ついに2019年4月末で平成の時代が終わる。平成の世を彩り、輝きを放ったスターはそのとき何を思い、感じていたのか? 当時と今、そしてこれからについてインタビューで迫っていくこの連載。4回目はお笑いタレントのダンディ坂野さんです。

Vol.4 ダンディ坂野

ダンディ坂野さん 撮影/北村史成

 テレビであまり見かけなくなったと巷(ちまた)ではささやかれるが、そんな心配はご無用! 黄色い衣装に身を包み「ゲッツ!」でおなじみの、ダンディ坂野さん。

 現在はCM10本、営業が年間約60本、地方の番組やイベントを通して今なお活躍し続けている。「ゲッツ!」というわかりやすくキャッチーなフレーズ一本で活躍し続ける芸人さんもなかなかいないのでは。

 平成を代表する国民的ギャグ職人と言えると編集部が勝手に判断し、『平成』という時代、そして、これからの時代について語ってもらった。

 そもそもお笑い芸人を目指すきっかけはなんだったのだろうか。

実は、もともとはアイドルに憧れていたんですよ。特にトシちゃん(田原俊彦さん)に憧れていて、歌って踊れるアイドルになりたかったんです。だから、地元の石川県に住んでいたころは、オーディション雑誌を買いに隣町までわざわざ行ってましたよ。それくらいアイドルに憧れていました

 お笑い芸人としてではなく、アイドル志望だったダンディさん。時代を先取るお笑い芸人をテレビで目の当たりにし、お笑いの世界に飛び込む決意をする。

高校を卒業してしばらくは地元の石川県にいたんですが、26歳で上京しました。当時、テレビでウッチャンナンチャンさんやとんねるずさんがアイドルと共演しているのを見て、なんかお笑い芸人ってカッコいいなと思ったんですよ

 それからほどなくして、芸人としての道を切り開くため、お笑い養成所に通うこととなる。

ダンディ坂野さん 撮影/北村史成

当時はヒロミさん率いるB21スペシャルさんが、人力舎のお笑い養成所(スクールJCA)の広告に出ていたんです。それがカッコよくてJCAに入ることに決めたんです

 “業界としては年齢的に遅いほうだ”とダンディさんはいうが、人力舎のお笑い養成所(スクールJCA)の2期生としてオーディションを受けることになる。

 選考の内容について話を聞いてみると。

正直言って、大きな声でハキハキしてしゃべれるか。それと授業料が払えるかということが合格の基準だったらしいです(笑)

 こうして養成所に入ったのち、コンビを組んで活動するが成績は芳しくなく、卒業後、事務所に所属するにはいたらなかった。それを機に、解散を決意。今後のことを悩んでいたときに、ある方に声をかけてもらう。

 当時、お笑い養成所で講師をしていたブッチャーブラザーズ(サンミュージックプロダクション所属)さんだ。

これからのことを悩んでいたときにブッチャーブラザーズさんに相談したら、“じゃあ、付き人になるか”と声をかけてもらったんです

 その後、付き人として下積み時代を経たのちに、サンミュージックプロダクションに所属することになる。やがてサンミュージックにお笑い部門が誕生し、そのタレント第1号としてテレビでも露出していくようになる。

僕の芸人人生は『他力本願』

「お久しブリーフ」ダンディ坂野さん 撮影/北村史成

「『爆笑オンエアバトル』(NHK)には第1回放送から出させて頂いて、だんだんテレビに出られるようになってきましたが、忙しくなった一番のきっかけは、テレビ朝日系で放送していた『内村プロデュース』ですね。

 それが2002年秋の放送だったんですが、深夜枠で視聴率が10%という驚異的な番組に出られたことと、『マツモトキヨシ』のCMに起用されていた時期だったので、“マツモトキヨシのCMに出ている人、お笑い芸人だったんだ”ということで、特に30代の男性に認知され始めたんですね。

 その後もフジテレビ系の『めちゃ×2イケてるッ!』の笑わず嫌い王決定戦にも出させてもらって、その時期から忙しくなってきました

 『マツモトキヨシ』のCMはダンディさんの出世作であるとも言えるが、CMが決まった経緯を聞いてみると。

後輩にさくらんぼブービーというコンビがいたんですが、彼らがマツモトキヨシのポイントカードのCMに第1弾で出演していたんです。それで、第2弾のキャスティングを決める際に、CMスタッフがサンミュージックのライブを観て“彼がいいんじゃないか”となって、出演が決まったと聞きました」

 ダンディさんの実力で決まったCM出演だと思うが、彼は後輩芸人のおかげだと謙遜し、笑って話す。

 「僕の芸人人生は他力本願で成り立っているんですよ

 このCMが、その後の芸人人生を飛躍させるきっかけになったのは言うまでもないだろう。そしてテレビ番組に出るようになった2003年といえば、日本テレビ系で『エンタの神様』も始まり、ダンディさんも常連組に。さらに人気に拍車がかかるが、そこでは、なかなかの試練を味わうことに。

番組の演出なのか、観覧のお客さんの反応が悪いんです。たしかに自虐の間延び芸なのですが、お客さんの笑いが一切なくて、地獄でしたね(笑)。そんな中でも必死にネタをやりました

当時を再現するダンディ坂野さん 撮影/北村史成

 テレビ番組だけでなく各地で営業もしていたダンディさん。テレビ番組とは違った苦労もあったとか。

おかげさまでいろんな場所に営業で呼ばれるんですが、後楽園のジェットコースターの前でネタをやったときは、オチのところで必ずジェットコースターが近づいて聞こえないという……。

 あとは、競馬場のレース終了後に、1着馬とその関係者を表彰するウイナーズサークルという場所があるんですが、その場所でネタをやってと言われても、お客さんが四方八方にいて、どこを向いてやればいいのかわからないってのもありましたね(笑)

 ある意味ネタにもできそうなエピソードもあるが、営業ならではの地獄のような体験もあったという。

一番怖いのが、場違いというやつですね。会社の集まりなんかに呼ばれたときは、スーツを着た大人の前で『ゲッツ!』なんてやっても、ウケるわけがないんですよ。だから、場違いになる営業先だけは地獄です(笑)

 老若男女、万国共通のギャグも場面によってはウケないようだ。そんな「ゲッツ!」が最近では御利益のような受け取り方をされるようで。

最近は『ゲッツ!』をやると、爆笑から拍手に変わりつつありますから(笑)

 その「ゲッツ!」というギャグは、マツモトキヨシのCMで一躍有名になったが、意外な助言から生まれたという。

『ゲッツ!』が生まれた経緯

ダンディ坂野さん 撮影/北村史成

実は舞台に上がるときに『ライドオン・ゲット!』と言っていたんですが、舞台袖で聞いていた芸人たちが、『ゲッツ!』って聞こえると言うんです。

 自分では『ゲット』と言っていたんですが、どうやら滑舌が悪かったらしくて。それで、逆に『ゲッツ!』と言うと、面白いんじゃないかとみんなから言われたんで、次から『ゲッツ!』で上がったら、お客さんの反応はなかったのですが、舞台袖の芸人たちが大爆笑だったんです。

 この世界、芸人にウケたら売れるみたいなうわさがあるんですよ。それで、『ゲッツ!』になったんです

 意外にも滑舌の悪さから生まれたという国民的ギャグ。ブレイクした当時の生活を振り返ると。

半年以上休みなしで、美容室や買い物にも満足に行けず、うれしいというよりはイライラが重なってきて、当時の現場マネージャーと言い争いになったりもしました。

 サンミュージックも僕の代でお笑い部門ができたので、スタッフとも二人三脚でやってきたんですよ。スケジュール表も何が書いてあるかさえわからないぐらいに全部埋まっていましたね

 それでも、ダンディさん自身が売れてよかったと思った印象的なことがあるという。それは憧れの人と共演できたことらしく。

トシちゃんポーズを再現するダンディ坂野さん 撮影/北村史成

やはり田原俊彦さんと共演できたことはうれしかったですね。

 以前から、田原さんに憧れて芸能界を目指した、と各所で言っていたら、とある番組の後に、楽屋に挨拶に行けることになったんです。

 当時、田原さんもジャニーズ事務所を辞めた後だったんで、“待ってたぜ! まぁ、お互い大変かもしれないけど頑張ろうぜ”って足組んで『トシちゃんポーズ』で声をかけてもらったんです。あの言葉は一生忘れませんね

 当時のことを振り返りながら笑顔で私たちに語りかける。その笑顔は優しさに満ちあふれていた。

 そんな彼も今年で52歳になりリアルにダンディさが身につく世代となった。はたして彼はこれからのお笑い界をどのように生き続けていくのか。

やはり若々しく元気にやっていきたいです。色あせずに。

 松平健さんのように歌って踊れたら最高です。それに役者にも挑戦してみたいです。まぁ、滑舌は悪いんですが(笑)。それでいて一番の理想は、高田純次さんです

 寝る間も惜しむほどの多忙な時期から、現在は適度に休むこともでき、公私ともに充実した日々を送っているという。休みの日には、子どもとゲームをやったり、趣味のゴルフをやったりと、今が一番幸せと微笑む。

それと年に数回やる集まりがあるんですが、これが楽しいんです。小島よしおとテツandトモさんで、徹底的にお互いを褒め合うんですよ。これが気持ちいい。

 僕にとって『おっぱっぴー』は歴史に残るギャグですよ

 自らの芸人人生を『他力本願でやってこれた』と謙遜し、誰も傷つけない唯一のスタイルで『平成』を走り抜けるダンディさん。そんな彼に新しい元号を予想してもらった。

幸福がいいですね

 みんなが幸せを「ゲッツ!」できる時代を願うこの人は、これからもマイペースに走り続けるだろう。