「おはようございます、イルカです。12月なのに、あら、暖かいなあという日があったり、一気に寒くなったり。

(中略)今朝ものんびり聞いてくださいね、『イルカのミュージックハーモニー』です」

 ここは東京・有楽町、ニッポン放送のスタジオ。副調整室のスピーカーから、明るくやわらかい声が流れ出てきた。

 日曜の朝7時からのこの番組は、『なごり雪』で知られるイルカさんのハートフルなトークとフォークの名曲の数々で、世代を超えて愛されるニッポン放送の人気番組。

シンガー・ソングライターのイルカさん

 同番組のディレクターとしてもう28年のお付き合いという伊藤了子さんが、イルカさんをこんなふうに言う。

「お便りに関しても、その方がどんな方で、どんなふうに聞いてくださっているか想像をふくらませてくれるんです。だからお便りのなかの、私たちが思いもよらなかったところに注目して、お便りと会話しながら進めてくれる。イルカさんならではですね」

 スタジオのブースのなかで、イルカさんがリスナーからのお便りを読み上げる。

「大好きな方とお別れして途方に暮れていたころの私に言ってあげたい。失恋なんてたいしたことない。この先、もっとつらいことが待っているけど、ケセラセラ(なるようになる)で乗り越えていけるって」

 イルカさんが答える。

「その真っただ中には、ケセラセラとはとても思えないこと、ありますよねえ」

 明るい口調なのに、そこはかとない痛みを感じさせるのは、実体験からこぼれ出た言葉だからにほかならない。

◇  ◇  ◇  ◇

 イルカさんは、日本のジャズシーンの生き証人ともいえるテナーサックス奏者兼アレンジャーの保坂俊雄氏のひとり娘として生まれた。

 “いちばん好きなものは?”と尋ねられれば、今も昔も躊躇(ちゅうちょ)なく“音楽!”と答える。

 だが、子どものころ抱いていた夢は、獣医になること。引っ込み思案で、人前で演奏したり歌ったりするより、動物たちと向き合い自然のなかで暮らすほうが、ずっと自分に合うと思っていた。

 それもあってか、3歳でピアノを始めたが、気乗りしないものだった。

「私の未来は毎週水曜日、この先ず~っとピアノに行く日だと思ったら、嫌になった(笑)。それにお教室に行くと、お母さん方が“うちの子はバイエルの何番まで進んだのよ”と競争している。“なんで表現に競争を持ち込むんだ!?”と違和感を覚えていました」

 中学受験を言い訳にピアノは小学5年ですっぱりとやめ、東京文化学園(現・新渡戸文化学園)に進学。そんな中学1年のときに、人生を変えるものと出会う。ビートルズだ。弾けるようなビートとサウンド。のめり込むように夢中になった。

 今も語り継がれる1966年6月のビートルズ来日時には、機動隊の厳重警備をものともせず、4人が泊まる東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル 東急)に突撃した。「ホテルの壁に触って“彼らにつながっている、シアワセ♪”って妄想少女でした(笑)」

ビートルズの影響でマッシュルームカットをしていた中学時代

 “結婚するなら絶対ビートルズのメンバーと!”そう決めていた少女は東京文化学園高等部で器楽部に入部。選んだ楽器はギターだったが、なんと当時はギターにコードがあることさえ知らなかった。

 ずっとのちの1986年、イルカさんはアルバム『エッセイ』に『17ページのエッセイ』という歌を発表している。

「夢の中にね、小生意気な少女が出てきて、“音楽はコードなんて知らなくてもできる!”って私に話しかけてきたんですよ。朝起きて“腹立つやつだな”と思ったんだけど、よく考えたら、“あれ、私じゃん”って(笑)。17歳のときは、あんなでした、私。何ひとつ怖くなくて。そんな自分を曲にしたんです。“私はいつだって音楽が好きでやっている。それでいいじゃん”って」

 卒業を数か月後に控えた高校3年の夏、イルカさんは女子美術短期大学への進学を決意する。音楽は縛られるものでなく、競うものでもない。あふれるままに表現するものこそが私の音楽。そう思ってこその、音大でなく美大への進学であった。

『フォーク界のジュリー』と出会って

デュオで活動した「シュリークス」時代のイルカさんと神部さん

 女子美では『芸術科生活デザイン教室』に入学した。

 ところが入学早々、転機がやってくる。学食の壁に、フォークソング同好会参加者募集のポスターを見つけたのだ。

「何回か前を通り過ぎたんです。それで“どんな感じなんだろうなあ”と思ってのぞきに行ったら入っちゃった(笑)」

 “イルカ”というニックネームがついたのも、実はこのころ。メンバーが並んで歩くのを後ろから見ていたらギターケースがイルカに見えて「イルカの大群が泳いでいるように見えるね」と言ったことを気に入られて、もうひとつの名となった。

 そんなイルカさんのもとに、運命の出会いがやってくる。コーラスやギターの弾き方を教えようと、早稲田大学のフォークソング・クラブからひとりのコーチがやって来たのだ。

 その人の名こそ神部和夫。

 深夜放送のオールドファンには『カメ吉くん』、フォークファンには『シュリークス』の中心メンバー、音楽ファンには名プロデューサーとして知られ、のちにイルカさんの夫となる人である。

 当時、神部さんは、やわらかな人当たりとボーイソプラノですでに多くのファンの心をつかんでいた。そんな“フォーク界のジュリー”が美大にやって来るのだ! 当然、引く手あまた。神部さんも親切にコーチする。

 ところがイルカさんに限っては“教えることはなにもないですよね?”と素っ気ない。

 ずっと後になって、目の前にいた女の子はこんな繊細な詞を書くこととなる。

♪悲しい顔は誰にでもできる。心に涙を隠したら、花束抱いて空を飛びます いつか見た絵のように♪(ジャスミン&ローズ/40周年記念~イルカセレクトベスト2『ぬけがら』より)

 神部さんは彼女の才能を感じ取り、余計な色をつけたくないと思っていたのだ。

 イルカさんもまた、特別なものを感じていた。

「初めてパッと見たときに、“なんか懐かしい感じがするなあ”と。面白いですね。一瞬にして、“これからずっとこの人と一緒にいるんじゃないか?”と感じましたから」

 出会うべくして出会った2人は自然に距離を縮めていく。「彼から“コンサートをやるんで、ステージの上に飾る『Folk Song』という文字を作ってくれませんか?”と電話がかかってきたのが、個人的に話した最初のきっかけでした」

 コンサート活動をするかたわら、神部さんは夢である音楽プロデューサーを目指して放送局やレコード会社に出入りを始め、着々と将来への布石を打ち始めていた。  

 当時、イルカさんは短大2年の19歳、神部さんが大学5年の22歳。わずか3歳の差とはいえ、考え方も物事のすすめ方も、はるかに大人だった。

 そんな19歳の春、神部さんからこんな言葉を聞く。

“僕と一緒にシュリークスをやっていかないか─?”

 当時のメンバー、山田パンダさんも所太郎さんも独自の道を模索し始めていた時期で、神部さんのその言葉は、新生シュリークスへの勧誘であると当時に、プロポーズの言葉でもあったのだ。

「やっぱり来たな、と(笑)。でも、その場で即答すると軽い女と思われちゃう(笑)。それで2週間後ぐらいかな“もちろん喜んで”と答えました」

 シンガー・ソングライターの南こうせつさんが当時のイルカさんをこう証言する。

「顔も体形も今とホント変わらなくてね(笑)。洋楽が好きだったのかな、その要素を曲作りとか歌うときに取り入れていましたね。新しいものに敏感で、積極的に取り入れていましたね。新しいもの好きだと思いますよ」

 1972年5月1日、21歳と24歳の若い2人は、軽井沢の聖パウロ教会で挙式。

 それは2007年の神部さん死去まで続く、素材とプロデューサー、そして保護者と被保護者ともいうべき、2人の不思議な関係の幕開けでもあった。

1972年、軽井沢聖パウロ教会での結婚式にて

 

「私を素材としてあげる」

 新婚生活とほぼ同時に、神部さんとイルカさんの新生シュリークスの活動が始まった。

新生「シュリークス」時代のイルカさんと神部さん

 結婚前の、’71年10月には、東芝から『きみまつと』を発売。2人は声がかかれば日本全国どこへでもコンサートに出かけた。真夏にクーラーもない所で歌ったり、真冬のスキー場で鼻がもげそうになりながら歌うこともあった。 

 そんな最中、神部さんが重大な決断をする。イルカさんのプロデュースに専念するというのだ。もともとプロデューサー志望とはいえ、すでに世間に名が通り、歌もうまい。

「でも彼は言っていましたね。吉田拓郎さんに出会ったときに、“これからは歌がきれいに歌えればいいという時代じゃないと思った”と」

 小柄な身体に少年を思わせるハスキーめの声。ユニークな詞に、音楽の常識を軽々と飛び越える不思議なコード展開を平気で持ってくるイルカさんの才能に、賭けようというのである。

 結婚2年後の’74年、シュリークスは解散し、イルカさんはソロデビューした。

ソロデビュー後のイルカさん

「“神部がソロになってイルカが家庭に入る”。みんなそう思ったんです。そうじゃなくてイルカがソロになると聞いた途端、“えっ、あのドラ声が!?”って(笑)」

 だが、もっとも驚いたのはイルカさん本人であった。

「私は家庭に入って普通の奥さんになりたかった。でも夫は“とんでもない! 自分がプロデューサーとなり、イルカを盛り立ててみせる!”と。それで私も根負けして“そんなに言うなら私を素材としてあげる。売れるもんなら売ってみなさい!”って。ミュージシャンとしての人生を捨ててまで私に賭けようと、そこまで言ってくれるなら私も本望だし、私より私のことがわかっていると思っていたから」

 イルカさんの愛息で、シンガー・ソングライターの神部冬馬さんが言う。

「父がプロデュースしていたときは、“こういう曲を歌ったほうがより多くの人に共感される”というところを重視して曲を作るとか、コンサートの曲のリストを作っていました。母の音楽に必要としているものを、母よりずっとわかっていたと思います」

 以来、音楽の分野でイルカさんがやることといえば、詞を書き、曲をつけ、歌うことのみ。アーティスト・イルカの方向性を決める企画会議にも、本人は出席しなかった。

「結婚してからの1年ぐらいは、買い物に行くというと夫からお金をもらっていました。帰ってくると、ジャラジャラとお金を出して、レシートと一緒に“はい、これ買いました”。ホントに子どもみたいな生活でした」

 その後もずっと、ギャラの額も知らなければ、財布を持つこともなかった。

 往年の大スターのようでもあり、保護者といたいけな子どものようでもある夫婦関係。

 さらに夫は、相当なギャンブラーでもあった。

「結婚して3日目に、徹夜麻雀(マージャン)で帰ってこなかった(笑)」

 後に周囲の人からも心配され、こう言われたことがある。“神部さんが競馬やラスベガスで、ひと晩でどれだけ使っているか知ってる!?”

 だが怒ったこともなければ、疑問に思ったこともない。生活に不自由はなかったし、音楽に専念できるのは、夫あればこそだったからだ。

「私には働いているっていう意識はなかったんです。私は好きな歌を作って歌っている。彼はその間にプロモーションをする。むしろ彼が働いていて、そのお金を使うのは当たり前だと思っていました」

 妻の立場でいえば、麻雀で不在がちな夫は心配の種。だがアーティストとしては別。

「私、曲を作るときに誰かの気配があると絶対に作れない。夫が不在がちであればこそ、“この人となら一緒に暮らせる”と思ったの。結婚して3日目に徹マンしてくるなら、“自由な時間がこれからもいっぱいある。ひゃっほ〜!”って思いましたね」

 さらにはアルバム作りでレコード会社との間に立って守ってくれたのも夫だった。曲のカットや変更などの要望に対しては“それをしたらイルカじゃなくなる”と、何回盾となってくれたことか。

 そんな2人の夫婦仲は、極めてよかった。 

 冬馬さんが2人の私生活を、

「家では全然仕事をしない両親でした。プライベートを大事にしていて、絶えず仲がよかったですね。父が声を荒らげたことなど見たこともないです。かといって2人で音楽を聴いたり、ギターを弾いたりというのも見たことがない」

息子の冬馬さんと家族3人で

 平気で家を空ける夫は、確かに妻のため猛烈に働く人であった。イルカさんの人気を決定的にした’74年の『オールナイトニッポン』のパーソナリティー就任も、神部さんあればこそ。さらにはこの番組での大ブレイクも、神部さんが演出したものであった。

「当時主流だった“DJとして上品にささやきかけるのはイルカのカラーとはいえない”と。どうしようかと考えて、思いっきり叫んでみようか、と」

 水曜の深夜、特製の大エコーとともにラジオから鳴り響く“バッキャロ~!”の大音声。あの『イルカのバカヤローコーナー』の誕生であった。

 以来、番組の人気は右肩上がりのひと言。ついにはリスナーからのハガキがニッポン放送のテーブルからこぼれ落ちるほどになっていく。

 そして1975年、イルカさんはあの不朽の名曲『なごり雪』と出会うこととなる。

『なごり雪』のイルカとして大ヒット

ソロデビューしたイルカさんと、夫で名プロデューサーの神部さん

「(なごり雪は)もともとかぐや姫のアルバムに入っていた名曲で、夫がものすごく好きな曲でもあったんです」

 “イルカに歌わせたい!”

 そう言って関係者を口説いたのも、実は神部さんだった。

 南こうせつさんがこう語る。

「(この曲がイルカさんに合うと)直感でわかりました。あの曲のなかには“僕”という言葉が出てくるんだけど、この言葉が合わない女性歌手っているんです。でも違和感がまったくなかった。あの曲は伊勢正三が学んできた音楽のすべてがつまった曲なんですが、それを受け止める高い音楽性をもっていましたね」

 ’75年11月リリースの『なごり雪』は、まさになごり雪の季節となった翌3月に火がつき、80万枚を超える大ヒット曲となった。40年以上たった今もなお歌い継がれている。

 神部プロデューサーは大ヒット後も次々と思いがけない手に打って出る。

 翌’76年には『五つの赤い風船』のリーダーにしてフォーク界の大御所・西岡たかしさんを口説き落として『なかよしコンサート』を全国30か所で敢行した。イルカに好意的なファンの前だけでの演奏では成長はない。夫からの“しごき”ともいえそうなジョイントであった。

 ’77年には、イルカ冬眠(休業)。これも本人でなく、神部さんが決めたこと。

「ずっと何年も休みもない日々が続いていたんです。当時はコンサートへ行っても、その夜は深夜放送の生放送に出て、翌日はキャンペーン。そんな毎日でしたから疲れ切っていたんです」

 “シンガー・ソングライターの名前に甘えるな!”

 これが名プロデューサー神部さんの口癖であった。アーティストとして斜に構え、居心地のいい世界に浸りきるより、歌謡曲の人たちとも同じ土俵でヒットを出し、そうなることで出したい曲、考えを知ってもらうべきだというのである。環境や自然との共生など、自分の世界に走ろうとする妻と、その世界を知ってもらうためにこそ、共感できるヒット曲が必要だという夫。

 磁石が正反対を向くことで磁石であるように、こんな2人でなければ“アーティスト・イルカ”はありえなかった。

 小学6年のとき、誕生日に姉からLPをもらって以来、熱心なイルカファンというスピリチュアリストの江原啓之さんも、「神部さんがすごいのは、10代で結婚したほどの大恋愛でありながら、プロデューサーであることを貫いたところ。イルカさんは神部さんの分身であり、どちらが欠けてもありえないというところで、“音楽界の藤子不二雄”だったんじゃないでしょうか?」

 休業中の結婚7年目、’78年には冬馬さんを出産した。

 2年間の休業をはさんで’79年6月にカムバックを果たしたが、そのコンサートのチケットは即日完売。復帰第1作のシングル『海岸通』も順調に売り上げを伸ばし、アルバム『いつか冷たい雨が』がLPの売り上げ1位を記録した。

 さらに翌年には、女性シンガー・ソングライターとして初めて日本武道館でのワンマンリサイタルを開催する。

 アーティストとして頂点を極めた’80年代、それは実にさりげなく、静かに2人のもとにやってきた。’85年ごろ、神部さんが左手の指輪を気にしながらつぶやいた。“手の震えが止まらないんだ……”。

 モデルクラブの運営やアイドルの育成にも活動を広げ、多忙の極みのような状態。

 “疲れが出たんだろう”本人もイルカさんも、その程度のことだろうと思っていた。

 だが、人と交わることを仕事としていたその人が、人と会うのが怖いと言い出す。電車に乗れば汗が噴き出し止まらない。ほうほうの体(てい)でタクシーに乗り家に引き返すようなことが続くうち、とうとう引きこもりのような状態に。

 病院に行って検査をしたが、何が原因なのかわからない。病名がわかったのは、発症から3年もたった後のこと。

 神部さんは脳内のドーパミンという物質が減ることで発症する、パーキンソン病に冒されていたのだった。

病気は「敵」ではなかった

 仕事人間でその仕事が絶好調でありながら、仕事に行くことに耐えられないとは、どれほどつらいものだったか……。

 神部さんは事務所であるイルカオフィスにも顔を出せなくなっていき、強力な薬によって幻覚に苦しめられることも増えていった。外食は個室のある店か、よく知った店以外には行かない。パーキンソン病は神経性の病気である。身体の動きを司(つかさど)る神経の働きが阻害され、突如として身体の硬直が起こる。それを見た人が驚くのを案じたためだ。

 江原啓之さんは、イルカさんには内緒でこんな相談を持ちかけられたことがあった。

“イルカさんが今後みんなのためにどう生きていくべきか?”という相談でした。ご自身の病気のことじゃないんです。妻のことを私人でなく公人と見ていたように思います。逆にイルカさんに、妻として寂しいところはなかったのかな、とは思いますね」

 今振り返れば、「病気は敵でも、憎むべきものでもなかった」とイルカさん。家族の団結や体験は、紛れもなく貴重なものだった。

「もちろん“なんで彼が!?”って思ったことはいっぱいあったけど、あえてつらいことを教えてくれるというのは、親の愛にも似ているなぁと思ったことがあって。人の悲しみや痛みは、自分が体験しないとわからない。そういう意味でも夫と一緒に過ごせたのは、ありがたかった。きっといつか自分や家族の糧になっていくと思わないとつらかったからかもしれないけれど」

闘病中の神部さんはお孫さんに会えるのも楽しみにしていた

 最近、コンサートに来てくれている人たちへの思いがさらに深まってきた。どのひとりにも、その内側にはさまざまな現実や思いを抱えていることが、手に取るようにわかるのだ。“年のせい”と笑い飛ばすが、年齢すなわち経験である。神部さんとの経験は、確かに現在の、“人間イルカ”を形作る一部となっているのだ─。

夫への感謝、ひとり立ち

「恋をするのもいいかな」とイルカさん

 2007年3月21日、20年近くにわたる家族からの献身的な介護の末に、神部和夫さんは亡くなった。

 公私におよぶこれまでの万感の思いを込めて、夫の顔を撫(な)でつつ“ありがとう”を繰り返すイルカさんに応えるかのように、大きく目を開けてはつむることを3回繰り返し、神部さんは旅立っていった。

 同年5月8日、ちょうど四十九日にあたる日に南こうせつさんを発起人代表に『神部和夫さんを送る会』を開催。“僕が死んだら派手に送ってね”との遺言を守り、伊勢正三さんや小田和正さん、杉田二郎さんや谷村新司さんなど、著名アーティスト勢ぞろいという華々しさであった。

 このときのイルカさんを冬馬さんが回想する。

「落ち込んでいたと思いますが、見た目は気丈に振る舞っていましたね。でも本人は、“これで音楽はやめるかもしれない”と思っていたらしい。あとから知って、これには僕もびっくりしました」

 イルカさんが当時を振り返る。

「(夫が)亡くなったときは、もう人前に立って歌うことはできないと自信をなくしてしまって。気持ちの切り替えができたのは“送る会”のおかげです。この会に音楽がないのはありえない。夫が作った歌を、父、息子、孫と、家族みんなで歌おうということになって。それで練習するうちハッとして“私、歌っている”と。でも最近になって気がつきました。これも“プロデューサーの企てだ! のせられた!”って(笑)」

2013年、冬馬さんとイルカファミリーコンサートにて

 南こうせつさんが会でのイルカさんの様子を振り返る。

「“私も頑張ったし、夫も頑張りました。本当にありがとうございました”そんな温かい挨拶をなさっていました。やれることはやり尽くしたと、悔いを感じさせなかった。本当に胸にくる言葉でしたね」

 生前の神部さんが、ひとり言のようにつぶやいていたことがある。

 “僕はいつイルカを自由にしてあげたらいいんだろう?”

「それを聞くたび、“私はいつだって自由だから”って。 夫が病気になって、私、海外を巡るようになったんです。自分を見つめ直すためにね。あとになって“なんで私ばっかり不自由?”って後悔して夫を責めたら最悪でしょ? 闘病中でも“お父さんが行かせてくれたおかげで幸せ。この幸せをお父さんに返すからね!”とイキイキと言えることが大切だと思ったから。私はずっと自由でした」

 新生・自由なイルカは、介護生活と向き合う葛藤のなかで助走を始めていたのだ。

 齢(よわい)50歳、夫を失って始めて、ギャラの金額も知らなかった彼女が事務所の社長業に乗り出し、スタッフミーティングへも参加を始めた。南こうせつさんも変化を感じていた。

「人間愛とか自然愛とか世界観が、ますます深まったように感じます。それを難しい言葉でなくて、笑顔で表現するのがすごい」

 デビュー45周年のアルバム『惑星日誌』の『人生フルコース』で、自らの人生を振り返りこんな詞を書いている。

♪夫には先立たれたり淋しい日々もあったけど 孫も大きくなりました まだ先は永いこの道は 山あり谷あり 人生フルコース デザートは…これからさぁ!♪

「確かに50代は大変な時期で沈んだけど、還暦過ぎたら世界が広がった。最後によいデザートがあるじゃないかと気づいたんです」

 イルカさんは、そのご褒美の時間を味わうように、チャリティーや表現の世界で、活躍の幅を広げている。

チャリティーコンサートも大事な活動のひとつ

 2004年にIUCN(国際自然保護連合)の親善大使に任命されてからは、手弁当でコンサートを開いては動植物の保護を訴えるほか、震災復旧支援のコンサートもたびたび開催。

 2012年からは、着物のデザインのみならず、手描きや染めも始めた。

 社長業という大役、自分自身のプロデュースも、以前はみんな、夫が担ってくれていたことだ。

 南こうせつさんが、こんな意外な素顔を紹介する。

「コンサートのとき冗談でセーラー服のミニスカートはいて太腿(ふともも)見せて“より自由になってこれから私、恋をするんだ!”なんて言っていました。過去を引きずることなしに、前を向いていくタイプです。あれは見上げたものですよ」

 そしてこんな注文も。

「僕、彼女の大恋愛の歌が聴いてみたい。大人のラブソングを、歌ってほしいなあ」

2018年、音楽番組の司会を南こうせつさんと収録した後、楽屋にて

 人間・イルカは試練を潜(くぐ)り抜け、きれいになった。大人の恋歌を注文されるほどに。

 あのころよりずっと、きれいになった─。

(取材・文/千羽ひとみ 撮影/吉岡竜紀)

せんばひとみ◎ドキュメントから料理、経済まで幅広い分野を手がける。これまでに7歳から105歳までさまざまな年齢と分野の人を取材。「ライターと呼ばれるものの、本当はリスナー。話を聞くのが仕事」が持論。