午後3時36分40秒─この時刻で止まった大川小の時計

 宮城県石巻市の大川小学校(当時、全校児童108人)では、大津波が襲った時間に学校にいた児童は78人。このうち74人が死亡・行方不明となった。

 つまり、生存児童は4人。そのうち当時、小学校5年生の只野哲也さん(19)は津波にのまれ、気がつくと土に埋もれていた。泥の中から必死で這い上がり、雪の中を裸足で走り抜け助かった。

母・妹・祖父との別れ

 “奇跡の生存者”としてメディアに取り上げられていた“てっちゃん”も、いまは大学生。まだ漠然としているものの、将来のことも考え出した。

11年3月20日、河北新報が報じたてっちゃん、真ん中は14年4月、そして現在の大学1年生の哲也さん

 午後2時46分に地震があった。大川小のある地域は震度6弱。5年生のクラスでは帰りの会をしており、「さようなら」を言う前に地震が起きた。教室は2階で1度は机の下に隠れた。その後、体育館に向かう手前で階段を下り、校庭に避難した。

 妹の未捺さん(当時9歳で小学3年生)とともに校庭にいたところ、母親のしろえさん(当時41)が自宅から迎えにきたが、忘れ物を取りに戻った。それが哲也さんが母の顔を見た最後になった。

 校庭で待機中、危険を察知し「山さ、登っぺ」と言っていた児童もいた。しかし、教職員たちは避難方針を決めかねていた。このため地震発生後、50分間、児童たちは寒い中、校庭に放置された。ようやく避難を開始したのは津波がくる1分前だった。

 哲也さんは奇跡的に助かるが、多くの友達を亡くした。そのことは、その後の中学・高校の学校生活にも影響をもたらしたという。

中学卒業とか、高校卒業とか、節目のときには友達のことを考えましたね。“生きていれば、どこの高校へ行ったのかな?”“頭がよかったのかな?”って。高校へ進学したとき幼稚園の同級生と再会したという友達がいました。でも、僕には付き合いの長い友達がいません。石巻市内の別の場所に引っ越したから、中学校では小学校の同級生はいないんです。

 そういう長い付き合いはうらやましいと思いましたね。震災がなければ、普通に過ごせたはず。震災後は子どもが子どものままでいられない感じだった。わがままやったり、ばかやったりできなかったです」

 一方で、妹の未捺さんや母のしろえさん、祖父の弘さん(当時67)は遺体で見つかった。

「震災当日は母親の誕生日で前日にお祝いをしていました。そのとき、焼き肉をしたってことしかもう覚えていません。母は寝込んでいたので、甘えた記憶がないんです。おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子でした。

 震災で3人が亡くなったけど、僕には何があったのか理解できないでいました。当時は、毎週毎週、誰かの火葬があったので麻痺していたんです。亡くなった実感がなかった。いちいち悲しんでいたら身がもたなかったんです

忘れることも必要

津波はがれきや土砂を巻き込みながら小学校まで到達した

 小学5年生の哲也さんはあまりにも大きな人生の渦にのみ込まれ、それを処理するのは容易なことではなかっただろう。

「1月20日は妹の誕生日。今年もいつものように親父がケーキを買ってきました。おばあちゃんと3人でいつも“生きていたら、何歳になるね”という会話はするけど、悲しくなったりはしません。僕にとっては、妹は小3で止まっていて成長した姿を想像できない。どういう性格だったというのは覚えているけど、もう声も思い出せない

 ときどき、震災前の家族で映っているビデオを見ることがあるという。

「ビデオは震災の4~5年前のものなので、震災当時の声とは違います。家のあった場所に行っても思い出せないのと同じようなもの。思い出せないのは悲しいけど、忘れることも必要だと思う。アルバムをめくったときに思い出せればいい

 震災で慌ただしい中、哲也さんは大川小の生存児童として取材を受け続けた。悲しいと思えるようになったのは高校生になってからだという。

「時間がたてばたつほど、震災前のことを思い出してつらくなりました。それまでも思い出さないわけではなかったんですが、極力考えないようにしていたんだと思う」

 高校生まで自分の気持ちに蓋をし、この8年の間に心境の変化を繰り返してきた。

「言うのがつらい時期もあった。それに気を遣われるのも嫌だったので、嘘をつくわけではないけど、被災して、家族を亡くしたことを知られないようにしていた」

 常に“生存者”としての行動を期待される日々。哲也さんは自身の役割を全うするかのように大川小学校校舎保存の活動を始めた。

「校舎を保存してほしい」

今でも多くの人が大川小を訪れ手を合わせている

 言い出しっぺは哲也さんだった。震災から3年を過ぎた'14年4月、中学3年になっていた哲也さんはこう述べた。

《大川小はいつも地域の中心だった。学校行事があるたびに地域の人が集まり、地域で盛り上げていた。僕は「ここに生まれて本当に幸せだ」と思っていた。しかし、震災により私たちのふるさと、友だち、先生方、大好きだった地域の方々がたくさん亡くなった。こんな思いを二度と他の人に味わってほしくない》

震災に振り回されそうな自分

 哲也さんの思いが卒業生や地域の人たちを動かした。

「ひとりで大人に話していたときもありますが、批判された。そんなときに大川小学校出身の先輩たちが協力してくれたんです。人前で話すようになると賛同してくれる人も出てきて、間違っていなかったと思いました」

 哲也さんらの頑張りで'16年2月、校舎の保存が決まった。

 今年1月、市は保存のための基本計画案を公表した。ただ、哲也さんは市のやり方に疑問を持つ。

「話し合いがあるというので、僕らの意見を聞いてくれるのかと思ったけど、違った。市側の提案(歩道から校舎が見えないように隠すなど)についてどう思うか、と聞かれただけだった。中3の受験シーズンに僕らは意見を出し、保存が決まった。それから3~4年。その間、市は何をしていたんだろう

 震災から8年がたち、3月11日を意識しなくなったというが、

「中学3年くらいまでは意識していたけど、高校では部活が忙しかったし、特に意識していない。毎年、同じですよ」

 昨年から“語り部”として活動もしている。自身が経験したつらい記憶を話すことで、

「津波の恐ろしさや命の尊さを訴えたい」

 という。震災に対する考え方で同世代と差を感じることもあり、ジレンマも抱えている。

 来年は20歳になる哲也さんは将来について、

「漠然と“身体を張って人を助けたいので警察官になりたい”とは思う。でも、将来のことをちゃんと考える時間がなかった。震災のことから離れて地元を出たい反面、校舎の保存のことがあるので地元にいたい。

 また、ひとり暮らしの経験がないので県外に行きたいという気持ちと、おばあちゃんが元気なうちはそばにいたいという葛藤もある。このままだと震災に振り回されそうになる

 そこには“てっちゃん”と呼ぶにはそぐわない、悩みながらも成長してきた哲也さんの姿があった。