4月30日で「平成」は幕を閉じ、5月1日から新元号へと変わる。結婚、離婚、不倫に訃報、自殺や事件にトラブルと、平成の30年間の芸能史を振り返ってみると、様々な出来事があった。平成の幕開けとともに芸能記者となった筆者が見てきた、芸能界の30年間の喜怒哀楽。第4回は「平成4年」。

尾崎豊

平成4年

 国家公務員の週休2日制度がはじまったことで、公立学校も第2土曜日を休校日とする学校5日制がスタートしたこの年、東海道新幹線は「のぞみ」が運転を開始。バルセロナオリンピックでは、当時14歳だった競泳の岩崎恭子が金メダルを獲得し「今まで生きてきた中で一番幸せです」と目を潤ませていたのが懐かしい。

 高校野球では当時、石川県星稜高校の松井秀喜が5打席連続で敬遠される大物ぶりを見せつけ、音楽界では藤井フミヤが率いていた『チェッカーズ』が解散。『サザエさん』の作者である長谷川町子さん、小説家の松本清張さんが亡くなった年でもある。

 そして音楽業界に衝撃を与えたのは、当時26歳だった尾崎豊の死だった。

 この年の4月25日早朝、尾崎は自宅マンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先で、全裸となり傷だらけの状態で倒れているところを発見される。

 のちに『尾崎ハウス』と呼ばれ、ファンから聖地化されたこの民家は、2011年に取り壊されるまでの間、約20年近くもファンから愛されていた場所になった。

「当時、尾崎は住人の通報で墨田区内の白髭(しらひげ)橋病院に運び込まれ、診察した医師は“生命に関わることも考えられるので、専門医に見てもらった方がいい”と、妻の繁美さんに話したようです。

 でも彼女の強い意志にり、駆けつけた尾崎の実兄とともに彼は、自宅マンションに戻ったのです」(当時を知るスポーツ紙記者)

 しかし、午前10時ごろ、容体が急変。呼吸が止まっているのに気がついた家族が11時9分に119番通報をする。搬送先の日本医科大学付属病院で手当を受けるも、午後0時6分、尾崎豊は26歳という若さで死亡した。

 死因は覚せい剤中毒による肺水腫だった。

 4月30日木曜日、東京文京区にある護国寺。尾崎豊の追悼式は平日にも関わらず、徹夜組を含む約5000人が詰め掛け、最終的には4万人を超える人が彼の死を悼みに訪れた。

 前日とは打って変わり、一気に気温が下がったこの日、雨はやむ気配を見せない。追悼式の始まる正午にはさらにに強くなるも、ファンの出足は衰えることはない。傘の列は護国寺を起点に、延べ4キロの長さになるという記録的な追悼式となった。

 晩年の尾崎のマネージャーを務めていたのは、尾崎豊の実兄と幼馴染だった大楽光太郎氏だった。平成4年2月から亡くなる4月末までの約3か月という短い間だったが、芸能界とは無縁だった男がなぜマネジメントを始めたのか。

マネージャーの暴露本

「当時の尾崎は覚せい剤で逮捕されたのちに、プライベートな問題を抱え、繁美夫人とは不仲でした。離婚を考えていたのですが、夫人が希望する慰謝料と折り合いがつかず、簡単に離婚へと踏み込めないでいたんです。

 そんな事情から事務所のスタッフに対しても、背後に繁美夫人がいることを気にしてか、もっとも信頼できる兄の友人だった大楽氏にマネージャーを頼んだ。結果的に、最後のマネージャーとなった大楽氏は、のちに『誰が尾崎豊を殺したか』という衝撃的な書籍を出版。尾崎の死にまつわる闇について、メディアで発言を何度となく口にするようになっていきました」(芸能事務所関係者)

 繁美夫人に対するDV報道、女優との不倫旅行、夫人から求められた3億円の慰謝料請求、そして個人事務所『アイソトープ』の乗っ取り、死は事故ではなく事件だと、一連の騒動を大楽氏は暴露本として出版し、物議を醸す。

 尾崎の死後、彼の曲は飛ぶように売れ、その存在はカリスマとなり莫大な利益を生む。それと並行して、大楽氏や兄は事務所を追われることになるのだ。

尾崎豊展(2012年)

 のちに大楽氏は、不当解雇されたと繁美夫人を民事訴訟で訴え、和解している。その後、徐々に表舞台からも姿を消し、兄も騒動の最中に弁護士資格を取得。それぞれが新たな生活、元の生活へと戻っていくのだった。

 もちろん尾崎にもさまざまな問題はあったが、大楽氏が本で書いたことや発言は、繁美夫人とその取り巻きとのトラブルを超え「尾崎豊は殺された」という、根深い疑惑を生んだのも事実だった。

彼女のことを思って書いた曲

 尾崎豊を語る上で外せない女優がいる。当時を知る人ならピンとくると思うが、尾崎の死を自分のマネージャーから聞き、号泣したという斉藤由貴だ。

 斉藤とは1990年に雑誌の対談で出会い、翌年、北海道旅行を『フライデー』され、不倫交際と報道された。

「その後、ふたりは破局したと報じられましたが、交際は続いていたようです。東京・渋谷に尾崎の仕事部屋兼別宅があり、斉藤さんは頻繁に訪れていました。それに気づいた繁美夫人が、不倫の証拠を押さえようとドアをバンバン殴りに来たなんて話を聞いたことがあります」(前出・スポーツ紙記者)

 いずれにせよ尾崎は離婚することなく、斉藤との本当の関係は本人たちにしかわからない。ただ、尾崎が彼女のことを思って書いたという曲があるのは有名な話だ。

「ふたりの関係は深いものだったと思います。『ロザーナ』という曲は、斉藤のために書いた曲なのではと言われていました。また不倫交際が報じられている真っ只中に、シングル化された代表曲『I LOVE YOU』のジャケットデザイン(青年の背中に顔を埋める髪の長い女性の絵)は、どう見ても尾崎と斉藤にしか見えないと話題になりました。

『I LOVE YOU』自体はファーストアルバムに収録されている曲なので、そもそも斉藤のことを書いた曲ではないのですが、発売のタイミングと歌詞の意味深さがリンクして、当時のスタッフたちも動揺していましたよ」(前出・芸能事務所関係者)

 尾崎の死のショックからか、寂しさからなのか、翌年の93年には川崎麻世と不倫し、94年には一般男性と結婚をした斉藤由貴。2017年にダブル不倫騒動を起こしたのは記憶に新しいが、彼女の寂しさはずっと終わることがないのかもしれない。

 そして尾崎家はというと、当時2歳だった一人息子の裕哉は29歳となり、父と同じ道を歩んでいる。バンド活動を行いながら父が遺した歌を唄うこともある。

尾崎豊展で歌う、息子の尾崎裕哉(2012年)

 繁美夫人も尾崎亡き後は裕哉を連れ、長い間、海外で生活することが多かったが、10年ほど前からは日本で姿も見かけられるようになった。2017年には投資トラブル報道もあったが、現在も夫の事務所で息子と夫の楽曲管理を行っているという。

 4月25日は28回目の命日。埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある尾崎の墓所には、いまだに途切れることなく花が手向けられている。

 真相は尾崎豊にしかわからないまま、長い時が過ぎたーー。

<取材・文/宮崎浩>