(左)学習院初等科6年生の社会科見学で(右)昨年お誕生日に際して

 いよいよ間近に迫った新しい天皇陛下のご即位と、新時代令和。

 新しい時代の象徴となる新天皇陛下はどんな方なのだろうか。

 名は徳仁さま。称号は浩宮。昭和35年(1960年)2月23日生まれ。学歴は学習院幼稚園入園後、学習院初等科、中等科、高等科、学習院大学(文学部史学科)と歩まれてきた。

 ’83年から’85年にかけ、オックスフォード大学マートン・カレッジにご留学。’88年には学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程をご修了。専攻は歴史学。

 ご趣味は登山、ヴィオラ演奏、ジョギングなど。またお酒も嗜(たしな)まれ、たいそう“お強い”との評判も。

 言うまでもなく、皇太子として公務と国際親善に努められてきた。また、'03年よりご病気の療養に入っている妻の雅子さまを支え、聡明と評判の長女・愛子さまの教育にも力を入れられてきた。

 仕事と家庭両面にベストを尽くす誠実さはまさしくご両親譲りのもの。ここでは、そんな新天皇陛下のさらなる内面や成長過程がうかがえる文章をご紹介したい。

卒業文集『徳桜集』

 学習院初等科の卒業文集。徳仁さまの徳を取った『徳桜集』という文集で卒業生らが2つのテーマで文章を寄せている。1つは『思い出』、もう1つは『二十一世紀からこんにちは-二〇〇一年〇月〇日の手紙-』。

 つまり、学校生活の思い出と、将来の自分についての作文ということ。殿下の“12歳の地図”まずはご一読を。

<テーマ:思い出>
  思い出の修学旅行
                        徳仁親王

 長い長いと思われた初等科時代も、あとわずかになった。ここで、今までの六年間をふり返ってみる時、ぱっとぼくの心の中に浮かび上がるのは、なんといっても、六年生の春に行った福島への修学旅行だ。

 福島駅で列車を降りると、出発した上野駅とは変わった東北地方特有のひんやりした風が吹いていた。ぼくたちをむかえてくれる風のような気がした。長い間の列車の中の退屈した気分を吹き飛ばしてくれたのだ。スモッグがひどく、空気のよごれた東京よりも、すがすがしい空気の中で暮らせる福島の人たちはしあわせだと思った。

 車窓から見えた安達太良山・磐梯山などは、古い古い過去を物語ってくれるようだ。そう、安達太良山といえば、高村光太郎作の(あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川)という詩を思い出す。しかし、実際にはそのとき、ぼくは、この詩を部分的にしか知っていなかった。この詩の全容に出会ったのは、その夏である。磐梯山についていえば、(会津磐梯山は宝の山よ)という、あの有名な歌……。

 翌日行った中で、いちばん印象深かったのは飯盛山だった。ここは白虎隊十九士の墓のある所だ。墓の前に立つと、ぷうんと線香のにおいが鼻を突く。昔の人はここを通るとき、きっと墓石に涙を注いだことだろう。ぼくもここに、自分の家の花をささげたいような気がした。戸の口原で戦って負け、飯盛山に逃げて、鶴が城が焼けているのを見、自殺した。ほんとうは、城は焼けていなかった。あわれな最期であった。死にさいして、彼らの心の中にあった思いは、どんなものであっただろうか、ぼくはその後も折々考える。

 修学旅行は、ぼくたちにすばらしい思い出を与えてくれた。風景の美しさ、集団生活の楽しさ。さらにこの思い出は、後の歴史の勉強などにも大いに役立つことだろう。福島県下の旅行と初等科時代の思い出は、ぼくの心の中で、切っても切りはなせない思い出となり、いつまでも残ることだろう。

 

<テーマ:「二十一世紀からこんにちは-二〇〇一年〇月〇日の手紙-」>
                        徳仁親王

 みなさん、お元気ですか。わたくしは、今、大学で、日本史を教えています。

 この間、学生たちに美しい平城京の姿を知ってもらいたいと思い、奈良に行ってきました。初めに東大寺などの寺院を見ました。ふり返ってみれば、わたくしがこの東大寺を訪れたのは、今から三十数年前、たぶん初等科四年生のころだったと思います。幸いに、大仏も四天王も当時と変わらず大切に保存されています。ふくうけんじゃくの美しい姿も変わっていません。ほっとして外へ出れば、若草山・春日山・三笠山などがなつかしい姿を見せています。それを望んでいると、どこからともなく、(天の原、ふりさけ見ればかすがなる、三笠の山に出でし月かも)という歌がわたくしの耳をかすめ、再び永遠の彼方に消え去っていくような気がしました。空を見上げれば、雲一つありません。この晴れ渡った空を、昔の人はどう思ったでしょうか。わたくしは、あれやこれやのことを、「奈良見物記」という題で本にまとめました。
 
 これは余談になりますが、旅先の旅館におりますと、山鳥の声が微妙に悲しげに響いてきます。夜は、マッチぼうを散りばめたように星が光っておりました。自然はいいなあと、何度思ったか知れません。

 そうしている間に、ついに帰京する日が来ました。古い歴史を語る奈良に、わたしは、いつまでもいつまでも自然や遺跡が保存されることを願ってやみません。

 ではみなさま、くれぐれもおからだを大切に、さようなら。

 

 いかがだろうか。まず美しい自然と文学を愛(め)で、歴史と文化を学ぼうとする素直な心が伝わってくる。

「趣味が登山ということからもわかりますが、殿下は自然と美しい景色を愛するロマンチストですね。そこは少年時代から今も変わっていないといえるでしょう」(全国紙宮内庁担当記者)

 また、白虎隊の悲劇に思いを寄せたのは、高祖父(ひいひいおじいさん)の明治天皇を押し立てた官軍と会津藩の戦いの歴史の因縁を感じてのことなのかもしれない。

 また、「二十一世紀から」のほうは皇太子、天皇となる定められた将来を知りながら、愛する歴史に携わる未来にも思いを馳せる健気な文章だ。

 皇室取材歴60年のジャーナリスト、文化女子大学客員教授の渡邉みどりさんは、「二十一世紀から」の作文について、

殿下の歴史愛は美智子さまのご教育の賜物(たまもの)だと思っています。初等科低学年のころ殿下は赤坂御用地内にかつて奥州街道が通っていたことを知り、歴史と道に興味を持たれました。美智子さまはその関心に応え、殿下と一緒に松尾芭蕉の『奥の細道』を読破されたのです」

 やがて関心は道から海上交通につながり、大学の卒業論文は瀬戸内海の海上交通史、オックスフォード大学での論文はテムズ川の交通史について。

「海上交通から関心は水全般に移り、かつて国連の『水と衛生に関する諮問委員会』の名誉総裁を務められるなど、水は殿下のライフワークになっています。少年時代の歴史愛がライフワークにつながっていったということですね」(渡邉さん)

 殿下は間もなく天皇としての“道”が始まるわけだが、その誠実なお心で国民とともに歩んでいかれることは間違いない。