第72代横綱・稀勢の里

 横綱・稀勢の里が1月16日に引退を表明した。

 その報(しら)せは瞬時に臨時ニュースとして伝えられ、ちょうど朝のワイドショー放送に重なったため、その後、昼のワイドショーまでもその話題でもちきりに。

 夕方から夜のニュース番組でもトップで伝えられていた。横綱の引退がここまで大ニュースとなるのは、相撲人気の高さの表れでもあるだろう。

 しかし、その伝え方に違和感を抱いた人たちが大勢いる。

日本出身ではなく、茨城県牛久市出身の横綱だ

 どの番組もそろって「日本人横綱の引退」「19年ぶり日本出身横綱の引退」と、ことさら日本、日本、日本を連発したのだ。

 これには稀勢の里ファンたちも困惑。稀勢の里がまるで日本人であることだけが美徳であり魅力であるかのような、さらに昨今多い、日本万歳的なテレビ番組作りの流れに沿ったような伝え方に気持ち悪さを感じている人が多く、コラムニストの小田嶋隆さんや作家の北大路公子さんらも、そのことについてツイートしていた。

 確かに大相撲において「出身地」は常についてまわるもの。力士が土俵に上がるたび、場内アナウンスで出身地が読み上げられる。それは戦国~江戸時代、力士がそれぞれ各藩の大名のお抱えだったことに端を発する。

 召し抱えられた力士は番付に大名家の国名を記し、藩の印をデザインした化粧まわしを巻いた。つまり力士は各藩の広告塔のような存在で、江戸時代の名力士・雷電は出生地は長野県だが、お抱えは松江藩だったので、松江の雷電と呼ばれた。

 その伝統を受け継いで、昭和9年からは幕下以下も全員の出身地を番付表に記し、呼びあげられるようになった。

 果たしてその伝統に従うならば、稀勢の里は日本出身の横綱ではなく、茨城県牛久市出身の横綱と呼ぶのが正しい。日本の国技と称される大相撲の伝統を大切にするのならば、日本出身などと呼ばず、正しく茨城県牛久市出身の横綱と呼ぶべきではないか?

 しかも、出身県のみならず、取組前には出身市区町村まで呼びあげる大相撲の習わしは、深く郷土愛と結びついて相撲人気を支えてきた。

 稀勢の里には常に茨城県牛久市の大応援団が国技館にやってくるし、御嶽海には長野県の大応援団が来る。毎年11月に行われる九州場所は「ご当所力士」として九州出身の力士たちへ、とてつもない声援が飛ぶ。

 日本出身の呼称は、大相撲人気を長く支えてきた、そういう「ご当所」理念を全く理解してない呼び方じゃないか? と違和感しか抱けない。

 大相撲は市区町村の小さなくくりのナショナリズムに支えられてきた。

 それはサッカーチームの応援の仕方にも通じるだろうが、サッカーには国別の大会があっても、大相撲に国別のトーナメントなど存在しない。日本人、ましてや日本出身の、などと薄気味悪い呼び方をする必要はないのだ。

 そのくくりで言えば、白鵬はウランバートル出身で、逸ノ城はアルハンガイ県出身、栃ノ心はムツケタ出身で、碧山はヤンボル出身だ。伝統とその概念に従えば、国技館を時々覆う国籍差別やヘイト・コールなど雲散霧消するのだ。

 しかも相撲ファンの目から見れば、この「日本出身の横綱」という言葉そのものが、当の稀勢の里本人を追い詰めてきたとしか思えない。

 2014年に「長年『2場所連続優勝』が条件とされてきた横綱昇進基準が、稀勢の里が綱取りに挑む過程で緩和され、『準優勝に次ぐ優勝』なら昇進もありうるという見解が示された」(ベースボールマガジン社『歴代横綱71人』より)と、稀勢の里を横綱にしたいがために基準が緩和されたのだ。

一刀両断した玉ノ井親方の言葉

 そこには日本人横綱を作って相撲人気をアップさせたい思いが働いていたのだろう。2014年、大相撲はまだ八百長騒動から人気を回復させるに至っていなかったからだ。

 そして当然のように横綱に昇進した当初から「日本出身の横綱」と呼ばれた。ちなみにこの「日本出身」という呼称は、2016年に琴奨菊が優勝するか?という期待の中で生まれたもの。

 日本人力士としては栃東以来10年ぶりになる!と最初はワアワア喜んでいたようだが、2012年5月場所に「(モンゴルから)日本に帰化した日本人」の旭天鵬が優勝していたことに途中で気がついたようで、にわかに「日本出身」という生まれも育ちも血筋も日本人です! みたいな、この気持ち悪い言葉がメディアから生まれた。

 ちなみにこの頃、相撲中継を見ていたらアナウンサーが玉ノ井親方(元・栃東)に、「親方の優勝から日本人力士の優勝はないが、日本人力士に優勝してほしいですよね?」と問いかけると、玉ノ井親方はムッとした顔で「頑張った人が優勝すればいいんです」と一刀両断したことを私は忘れない。

 土俵に立つ、立ったチカラビトたちはみなそう思っているはずだ。どこの国の出身だろうと、土俵に立てばみな同じ。誰もが全力で戦い、その必死な相撲に国や人種の違いなど余計なものが入り込む余地などない。入りこませようとするのは、部外者たちだ。

 稀勢の里は引退会見で「日本出身横綱としての重圧は?」と問われて、「いい環境、あの声援の中で相撲を取ることは本当に力士として幸せなことだった」と答えているが、それは応援してくれたファンへの感謝であり、日本出身横綱として幸せだったということでは決してないと思う。

 日本出身という重圧が、ケガを負いながらも強行出場、そして治りきらないままに出場~休場を繰り返すことに、多少ならずとも影響はあったはずだ。

 真面目な人だと相撲ジャーナリズムは彼を賞賛する。それなら唯一の日本人横綱、日本出身横綱という呼び名が追い詰めやしないか? をもう少し考えれば良かったんじゃないかと相撲ファンは誰しも感じている。

弱さも含めて愛された横綱

 さて、そんな横綱・稀勢の里とはどんな力士だったんだろう?

 引退に際してたくさん出た記事のひとつに「強さと危うさ 未完の魅力」(読売新聞・1/17)とあって、なるほど、そうだと思った。

 圧倒的に強いかと思えば、ここぞというときに取りこぼしがあり、ファンは「ああぁ」とため息を漏らしながらも、そんな弱さも含めて彼を愛した。

 相撲愛好家のデーモン小暮さんが自身のブログで稀勢の里を「純朴な不器用さを伴う実直さ」「昭和のスポーツ少年や高校球児の姿にも似た郷愁を誘う魅力」があったと書いていた。稀勢の里に多くの人が自分や、自分の人生を重ねて見ていたのかもしれない。

 惜しむらくは「期待の大きさの裏返しで、厳しい指摘を避ける傾向にあった」(朝日新聞・1/17)ことだ。

 これは読売新聞でも同じことが言われ、大関時代にも故・北の湖前理事長が「あのシコの踏み方ではダメだ」と心配していたそうだ。下半身の強化がうまくできず、そのことが腰高の相撲につながり、強靭な力を発揮していた左腕がケガで使えなくなると勝てなくなったという。「四股を踏み、砂にまみれる泥臭さ」(読売)がもっとあればと、本当に残念だ。

 デーモン小暮さんは先ほどのブログで「同時代の横綱として器用に何でもこなしほぼ全ての主たる記録を塗り替えつつある白鵬」と記していたが、実は器用に見える白鵬こそ、毎日の稽古で今も不器用なほどにシコ、すり足、てっぽうの相撲の基礎を1時間~2時間も繰り返している。

 たとえば巡業などで、稀勢の里が白鵬と並んでシコを踏んで稽古していたらなぁと、スー女の私は今さら妄想しては残念に思う。

 とにもかくにも稀勢の里、おつかれさまです。長い間、楽しませてくれて、ありがとうございます、と言いたい。今後は、“実はおしゃべり”というキャラクターを生かして、相撲解説などでも楽しませてください。ワクワクして待っています。

 そして相撲を伝える側は、この「日本出身」というフレーズを封印してほしい。また一人、その犠牲者を生んでは決してならないはずだ。


和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。