近年はSNSの充実で、地方からも全国的な人気を獲得するコンテンツが誕生している。これからも確実に地方からスターは生まれ、それらの命は、東京のエンタメ観では見つけられない場所で産声をあげています。そんな輝きや面白さを、いち早く北海道からお届けします。(北海道在住フリーライター/乗田綾子)

TOKIOが表紙を飾ったアイドル誌(筆者の私物)

 1月に放送された『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)に、木村拓哉が出演して話題となった。また木村のラジオ『Flow』(TOKYO FM)に4週連続で長瀬智也が出演するなど、これまでに実現しにくかった“SMAP×TOKIO”の共演に、ファンは喜んでいる。そこで今回は、幼い頃からSMAPを追いかけてきたフリーライターの乗田綾子さんが、今だからこそ“SMAP×TOKIO”の関係性を深掘りし、懐かしいお題に切り込む! 第3回は、TOKIOの年少メンバー・松岡&長瀬とSMAPとの関係を追う。

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 初期のSMAPに“サポートメンバー”という形で参加していた国分太一さん、またSMAPと同時期からジャニーズJr.の「平家派」メンバーとしてアイドル界で切磋琢磨(せっさたくま)していた、城島茂さんと山口達也さん。

 後にTOKIOの年長メンバーとなる彼ら3人は、すでに6人組として始動してたSMAPと同じフィールドで活動を始めていました。そうなると疑問として残るのが「じゃあTOKIOの松岡くんと長瀬くんは、SMAPとどういう関係性だったんだろう?」ということだと思います。

3人でスタートしたTOKIO

 まず松岡昌宏さん。1977年1月生まれの松岡さんは、そもそもジャニーズに興味を持ったきっかけ自体が「同い年のSMAP・香取慎吾がテレビに出ているのを見て」というものでした。

 実際の入所も1989年の秋と少し遅めのタイミングだったことから、松岡さんはTOKIOの年長メンバーが入っていた平家派ではなく、平家派の後に誕生したSMAPのバックダンサー・グループ「SMAP学園」に入ることになりました。

 そして松岡さんはこのSMAP学園で、偶然にも平家派からスライド参加していた国分さんとの出会いを果たすのです。

 こうしたことがきっかけで、平家派の城島さん、国分さん、そしてSMAP学園から合流した松岡さんの3人による「TOKIO」が、「SMAP学園から飛び出したNEWアイドル」(『Duet』1990年5月号)としてついに誕生。

 3人でスタートしたTOKIOは、結成直後にSMAP学園のメンバーだった小島啓さん、そしてバンドつながりで城島さんと旧知の仲だった山口さんを加え、少なくとも1990年内には正式に5人組グループとなっていきます。

 ちなみにTOKIOが現在のようなバンドスタイルに変化したのは、楽器経験が豊富だった山口さんが正式合流した後の1991年頃のこと。そして翌1992年1月のSMAP武道館コンサートには城島さん、山口さん、国分さん、小島さん、松岡さんのTOKIOが初めてバンドとして、演奏でステージに参加しています。

「TOKIO with長瀬智也」時代

 そしてここからやっと、TOKIO最年少・長瀬智也さんの話が登場。長瀬さんがジャニーズ入りするのは今回、出てくる面々の中で最も遅い1990年春のことでした。

 1990年といえばSMAPはCDデビュー間近で、すでにTOKIOも結成済みでした。長瀬さんはテレビでグループとしての彼らを見てからジャニーズ入りしている世代になり、SMAPのメンバーはもちろん、TOKIOのメンバーも最初から全員が“先輩”にあたります。

 そしてジャニーズ入所後は、自身もまたSMAP学園の一員として活動するようになった長瀬さん。そんな年少の彼がすでに結成されていたTOKIOと共演するようになったのは、1992年春から。

 ただ最初の長瀬さんはあくまでもTOKIOの“サポートメンバー”という形で、雑誌やテレビでの紹介はずっと、「TOKIO with長瀬智也」となっていました。

 長瀬さんのTOKIO加入が雑誌上で正式に発表されたのは、「TOKIO with長瀬智也」として2年ほど活動した後の1994年夏。これはちょうどTOKIOのCDデビューが決定し、そして同時に、結成メンバーの小島さんがグループ脱退を発表した時期にあたります。

 こうして紆余曲折ありつつも、長瀬さんをメインボーカルに迎えたTOKIOは『LOVE YOU ONLY』で念願のデビュー。先行してデビューしていたSMAPは『がんばりましょう』が同年のスマッシュヒット作となり、1994年末には『第45回NHK紅白歌合戦』のステージで、彼らは新世代のジャニーズグループの顔として、ついに共演することになるのです。

表には見えなかった本当の関係性

 出発点こそ同じところにありながら、時代や環境によって“細胞分裂”のような形で個性が分かれ、それぞれ独立した存在として育っていったSMAPとTOKIO。その後の両者の大活躍は、もう説明せずともおわかりかと思います。

 ただ、同時代に芸能界入りしながら特にデビューまで長い足踏みが続いたTOKIOのメンバーの中には、近しい関係性にありながら前例のない形で大ブレイクしたSMAPに対し「存在をなかなか認めることができなかった」(国分太一/TBS『白熱ライブ ビビット』2016年12月27日放送)という複雑な思いも、長年あり続けたのだといいます。

 その一方で、先を行くSMAPが率先して背中を見せたことは、TOKIOに芸能界でのアイデンティティを模索させ、彼らが新たなアイドル像を確立する手助けになっていったという事実もありました。

バラエティ番組『夢がMORIMORI』時代のSMAP

「(毎年SMAPとTOKIOが出場していた)紅白歌合戦のときは、必ず毎年SMAPの楽屋に行ってご挨拶する。それが僕の中での特別な決まりになっていた」(長瀬智也/TOKYO FM『木村拓哉のFLOW』2019年2月3日放送)

 現在ではほとんどテレビで振り返られなくなった両者の関係性。しかし全員が40代に突入し、そして解散やメンバーの脱退も経験した今、彼らのことをもう一度丁寧に、私たちは振り返ってもいいのではないか。

 両者の道が交差する姿を見ていると、平成の終わりにふと、そんなことを伝えたくなりました。

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 1回目『木村拓哉とTOKIOが急接近で思い出した、あの質問「国分太一は本SMAP」を検証

 2回目『SMAP×TOKIOの関係性を深掘りすると思い出す「平家派」の憂き目』

(完)


乗田綾子(のりた・あやこ)◎フリーライター。1983年生まれ。神奈川県横浜市出身、15歳から北海道に移住。筆名・小娘で、2012年にブログ『小娘のつれづれ』をスタートし、アイドルや音楽を中心に執筆。現在はフリーライターとして著書『SMAPと、とあるファンの物語』(双葉社)を出版している他、雑誌『月刊エンタメ』『EX大衆』『CDジャーナル』などでも執筆。Twitter/ @drifter_2181