのだった。

 その後、夫とともに産婦人科に出向き話し合いの場を持ったが、病院側は他院へ移ったほうがいいと言ってきかない。分娩室に行くまでのエレベーターが危険だとか、いざというときに対応できかねるなどの理由を次々と持ち出してくる。その態度に疲れ、結局、由里子さんたちは別の病院に移ることを選択した。

「遺伝性の病気となると、いまだに優生保護法の考え方が出てくる。世が世なら私は生まれていないし、娘もこの世に生まれてくることはなかったんでしょう。病院の中に優生思想がものすごくはびこっているのを実感して、恐ろしさを感じましたね」

 優生保護法は1948年、「不良な子孫の出生防止」を目的に作られ、これをもとに、障がい者への強制不妊手術も行われてきた。1996年に母体保護法に改正されたあとも、由里子さんの経験を見る限り、優生保護法は現代に生き続けている。

障がい者の子育ては想定外!?

 2005年の夏、由里子さんは総合病院の中にある産科で無事、娘を出産した。新しい命の存在は力を与えてくれた。だが、そこから「障がい者の子育て」に対する社会の壁が次々と目の前に現れる。

 娘が保育所に行くようになると、送り迎えのときに介助制度が使えないことがわかった。障がい者の介助ヘルパーは、障がい者本人を介助するためにある。子どもの送り迎えが目的なら、ヘルパーが付き添うことはできないというのだ。

視覚障害があっても料理は楽しめる。音声で火加減を教える調理器具もあるとか

 由里子さんは意見書を出したりメディアに出たり、できるだけの方法でぶつかった。また、障害のある親の集まりを作ったりしながら、声を出していった。そのかいあって2年後には、特例として送り迎えの介助利用は認められた。

「まず大阪市に理解してもらうよう支援を募りました。障がい者への支援はあっても、障がい者が出産して子育てするということ自体が想定外で、そのための支援は考えられていません

 平日の夕方になると、夕食の準備のため毎日、ヘルパーに来てもらっている。土日に出かけるとき、参観日などの子どもの用事があるときにも、同行援護のヘルパーに介助を頼む。それが由里子さんの日常だ。

 娘の通う小学校に呼ばれて、特別講師として話す機会もある。

「私は目が見えないだけでみんなのお母さんと同じなんだよ。いろんな工夫をしながら、ヘルパーさんに頼んだりしながら暮らしてるんだよ」そう言うと、子どもたちは「ああ、そうなんだ」と理解してくれる。

 いま彼女が目指すのは、障がい者が立ち止まらなくてすむような社会だ。

「障がい者として生きていると、いろんなつまずきがある。だから、それがなくなるような社会を作りたい。そのために趣味にしても、どんな些細なことでもあきらめないで挑戦したいです。

 自分が頑張るだけでなく、社会の障壁を取り除くにはどうすればいいか。下から見たら、横から見たら、解決策はあるかもしれない。それを仲間と一緒に考えていきたいですね」