水素爆発した福島第一原発3号機。いまだ事故収束は見通せない

 2011年(平成23年)3月11日、マグニチュード9・0の激震と大津波が東北地方および近隣県を襲った。被害はそれだけにとどまらない。東日本大震災の最大の特徴は「複合災害」であることだ。地震や津波で全電源を喪失し、原子炉などを冷却できなくなり、東京電力福島第一原子力発電所事故が発生した。

 あの日、原発近くの地域で何が起きていたのか。最大時で16万5000人とも、それ以上とも言われる避難者を出した東日本大震災と原発事故について、発生直後の状況を振り返り、災害対応や避難の観点から検証していこう。

電気も応援も断たれた消防士たちの苦闘

 福島第一原発が立地する福島県双葉郡は、双葉地方広域市町村圏組合が8町村(浪江町・双葉町・大熊町・富岡町・楢葉町・広野町・川内村・葛尾村)の消防事業を担っている。3・11では当然、地元の消防士も救急・救助で出動した。

「私たちの原発事故における任務は避難誘導・広報でした」

 そう話すのは、双葉消防の警防係長、渡部友春さん(41)。住民を守るため、情報を得る伝達経路も、拡声器の準備もあった。

 ところが──。

「消防署も停電になりました。電話もつながらない。原子力発電所との直通ホットラインがあるのですが、第一原発のほうはダメになっていました」

 かろうじてつながっていた第二原発とのホットラインを使って第一原発の情報を得つつ、停電には非常用発電機で対応した。幸い、消防署管轄内の消防無線は無事だった。

 津波被害を受けた地域を中心に、ひっきりなしの救助・救急に奔走する中、ほどなく、原子力発電所の危機も伝わってきた。

原発事故の発生後、双葉消防の消防士たちにも出動命令が出された

 原子力災害対策特別措置法には「10条通報」「15条通報」というものがある。事業者(福島原発事故では東京電力)から、国と管轄の県や市町村などの機関に対し、原子力施設の危機を知らせる規定だ。10条は、施設敷地緊急事態(原子炉冷却材の漏えい、全交流電源喪失5分以上、原子炉冷却機能喪失など)のときに通報される。

 一方、15条は、全面緊急事態(全非常用直流電源喪失5分以上、原子炉停止機能喪失、敷地境界で毎時5マイクロシーベルトが10分以上など)で通報される。15条通報を受けた内閣総理大臣は、ただちに「原子力緊急事態宣言」を発令すると定められている。

 渡部さんを含めた消防士は、原子力防災訓練や研修などを受けていたため、この2つの通報の存在と意味を知っていた。「15条はヤバイやつです」と、若い消防士は表現する。訓練では、10条通報から15条通報にいたるまでは半日以上かかるものとされ、さらに15条通報があっても、3時間程度で事態がおさまるという設定だった。

 しかし現実は違った。3月11日16時半ごろ、東電から浪江消防署へ15条通報が入る。約1時間前に10条通報を受けたばかりだった渡部さんは、「えっ、15条ですか?」と、ホットラインの電話口で思わず聞き返したのを覚えている。深刻度を増すスピードが、想定よりはるかに速すぎた。

津波が押し寄せ、住宅地もがれきの山となった

 甚大な災害時には、地域消防だけで対応能力を超えてしまう事象が発生するため、全国から救助・救急活動を手伝う「緊急消防援助隊」が集まる。渡部さんたちも到着を心待ちにしていたが、ついに来ることはなかった。応援に向かっていた隊は、原発事故による避難指示が出たため、郡内に入れなかったのだ。

 双葉郡の消防士たちは、連続する救助・救急活動と同時並行で、住民避難誘導・広報および高齢者の避難支援なども行った。限られた人員、消防車・救急車だけで、奔走し続けるしかなかった。

迫りくる原発、沸き起こる恐怖

 一方、住民は避難指示に対応できたのだろうか。双葉郡では、毎年のように原子力防災訓練は行われていたが、大規模な複合災害や、遠方への長期避難は想定されていなかった。平日の日中に行われる訓練の参加は、近隣のごく一部の住民に限られていた。そもそも訓練は心の準備ができ、避難をしてもすぐに戻れるという設定だ。

 11日夜9時には、福島第一原発から半径3キロ圏内に避難指示が発令。翌朝6時から9時の間には、10キロ圏内にある大熊町・双葉町・富岡町および浪江町が町民に避難指示を出した。双葉町から避難をしたある住民は、「渋滞していた国道114号線は歩くほうが早かった」と証言する。

 普段なら車で30分の道のりが4時間かかった。町が指示した場所へ避難する経路は、もともと数本のルートしかない。地震の影響で道路には亀裂や段差があり、迂回も余儀なくされた。

 停電のなか、住民が得られる情報は少なかった。人々は町の広報スピーカー、車のラジオやワンセグで、あるいは避難所となった公民館や体育館、町役場などで口伝えによって、地震・津波の被害状況や、避難に関する情報を知った。

 原発事故については、120億円以上の国費を投じて開発された放射性物質拡散予測システム(SPEEDI)の情報は伝えられず、避難の理由を知らない人や、数日の避難だと思っていた人もいた。警察・消防の放射線防護装備姿を見てから異変に気づいたという証言も多い。

 白い防護服に、防護マスクで避難誘導に立つ姿に「ここにも放射能がきているのか」とピンとくる人もいた。ものものしい装備に対し、住民は普段どおり無防備な姿。疑問と恐怖を感じたとの証言もある。

防護服姿に消防士ら。ものものしい雰囲気が伝わる

 また、燃料の問題で避難がままならなかった住民も少なくない。ガソリンがなく、数時間歩いて避難所を目指した人、車を置いて町役場が手配したバスで避難をした人もいる。放射性物質の拡散と、自分たち一家が逃げるスピードのどちらが速いか、恐ろしかったと話す人もいる。

 焦りは募っても思うようには動けない。しかし、容赦なく危機は迫る。事故から3年後に明らかになった双葉町上羽鳥のモニタリングポスト(原発から5・6キロ)のデータでは、福島第一原発が最初の爆発を起こす直前の12日午後2時40分40秒に、空間放射線量が毎時4・6ミリシーベルト(事故前の約11・57万倍)に上昇している。

 前述のとおり、近隣の4つの町には12日朝に避難指示が出ていた。だが、渋滞に巻き込まれ、昼過ぎから夕方近くまで避難指示区域の外にたどり着けなかったと話す住民も多い。

 甲状腺被ばくを抑える安定ヨウ素剤は、避難の混乱の中、かろうじて大熊、双葉、富岡、三春町にのみ配布された。川内村のある避難所では「小さな子どもには砕いて年齢に応じた量を飲ませる」との指示に対し、「そんなことできるか」「なんでこんなものを飲ませなくてはいけないのか」と怒号が飛んだ。

 ほとんどの住民が安定ヨウ素剤の存在も、その意味も知らなかった。ひらた中央病院(平田村)ら研究チームによる調査では、ヨウ素剤を配布された三春町の子どもが服用したケースは、約6割にとどまる。0〜2歳の小児では、安全性への不安から、3歳以上と比べて内服していない傾向もあった。

 双葉消防本部次長・渡邉敏行さん(59)も、事故当時を振り返り、「消防は避難支援が必要な人、取り残された人の対応をしたが、住民への対応をする町村も相当、厳しい現場だった」と指摘する。避難計画はあったものの、複合災害を想定した規模ではなく、現場では難しい判断を迫られ戸惑うばかりだった。

「私たちの経験が教訓になってほしい」と渡邉さんは言う。前出の渡部さんも、自身の経験から断言する。「原子力災害は、想定どおり、教科書どおりにはならないんです」と。

進む再稼働に懸念大

 政府は、'18年7月の「第5次エネルギー基本計画」で、原発を「重要なベースロード電源」と位置づけており、次々と再稼働を進めている。現在、稼働している原発は全国で8基。2月22日には、茨城県東海村の東海第二原発について、日本原電の村松衛社長が再稼働を目指す方針を伝えるため、東海村、水戸市を訪問した。

 それに対し、茨城県の大井川和彦知事は「(安全対策を検証中の)県の対応を軽視している」と不快感を示している。

 '18年3月、日本原電は東海村をはじめ、茨城県内にある日立市、ひたちなか市、那珂市、常盤太田市、水戸市と『新安全協定』を締結。これは再稼働の「実質的な事前了解」の権限を都道府県と立地市町村から周辺6市町村にまで拡大したもので、納得しない自治体があれば、話を進めることはできない。

 また今年2月には、常陸大宮市など8市町村とも協定を結んだが、こちらは安全確保に向けた現地確認や、再稼働や施設の新増設などの安全対策について意見を述べる権限にとどまっている。

 今年2月に退任した那珂市の元市長・海野徹さん(69)は、現職中、東海第二原発周辺6市村で最初に再稼働反対を訴えた。

原発隣接自治体の首長として再稼働反対を訴えた海野前市長

「私はもともと、安全神話に浸かって原子力発電所に賛成していた側の人間です」

 だが、福島第一原発事故が起きて、その考えは一変する。'12年2月に訪れた避難指示区域にある町の光景に、ショックを受けたからだ。ホームセンターの駐車場に残されたカートに荷物があり、サンダルは散乱したまま。着の身着のまま逃げたことがうかがえた。広範囲に人々の暮らしが奪われてしまう町を目にして、「原子力は人間のコントロールできる範囲を超えている」と思い直したと話す。

 原発事故から5年後、那珂市で住民アンケートをとると、再稼働の反対は65%を超えていた。

「これが民意だと思いました。事故直後であれば8割は反対していたでしょう」(海野さん、以下同)

 東海第二原発に事故が起きたとき、住民はどこへどう逃げればいいのか。那珂市は避難計画で細かく定めている。避難にあたっては行政区ではなく69ある自治会(100〜1000人程度)単位でとらえ、避難場所も「◯◯体育館」「◯◯センター」といった具体的な施設名をあげる。広域避難先となる筑西市と桜川市とも「原子力災害時における県内広域避難に関する協定」を締結、避難計画に関する住民説明会も市内5か所で計6回は行った。

子孫に今より素晴らしい環境を

 しかし、それでも海野さんは、「すべての市民の安全な避難に向けた、実効性のある広域避難計画は不可能」だと指摘する。

「例えばスクリーニング。住民に放射能汚染がないかチェックしてから避難をしなくてはならなくなった場合、道路で車を1台ずつスクリーニング検査するという想定をしています。そこで大渋滞が起きてしまう。しかも数時間レベルではなく、数日レベルになってしまうのではないか……」

運転開始から40年を超えた東海第二原発は老朽化が懸念される

 東海第二原発の30キロ圏内14市町村は、夜間人口で96万人。一方、福島第一原発事故による避難者(最大時・30キロ圏外も含む)は16万5000人にのぼる。実際の避難者数はさらに多いとも指摘されており、東海第二原発における96万人の避難計画がいかに無謀かがわかる。

 海野さんは、原子力防災を各自治体へ丸投げしている国の姿勢に疑問を抱く。避難計画の策定には、時間もマンパワーも、財源も、さまざまな負担がかかる。

「そもそも原子力政策を進めているのは国ですから、各自治体にゆだねるのではなく、自ら責任をもって実効性のある避難計画を策定すべき。さらには、それを再稼働の要件に含めるべきでしょう」

 海野さんは市長時代に記したコラムに、こうつづっている。

《私たちは子孫に今より素晴らしい環境を残さなければならない義務がある》

 災害から教訓を学び取り次の時代へ活かす責任が、国はもちろん、私たちひとりひとりに問われている。

(取材・文/吉田千亜)


【PROFILE】
吉田千亜 ◎フリーライター、編集者。東日本大震災後、福島第一原発事故の被害者・避難者への取材を精力的に続けている。近著に『その後の福島:原発事故後を生きる人々』(人文書院)。