「自分を好きになることが大事」と歌川さん

「あんたなんか産まなきゃよかった!」

 女優の吉田羊がそう叫びながら、実の息子に向かって包丁を振り回す。昨年秋に公開された映画『母さんがどんなに僕を嫌いでも』の一場面だ。

 子どもを徹底的に虐待しつづける母と、それでも母を求めてしまう息子の20年以上にわたる関係を描いた作品で、原作は同名コミック。漫画家の歌川たいじさん(52)が、実体験をもとに描いたものだ。

おまえなんかいらなかった、死んでよ

 近所でも評判の美人で口がうまく、「踏んではいけない地雷が毎日変わる母」に、幼いころからたいじさんはつらく当たられたという。

「食べ物を残してぶたれたから次は完食すると、今度は“だから太るんだよ! この豚!”と怒鳴られぶたれる。何が引き金になるかわからず、ビクビクしてばかりの日々でした」

 東京・下町で工場を営む父と母、3歳年上の姉の4人家族。父は子どもに無関心、姉は自分の身を守るので精いっぱいで母親の側についた。工場の工員だけが、たいじさんに優しくしてくれた。

「ばあちゃん、と呼んでなついていた事務員の女性がいました。ばあちゃんだけはいつも僕の味方でいてくれて、僕が作るお話を楽しみに聞いてくれたんです」

 美しくモテる母が家の外でほかの男と会うことに、幼いたいじさんは勘づいていた。

「ある日、父親に母の浮気を問い詰められ、答えないでいると殴られ蹴られ、宙づりにされました。9歳の子どもがしらを切り通せるわけもなく、結局は白状してしまいました。そうしたら今度は母に、“あんたのことなんか2度と信用しないからね”と突き放された。本当につらかったです」

 その一件があった数か月後、たいじさんは肥満を理由に体質改善の施設に入れられてしまう。1年後、帰宅したたいじさんを待っていたのは、両親の離婚……。大好きな“ばあちゃん”とも離れ離れに。

 それを機に虐待がエスカレートしていったという。

 お腹を踏みつけられる、麺打ち棒で頭をぶたれる、竹刀でのどを突かれる、手の甲にタバコを押しつけられる……といった暴力。暴言もひどく「おまえなんかいらなかった、死んでよ」「あっちへ行け、気持ち悪い」「お前の醜い顔を見るとうんざりする」などなど。

 たいじさんの腕の裏側には傷痕がある。小学校6年のとき、母親に刺身包丁で切りつけられ、とっさに腕で頭をかばった傷だ。血だらけで登校すると、保健室からすぐ病院に運ばれた。5針縫合するほどのケガだった。

「教師にその傷はどうしたか聞かれ、ブリキで遊んでいたら切った、と言ったんです。そしたら教師は、“じゃあ学校は関係ないから、保険は下りない”と。虐待を見て見ぬふりをしたんです。もう誰も助けてくれないって、世界に対する絶望感がすごかった……」

母と対峙することを決意

 中学生になると、たいじさんにはマンションのベランダの物置があてがわれた。雨漏りし、夏は暑く冬は寒い。いつの間にか発症していたアトピー性皮膚炎は悪化し、学校では「汚い!」とののしられ家でも母親にののしられ、四面楚歌。

 朦朧(もうろう)とした日々の中、同級生の些細なひと言にキレてしまい高校を退学に。そのころたいじさんは「心因反応」という心の病気にかかっていた。医師の診断もあったのに母親はそれを「嘘つき」呼ばわり。「このままでは心が壊されてしまう」と感じたたいじさんは17歳のときに、家を出た。

「死ぬのを待っているような日々でした」というそのころ。しかし、たいじさんはそこから自分を立ち直らせる。危篤だった“ばあちゃん”に再会したことがきっかけだった。

「偶然、元工場で働いていた人に会って、ばあちゃんが危篤だと知りました。それでばあちゃんに会いに行って僕はばあちゃんに笑ってほしい一心でいろんな話をしました。

 “いま僕は豚の工場で働いていていつも豚ばっか見てるよ、豚が豚見てるって笑っちゃうよね”とか、太っている自分を豚にたとえて自虐的な話をしたように思います。そのとき、ばあちゃんはクスリとも笑わずに僕の目を見て言ったんです。

 “ばあちゃん、たいちゃんにお願いがあるの。僕は豚じゃないって言って”と

 幼いころから虐待を受けていたたいじさんは自分を否定する癖がついていた。たったの8文字がなかなか言えなかった。やっとの思いで吐き出すように言えたたいじさんの目からは涙がこぼれて止まらなくなっていた。

「その日から、未来を考えるようになりました」

 通信制の高校で学び、大学では学生ミュージカルに参加し自分を表現することを学んだ。卒業後は就職情報会社に就職。かけがえのない友人と触れ合うことで、

「自分を立て直したいって思ったんです。そのためには母と対峙するしかないと」

 そのころの母親は、再婚相手が借金を残して亡くなり、アルコール依存症に陥っていた。

「留守電に、睡眠薬送ってと泣きながら残す。自分が困ったときだけ連絡してくるんです。相変わらず“あんた本当にいらなかった”とか“私だって大変だった”とか言ってくるわけです。

 憎たらしくてしょうがないけど、一緒に金策に走ったり、ごはんを作ってあげたり掃除をしてあげたりする日々が始まりました。僕が30歳くらいのときです」

 だが、母との日々はそう長くは残されていなかった。

 ある日、遠い海辺の町の警察からかかってきた電話。母が水死体で見つかったという連絡だった。

「やっと母が“あんたがいてよかった”と言ってくれたばかりなのに。前日も、一緒に焼き肉を食べて新しい仕事の話もしたばかりなのに、何で? って感じでした」

 死にたいほどの絶望にも見舞われたたいじさんを支え続けたのは「希望」。

「お話や文章を考えるのが好きで、いつか誰かが僕を見いだしてくれる、そんな気持ちでいたように思います。

 たまたま母が亡くなるまで1年間、仲のいい親子として過ごせました。僕には正解でしたが、みんなにそうしろとは思わない。それぞれに正解があっていい。ただ憎しみを一生抱え込むことは正解ではない。憎しみから解放されて生きてほしいと思います

 虐待サバイバーとして立ち直った立場でそう呼びかける。