ついに2019年4月末で平成の時代が終わる。平成の世を彩り、輝きを放ったスターはそのとき何を思い、感じていたのか? 当時と今、そしてこれからについてインタビューで迫っていくこの連載。第2回目は元・三木道三のDOZAN11さんです。

Vol.2 DOZAN11(元・三木道三)

DOZAN11 撮影/北村史成

 たった一曲がそのジャンルごと突き動かすパワーになることもある。平成屈指の大ヒット曲『Lifetime Respect』(平成13年リリース)は、それまで世間的には未知なるジャンルだったレゲエを強く認識させるブレイクスルーとなった。

一生一緒にいてくれや〜」タイトルを知らずとも、そのフレーズを口ずさめる人のなんと多いことか。DOZAN11、元・三木道三。 勝手に「オラオラ」したイメージを抱いていた我々の前に現れたのは、物静かな語り口の研究者のような男性だった。

世界で革新的だった『レゲエ』

「『あのひとは今』みたいな企画は以前もオファーがあったりしたんですけど、引退してたのでお断りしてたんですよ」

 インタビュー開始からずっと、少し疑念のこもった話し方をしていたのが気になっていた。現在のレゲエカルチャーについて伺っていると、ようやく表情が少し和らぎ、そう話した。 『Lifetime Respect』の大ヒットは、その後、露出をやめた彼の姿を「一発屋」に見せているのも事実。

「当時はレゲエのマーケットがなかった時代ですし、レゲエアーティストが職業になるなんて、誰も確信がなかったですね。少なくともそういうレールはなかった。ただ非常に右肩あがりでみんなで楽しい階段を駆け上がってるって感じてました

 僕が昔、活動していたころ、90年代後半(平成前半)くらいのジャマイカのレゲエはすごく革新的だったんですよ。その影響を受けて他の外国人も含めての世界的ヒットがいっぱいあって。

 僕の場合はジャマイカのやり方を自分なりに日本でやったつもりです。ジャマイカ人がジャマイカでジャマイカ語でジャマイカの人たちにっていうのがジャマイカのスタイルで、僕はその『ジャマイカ』を『日本』に変えたというか」

関西弁の歌詞の理由

「レゲエやヒップホップの7インチ、12インチレコードは歌詞カードがついていないけど、クラブで曲に合わせて歌ったり、ライブで初めて聴く歌でウケたりするんです。ってことは聞き取れる歌詞を歌うのがこのジャンルのスタイルなんだな、と思って一発で何を歌ってるか聴き取れる歌詞を書くようにしました。

 あと、ジャマイカ人のなまった英語ってアメリカ人でもあんまり聴き取れないんですが、気取った、ちゃんとした英語じゃなく彼らが普段使ってる言葉で日常を語るのも好きで、僕の場合はそれが関西弁でした」

DOZAN11 撮影/北村史成

「東京に出てメジャーと契約する」というのが「レゲエでは一般的ではない」というDOZAN11。 関西には関西の、東海には東海のレゲエシーンがあり、その街とシーンを盛り上げるというのが多い。

「レゲエは関西弁が合うね、と言ってくれる人がいますけど、僕らがうまいことレゲエを関西弁で表現できただけで、流行った場所によってその方言がスタンダードになっていたでしょうね。

 ただ、今、東京でヒップホップが流行ってて、一方レゲエは関西が一番層が暑くて盛り上がってるのは、“ニューヨークのHIPHOPとジャマイカのレゲエ”“東京のHIPHOPと関西のレゲエ”っていうのは似た関係なのかなとは思います。

『Lifetime Respect』の大ヒットへの盛り上がりを肌で感じて「(ヒットの予感は)ありました。だからすごいびっくりはしなかった」。プライベートがなくなる、休みがなくなる、次のヒットへと追い立てられる……ヒットの後はそうした負の面を想像してしまいがちだが、当時の彼を待っていたのは、そんなものとは全くスケールの異なる“過酷な運命”だった。

「『Lifetime Respect』の後、全国ツアーやってすぐに引退したんですよ

 心境の変化もありましたが、ツアーしてても交通事故の後遺症とかでドンドン身体がよくなくなっていったから、一度時間をかけて体調を整えたいな、と。手術をやり直したり。しかし、その後も復帰しようというタイミングとかで逆流性食道炎、帯状疱疹、自律神経の不調とかいろいろありました。

 あまりにもそういうことが続くから占ってもらったら“生き霊ついてる”って(笑)。お祓(はら)いもしたな」

仙人みたいやなって言われた

DOZAN11 撮影/北村史成

「交通事故も手術も何回もやってます。全身麻酔だけでも6回はやってますね。引退してすぐ行ったブラジルでも、筋トレ中に腰に激痛が走り2か月寝たきりになって。ヘルニアと言われました。

 でもそこでサッカーのロナウドが建てたリハビリ病院で最新のスポーツ医学療法を経験したり、医者と喋ってポルトガル語を勉強できたり。ブラジルから帰ってまた調子が良くなくなってきたので、今度はイチロー選手がやっているという鳥取のジムに通って、かなりそこで改善されました。

 極端な性格だから健康法を勉強してるうちにマクロビとかヴィーガンの影響受けて、3回ぐらいベジタリアンになっちゃってました(笑)」

 壮絶な経験をこともなげに話す。

「そんなに落ち込んではなかったなぁ。あんまりいろんなことに執着しないので。できる限り人と付き合わないようにしてたので仙人みたいやなって言われてました(笑)」

「“売れる”“売れない”って、たぶんタレントさんの言葉だと思うんですよね。これは生意気にならないように伝えたいんですけど、“売れたい”って感覚とはちょっと違いました。

 もちろん一石を投じたい、自分の感覚を世に問いたいという気持ちはあるし、商行為ですから作った製品はたくさん売りたい。どちらかというと『Lifetime Respect』より前の時の方が僕自身は熱かったんですが、あれ以降、急にいろいろ局面が変わったっていうのはあります」

 現在、活動再開のリハビリとして各種メディアにも顔を出すようになった。それは自身も制作に携わる画像や写真を音楽にするソフト『PhotoMusic2.0』(※現在スマホアプリ版を開発中)の周知のためでもある。

 音楽、テクノロジー、世界情勢からジェンダー、政治まで、インタビューをしているとDOZAN11の半端ない興味関心の広さに圧倒される。時の人から度重なるケガと病気との戦いへ、さらにそれを乗り越えて新たな分野への挑戦。 なぜそんなに前を向けるのだろうか。

“君”でなく“俺”

あんまりね、人の気持ちがわからないんですよ。最近は少しは人に共感できるようになりましたけど。病院には行ってないのでわかりませんが、何か病名があるかもしれませんね。

 どこにいても自分はそこに属している感じはしなくて、だから僕の歌もほとんど“君”でなく“俺”。人にはあまり語りかけてないことが多い。

DOZAN11 撮影/北村史成

 察するってことができない。僕はずーっと言いたいことを言うタイプだったから、人が黙っている時って何も考えていないと思っていたんですよ。でもそうじゃないんだということに随分大人になってから気づいた(笑)。

 良く言えば裏表ないけど、悪く言えば一言多いというか。そうこうしていると次第に人と付き合いたくなくなってくる。

 でもジャマイカには僕みたいな人間がいっぱいいて、ホッとしました。日本では謙遜が美徳ですけど、ジャマイカ人はずっと奴隷だった歴史があるからか卑屈になるのが絶対いやで反抗的なんですよ。

 例えば、ジャマイカ人はアーティストネームを『ジェネラル(将軍)なんとか』だったり、自分自身を茶化してギャグにしたりしないんです。僕自身も自虐の文化ってあんまり好きじゃなくてね、するのも見るのも。

 幼稚園ぐらいの時から周りと違うなという自覚はあって、自分は何をするのかなってところでレゲエに出会って、すぐジャマイカ行っていろんな人と出会って。アメリカでもヨーロッパでもない、小さな島でできた文化が世界に広まっていった、それがレゲエそこには自虐も卑屈もなく田舎でも貧乏でも胸張ってるのがかっこよいと思った」

 そして彼は自身の波乱万丈な人生を振り返りこう語る。

「まぁ“塞翁が馬”です。何が良いか悪いかわからんねってことですかね(笑)

 ケガも病気もしんどいけど、みんなに追いつくためにぐっと頑張れることもある。生命力は強めなのかもしれないですけど(笑)。ただ僕は運良く頑張ることができたけど、それは決定的な悲劇にはならなかったから。それでも得るものがあったというか。

 でもどうにもならない人もいると思うんですよ。誰しも限界を超えたら耐えられるもんではないと思うんです。そういう人を減らせないものかっていつも考えてます

DOZAN11にとって『平成』とは

DOZAN11 撮影/北村史成

 最後に、DOZAN11にとって『平成』とはどんな時代だったか、聞いてみた。

「僕にとっては......『ジャパニーズレゲエの確立』に青春を注いだ時代でしたね

 昭和が終わった時、道頓堀の光が自粛で全くなくなったのをよく覚えてます。街の大きいスクリーンで小渕さんの『平成』という文字を見て、平成1年にレゲエに出会って、ジャマイカの文化に出会って、平成6年末にアメリカで交通事故に遭って、その時期に友人が自殺して、阪神大震災やオウム事件もあった。

 悲劇ばかりだし、自分の身体もボロボロ。 歯も3本ないし、膝も割れてるし、足の裏は破けているし。遠回りしてる場合じゃない、一直線にいかなきゃいつ何があるかわからないなって強烈に思ったんですよ。平成前半はそんな想いで動いてました

 死ってこんなに簡単にくるんだなって。死ぬ前にやらなきゃやばいって、リアルに細胞感覚で火がつくというか

「一生一緒にいてくれや」あのフレーズの「一生」という言葉を噛みしめる。

 DOZAN11は不敵な笑みを浮かべて、こう言った。

僕なんか今から不老不死を目指しますけど。テクノロジーでね

PROFILE
どーざんいれぶん●1996年、“三木道三”としてジャマイカの日本人レーベル「JAP jam INTERNATIONAL」から『Japan一番』でデビュー。2000年、徳間ジャパン・コミュニケーションズから『斬る!ジャパニーズ』でメジャーデビュー。2001年に『Lifetime Respect』でジャパニーズレゲエ初のオリコン1位を獲得し、ミリオンセールスを記録する。名前を“DOZAN11”に改め、ユニバーサル・ミュージック・ジャパンより2014年11月、アルバム『Japan be Irie !! 』をリリースした。2018年に開発に携わった音楽自動作成PCソフト『PhotoMusic 2.0』を発表し、IT業界という意外なジャンルへの進出で話題を呼んでいる。現在スマホアプリ版を開発中。