渋沢栄一ってどんな人?

「たいへん喜ばしいことです。発表後、地元住民を中心に入館者が5倍ぐらいに増えています」

 と埼玉県深谷市の「渋沢栄一記念館」は歓喜の声をあげる。

 福沢諭吉と交代で5年後、1万円札の代名詞になるのは“日本の資本主義の父”と呼ばれた実業家・渋沢栄一である。

エジソンへの紹介状を書いてもらった

 1840(天保11)年3月16日、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれた。青年期に尊皇攘夷思想に傾倒したが、挫折して徳川慶喜の下で働くように。1867年、パリ万博に幕府使節団の一員として渡仏。時代が江戸から明治に変わっていくなかで、近代化した欧州の文明に触れたことが、のちの渋沢に大きな影響を与えたとされる。

 維新政府では大蔵省(現財務省)の官僚として尽力した。民間に転出後、日本初の銀行『第一国立銀行』を設立するなど実業家として各産業で経営手腕をふるい、大腸狭窄症により91歳で亡くなるまでに約500の企業・団体の設立や運営にかかわったという

 例えば現在のビール会社でみると、アサヒ、キリン、サッポロという大手各社のルーツに携わっている。

「渋沢栄一記念財団」(東京都北区)によれば、関わった企業の約6割が合併などを経て現在でも事業継続しているというからすごい。いまでは真珠のシェア世界一のミキモトも、そんな企業のひとつ。黎明期に渋沢が貢献している。

「創業者が渡米する際に、あの発明王のエジソンさんへの紹介状を書いてもらったのです。それが世界に羽ばたくきっかけになりました。また、三重県鳥羽市に観光施設『ミキモト真珠島』がありますが、その記念碑の文字も書いていただきました」(ミキモト広報)

私たちの優しいおじいさま

 幼少期から論語を学んでいたため、私利私欲ではなく社会貢献のために経済があるという考え方。社会公共事業についても約600の団体にかかわっている。新5千円札の津田梅子は女性の地位や人権向上に貢献したが、渋沢もしかり。日本女子大学(東京都文京区)の広報担当者は、次のように説明する。

「本学の創立者の女子高等教育に対する熱意に応じて、創立員となり、開校後もさまざまなかたちで援助していただきました。第1回運動会は、北区飛鳥山の渋沢さんの別邸の庭で行いました。あるいは、女子寮も寄贈していただきました」

日本女子大の学生に90歳の誕生日を祝福される渋沢(中央)と兼子夫人=日本電報通信社撮影

 91歳で第3代校長に就任したが、7か月後、没した。

「本学の学生にとっては“私たちの優しいおじいさまだった”と言われています。このような方が1万円札に選ばれたことは、本学にとっても名誉なことと存じます」(同)

 かつて渋沢邸があった飛鳥山公園には、21年前にオープンした「渋沢資料館」と「旧渋沢庭園」がある。このゴールデンウイークも開館するという。

 千円札では伊藤博文に競り負けたが、日韓併合の前後、大韓帝国で数年間だけ、渋沢の肖像画を用いた紙幣が流通した実績も。

 好きな食べ物は甘いものと脂っこいもの。天ぷらや鰻などを食べた。諭吉より少しふくよかな顔つきなのは、グルメだったからかもしれない。