'02年、真夜中に中津江村についたカメルーンの選手たち。空港や村で出迎えた人の多さに驚いていたという

 Jリーグの成功を経て、スポーツがよりコマーシャルかつ地域密着な姿へと変化した平成。日韓W杯で、アフリカ・カメルーンのキャンプ地に選ばれた大分県中津江村は、ほがらかな坂本村長(当時)のキャラクターもあり、時の人ならぬ時の村に! 5日間もチームの現地入りが遅れ、報道の過熱に拍車をかけた。

 当時、スタッフの1人として招致をサポートし、現在もキャンプ地(鯛生スポーツセンター)で働く津江みちさんは、「連日、大勢のマスコミの方が押し寄せたため、村民の中にはインタビュー慣れする人もいたくらいです」と微笑む。

 カメルーンの大遅刻ばかりに焦点が当たりがちだが、“小さな村の大きな挑戦”には、数々のドラマがあった。

外国人を見たことがない村人ばかりだった

「当初、カメルーンよりも先にジャマイカが強い関心を抱いていたんです。ところが、予選で敗退してしまいご破算に」(津江さん、以下同)

 もしジャマイカがW杯本選に出場していたら、中津江村はジャマイカ一色になっていたかもしれない。

 その後、ジャマイカ同様に村の風土や環境を気に入ったカメルーン代表がキャンプ地として指名。「まさか本当に代表チームが来るとは思わなかった」と津江さんが振り返るように、村は徐々に慌ただしさを増していく。

「アフリカ人はおろか、外国人を見たことがない村民ばかり。別府にある立命館アジア太平洋大学(APU)に、カメルーンから来た留学生が1人いたので、中津江村に来てもらい、何度も村民と交流を重ねてもらいました。段階を踏まないと、ひっくり返っちゃう人もいそうな村なんです(笑)」

 現在、88歳になる元村長の坂本さんは、年齢が年齢だけに表舞台に登場する機会は少なくなったが、招致の際は「できることは何でもやろう!」と、村民を盛り上げていたそうだ。

 一時的にキャンプ地として盛り上がるのではなく、各方面から利用してもらえるような施設を目指し、スタッフを福岡のホテルニューオータニ博多に派遣。給仕やベッドメーキングなどを学ばせた。「カメルーンが来てくれたことを次に活かそう」──そんな気概に満ちていたという。

「留学生に聞くと、カメルーンの鶏は放し飼いで育てているから、日本の養鶏の味とは違うと。なので、敷地内の屋外で放し飼いをして、少しでも鶏肉の味が“カメルーンスタイル”に近づくようにしました」

選手と意気投合し、お祭りのような雰囲気に

 こんな涙ぐましい“おもてなし”の努力をカメルーン一行はつゆ知らず、5日間の遅刻。福岡空港に到着したのは、23時過ぎ。本来、同空港は22時を過ぎると離発着できないのだが、小さな村の奮闘に水を差すまいと特別許可を出し、飛行機はなんとか着陸。中津江村に到着したころには、なんと午前3時を回っていた。

「選手たちはスケジュールが押しているのに、高校生との交流試合や壮行会など、用意していた村民との触れ合いに快く参加してくれました。彼らも坂本と意気投合し、お祭りのような雰囲気でした。W杯前とは思えないくらい陽気で、緊張していた私たちをリラックスさせてくれたくらい」

スポーツセンター内に今も設置されている、当時のカメルーン代表選手の写真ボード。来訪者が一緒に撮影できるように、真ん中のビル・チャト選手の顔が抜かれている。本人もこのボードを見て“自分の顔がない!”と驚いたそう。でも笑顔で自ら顔を出して写真撮影したとか

 平成14年の新語・流行語大賞年間大賞に『W杯(中津江村)』が選ばれるなど、中津江村の挑戦は、一村の枠をはるかに超える熱気を作り出した。

 その後、坂本村長には、カメルーン政府から“カメルーンと日本の友好関係に貢献した”として『シュバリエ勲章』が贈られるなど、同国との交流は今も続いている。しかし17年の年月で、中津江村の状況は当時とは変わってきているという。

「日韓ワールドカップのとき、村の人口は約1500人でした。でも今は約800人。村には小学校と中学校までしかなく、子どもが高校に進学するタイミングで村から出ていってしまうんです」

 それでも、夏のキャンプシーズンになるとサッカーはもちろん、ラグビーなどの野外スポーツやバスケット、バレーボールなどのスポーツ合宿でにぎわう。また、カメルーンの名を掲げた『カメルーンカップ』というジュニアサッカー大会も開催。熊本や佐賀、大分といった地区からも参戦するチームがあり、盛り上がっているという。

「平成の大合併の際に、お隣の前津江村、上津江村は“村”の名称がなくなりました。私たちも村ではなくなったのですが、W杯で覚えてもらった名前だからと『中津江村』の名称は残ったのだと思います。今でもたくさんの方に覚えていただいているのは、あのときがあったから。東京オリンピック・パラリンピックではカメルーンの選手団を招きたいですね

 まるでおとぎ話のような中津江村の招致物語。この“おもてなしスピリッツ”は、外国人観光客が増え続ける今の日本に必要なことが詰まっている。

“カーリングの聖地”も大人気

 遠く離れた北の大地にも、新語・流行語大賞年間大賞になじみ深い市町村がある。「そだねー」を生んだ平昌オリンピックのカーリング女子日本代表『ロコ・ソラーレ』の選手たちの生まれ故郷、北海道北見市常呂町だ。

「銅メダルを獲得後、選手たちの練習拠点『アドヴィックス常呂カーリングホール』の見学者は平昌前の何十倍にも膨れ上がりました」

 そう話すのは、自身も長野オリンピックのカーリング競技男子日本代表として活躍し、現在は常呂教育事務所に籍を置く近江谷好幸さん。“そだねー効果”もあって、昨年の夏休みはファンであふれかえり、

「彼女たち行きつけのお寿司屋さんは、町外の訪問者でいっぱい。われわれは入れないんです」(近江谷さん、以下同)

 と笑う。試合中に食べていた北見市の銘菓『赤いサイロ』は一時、入手困難になったほどだった。

数多くのトップカーラーをは輩出してきた常呂町にある国内最大の競技場を誇る『アドヴィックス常呂カーリングホール』

 常呂町カーリングホールは、昭和63年にアジア初のカーリング専用ホールとして誕生。平成9年までに町内の全小中高の学校の体育の授業にカーリングを導入した。トリノオリンピックで一躍、脚光を浴びたチーム青森も、ベースは常呂町にある。

「町を挙げてカーリングに取り組みましたが、初めからオリンピックを見据えていたというわけではないんです。せっかくカーリングの専用ホールができたのだら、施設を有効利用しよう、ということでした。そういった流れの中で、本橋麻里選手や吉田知那美選手といった選手たちが出てきたんです」

『カーリング支援推進委員会』という、民間の有志が集まり、選手たちの支援や応援をしているという。行政主体ではなく、地域の人たちがまさに手作りで育てていくという姿勢がマッチしているのだろう。

「常呂町は現在、人口が4000人を切るほどですから、彼女たちの活躍によって町が活気づくのはうれしいこと。同時に、選手たちも地元・常呂町を盛り上げようという気持ちがあります。一丸となれることが強みなのだと思います」

 平成の初めにはマイナーだったカーリングは、今や人気ウインタースポーツの一角にまで成長。スポーツ発展の背景には、町とそこで暮らす人々の二人三脚が欠かせないことを、常呂町は教えてくれる。

 スポーツ界に新風が吹いた平成。次の時代はどんな変化をもたらすのか──。