聖心女子大学時代の美智子さまは勉強もスポーツも万能で、その名は学外にも響いていた

 昭和20(1945)年の終戦の翌年に中学生となった平成の天皇陛下は、学習院中等科にご進学。1学年約90名の同級生の中に織田正雄さんがいた─。

正雄 私は小学校時代に疎開を5回繰り返しましたが、母親が学習院出身ということもあり、終戦の翌年、中学から学習院に入学しました。

 陛下(当時・皇太子)の第一印象としては、立派で堂々としていらしたということですかね。当時、東京・小金井にあった校舎のすぐ隣に御所があり、その門からいつも大きく行進するように登校されていました。

和雄 私の陛下との初対面は驚きと恐縮の連続でしたけれどね。

正雄 休み時間には陛下も一緒に、みんなで野球をした記憶がありますね。御所にお招きいただいたこともあり、弟も呼ぶようにお誘いを受けたこともありました。

和雄 私は中1のときは成蹊だったのですが、中2から学習院中等科に編入することになり、常陸宮(当時・義宮)さまと同級になることになったので、お誘いを受けたのかもしれません。

正雄 中等科にテニス部ができて私も参加することになり、陛下の教育係だった小泉信三先生(注1)のすすめもあり陛下はテニスを始められました。

和雄 陛下と初めてお会いしたのは、皇居で兄とのテニスの練習に私も招待していただいたときです。私たちの母もいて、昭和天皇と常陸宮さまが様子を見に来られたのは、とても驚き緊張しました。

正雄 その数年前まで、天皇陛下は神聖不可侵の雲の上の存在。正視してはならないと仕込まれていましたから。

 戦争中は、自宅近くの代々木の練兵場で昭和天皇が白馬にまたがって閲兵式を行っているところを覗き見したことがあります。

 そのときでさえ、目を伏せながらチラチラ見ることしかできませんでした。

左が兄・織田正雄さん、右が弟・織田和雄さん

和雄 そんな方が目の前に現れ、私たちの様子をご覧になっていたわけですからね。

 しかも練習後、常陸宮さまのお住まいでお茶をいただくことになり、外国車で皇居内を移動することになりました。

 しかし、陛下、常陸宮さま、母と私たち兄弟を含めて5人だったので、1人は乗れないことになります。

 すると陛下が“僕のひざに座れよ”と私にすすめられたのには、さらに驚きました。

 車内で、将来は天皇になられるお方のひざの上に乗るとは、生きた心地がしませんでした。5分とかからない移動でしたが、ほとんど中腰で震えながらの車中でした。そういう気さくな面もあるのが陛下だと思います。

正雄 学習院時代の陛下は、議論好きでもありましたね。なかなか自説を引っ込めない。あらゆる分野について話をしましたが、よく相手を論破されていましたよ。

“君はあのとき、こう言っていたけど”と誰が何と発言したのかよく覚えてらっしゃいました。

和雄 私は陛下とは議論したことはなかったけど、よく勉強していて博識でいらっしゃいました。軽井沢でバーベキューをしているとき、肉に蛾のりん粉がかかったことから、常陸宮さまと蛾についての討論が延々と続いたのには、参りました(笑)。

正雄 高等科時代は目白の清明寮という寄宿舎で生活を送っていましたが、自習室でいちばん遅くまで勉強されていたのは陛下でした。

 陛下の家庭教師も兼ねてアメリカからバイニング夫人(注2)が学習院で教えていました。学期ごとに2名ずつ毎週末に夫人の住まいで個人授業も受けていて、私は陛下と同じグループで机を並べていましたが、そこでも陛下はよく勉強されていました。

 課題は当時発表されたばかりの「国連人権宣言」についてです。毎回課題が出され、もちろん、すべて英語でのやりとりでかなりハードでしたが、陛下は一生懸命、勉強されていました。陛下のお考えや思想的な傾向はこのときの影響が強いのではないでしょうか。

和雄 陛下は高等科から馬術部に所属していて、大学になっても続けていたので、テニスにのめり込まれたのは大学の後半になってからですね。

 イギリスのエリザベス女王の戴冠式(昭和27年2月)に出席するため大学を半年以上休んでしまい、単位が足りず聴講生となられました。その後、時間的に余裕ができたからか、本格的にテニスをおやりになりました。

 お住まいの卓球室を、テニス用に改築されたのは、そこまでなさるかと友人ともどもア然としたものです。

 陛下は負けん気も強かったので、それだけ上達を目指しておられたんでしょう。

正雄 私は大学から慶應に進み、その後はアメリカに留学したり、長年ドイツで仕事をしていましたが、たまに電話がありテニスのお相手はしていました。

 アメリカ留学前に、“向こうで必要になるだろうから”と餞別にタキシードをいただいたのはとてもうれしかったです。

 お住まいにうかがうと、採寸してくれる方もいたんですが、私の身体にピッタリで、何の調整もいりませんでした(笑)。このタキシードはその後、20年くらい使わせていただきましたかね。

和雄 当時、夏休みには陛下と軽井沢でご一緒しましたが、上流階級の別荘が多く、そこの子女が集まっていたので、陛下もテニスやダンス、マージャンをされていたものです。

軽井沢で夏休みを過ごされる青春時代の陛下と和雄さん(右端)。陛下のすぐ後ろには美智子さまの姿も。昭和33(1958)年

正雄 陛下は大学を卒業するころから、お妃選びは意識にあったのではないでしょうか。軽井沢の交友関係に女性もたくさんいましたから、彼女たちの噂話をされていた記憶があります。

和雄 男女交際といっても、当時は恋愛結婚も少なく、知らない男女が自由に交流するという気風はなかったので、友人の姉妹であるとかそういう範囲での交際でした。

正雄 陛下は“私は1億の民の上に立つ者だが、すべての民に平等でなくてはならない”とよくおっしゃっていました。それを支えてくれるお妃は陛下にはなくてはならない人だったと思います。

和雄 そんな軽井沢で、日清製粉の令嬢である正田美智子さんは、清楚で教養もありテニスもできる、マドンナ的存在でした。

正雄 私も軽井沢にご一緒したことはありますが、そういう女性がいるというのは噂で聞いた記憶があります。

 和雄さんは陛下と親しくするうちに、「チャブさん」「ポケ」と呼び合う間柄に。そして、昭和32(1957)年8月19日、軽井沢での「ABCDトーナメント」のダブルスの対戦で、陛下と美智子さまは運命の出会いを─。

美智子さまが陛下と運命の出会いを果たされたテニスの試合。左は美智子さまのペアだったカナダ人のドイル少年

和雄 陛下は美智子さまとカナダ人少年のペアに負けたのですが、“あんなに正確に、粘られたら、かなわないね”と負けん気が強いのに、爽やかにおっしゃったのは今でもよく覚えています。

 だからもし、あのとき陛下が試合に勝っていたら、美智子さまに対する印象は変わっていたかもしれません。

正雄 このころから陛下のことはすべて弟に任せっきりでその後の婚約や成婚に至る話は、当時はほとんど知りませんでした。

和雄 おふたりの婚約まで私が電話の取り次ぎ役となり、キューピッドということになっていますが、陛下は私が単に暇だったから指名されたのだと思いますよ(笑)。

 当時、陛下の同級生は就職して多忙になってしまい、大学院生だった私には時間がありましたから。

 携帯電話もメールもない時代で、陛下から正田邸に直接電話するとご迷惑ではないかとのお考えからか、まず私が陛下から伝言をうかがい、正田邸にかけ、美智子さまにお伝えしていました。美智子さまから陛下への手紙を預かったこともあります。

正雄 父が朝日新聞の記者だったのが結果的によかったみたいだね。

和雄 父は当時、朝日の運動部の記者でしたが、おふたりのことは何も言わず、母も黙って陛下からの電話を私に取り次いでいました。

 あとでわかったことですが、ほかの新聞社は私が陛下と美智子さまの間で何か動いていると気づいていましたが、私をつつくと、父に筒抜けになる可能性があり、取材しにくかったようです。

 陛下がそこまで考えて、私を指名されたのならすごいことです(笑)。

 当時は鮮魚店の店員になりすまして正田邸に食い込もうとした記者がいたり、美智子さまの母・富美子さんをヘリで追跡したりと取材攻勢はすさまじいものが……。

和雄 最後は当時の御所の陛下の電話から直接、正田家に連絡をして美智子さまを呼び出してもらい、陛下に代わりました。

 後年、聞いたところによると、陛下は美智子さまに「YESと言ってください」「公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの」と強くおっしゃったそうです。

 そんな陛下の率直で、まっすぐなお人柄に美智子さまは結婚を決められたのではないでしょうか。

 陛下との婚約内定記者会見での美智子さまの陛下に対する「とてもご誠実でご立派で……」という言葉は当時、流行語となった。

和雄 婚約決定前、陛下が美智子さまをテニスにお誘いしていた当時、笹の葉だと思いますが、それに包まれたちまきを振る舞われたことがありました。

陛下が振る舞われたちまきにうれしそうな美智子さま。昭和33(1958)年5月(毎日新聞社)

 現在でも毎年5月、こどもの日の前後に東京・ローンテニスクラブに両陛下がいらっしゃるときは、ちまきをお持ちになられます。そのときの思い出を大切にされているのでしょう。

正雄 私も陛下の美智子さまへの愛情は、格別なものだと思います。

 私がドイツに滞在していたころ、当時の東宮御所に世界中の白樺の木を植えたいから、ドイツの白樺の種も送ってくれと陛下から頼まれたことがあります。

 白樺は美智子さまのお印です。それだけ美智子さまのことを思われていたのでしょう。その白樺はまだ残っているのではないでしょうか。

和雄 マスコミの人からよく両陛下のケンカされるところを見たことがないかと聞かれますが、残念ながら1度もありません。

 公務やテニスをしている姿からも、お互いを思いやる気持ちが伝わってくるので、あんな素晴らしいご夫婦はほかにはいないと思います。

正雄 退位後はおふたりで自由な生活を送っていただきたいですね。数年前に中・高等科時代の同窓会が開かれ、陛下もいらっしゃることになりました。

 最初はご滞在時間が2時間の予定でしたが、次は1時間、30分、最後は10分間だけになり、隣の席だった私とはひと言交わされただけでした。美智子さまも、そんな束縛された生活を送られていたと思うので、5月からは自由な生活を送っていただきたいです。

陛下のご出席の時間が大幅に減った同窓会。右上が正雄さん。平成27(2015)年10月

和雄 退位された後は、軽井沢に小さい家を持って、おふたりで近くのテニスコートで1日10分でもいいからプレーしていただきたいですね。

 皇居にうかがったとき、部屋の窓の向こう側の庭に、陛下に言われて育てている草花があると美智子さまにご紹介いただきました。

 私に、“ポケちゃん、見て行ってね”という言い方がとてもうれしそうで、両陛下の夫婦愛を垣間見た感じがしました。

(注1)こいずみ・しんぞう。1888(明治21)年生まれ。経済学者。慶大塾長などを務めた後、東宮御学問参与に。陛下の教育にあたり、美智子さまとの結婚にも尽力した

(注2)エリザベス・バイニング。1902(明治35)年アメリカ生まれ。司書、作家。陛下の家庭教師として選ばれ来日して、学習院などでも教えた

織田正雄(おだ・まさお)◎昭和9(1934)年1月生まれ。学習院中等科から高等科まで天皇陛下と同級。慶大卒業後の東京銀行(当時)時代にドイツ留学。ハンブルク支店などに勤務。日独フォーラム会長。日独協会理事。著書に『ドイツ・ビジネスガイド』(有斐閣)

織田和雄(おだ・かずお)◎昭和10(1935)年11月生まれ。中等科2年から大学まで学習院で学ぶ。天皇陛下より2歳後輩。卒業後は、慶應大学院や米英の学校で学び、三菱商事でエネルギー分野を主に担当。近著に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館)