丸山穂高議員(丸山ほだか公式HPより)
 北方領土返還問題に関して、「(ロシアと)戦争しないと、どうしょうもなくないですか」と発言をした丸山穂高衆院議員。この国会議員としてあるまじき“論外な言動”を受け、野党6党派は17日、議員辞職勧告決議案を提出したが、自身はこれに反論。辞任を否定する意向を示している。今回の一連の騒動を見つめるなかでフィフィは、日本が“言論統制”する方向にメディアともども傾いているのではないかと危惧する――。

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 飲酒し泥酔状態で北方領土問題について訪問団長に詰め寄ったこと、その態度や酒癖の悪さに対し、“議員としての自覚が足りない”と丸山穂高議員を叱責するならわかります。だけど今回辞任を要求している理由は、自覚うんぬんよりも“発言内容”に重点が置かれている印象を受けますよね。

 もちろん、敗戦を経て多くの傷を負った日本が“戦争”というキーワードに過剰反応する気持ちは十分理解できるし、国会議員が戦争を煽(あお)ると思われるような発言をすれば、当然騒ぎになることも想像はできます。

 ただ、“発言そのものをさせない”という圧力はいかがなものでしょうか。私は、今回の丸山議員の発言を巡る、辞職勧告決議案提出の動きに、何より怖さを感じました。

 発言そのものをさせないーー。つまりこの動きに、民主国家を謳(うた)っている日本が、感情に流され、それが当たり前のことであるかのように“言論の統制”という最も恐ろしい状況を作り出しているのではないかと危惧するんです。

 メディアが世論を誘導し、政党が世間からのマイナスイメージを恐れ、辞任を要求する。この一連の流れに怖さを感じずにはいられません。

議論の場での発言であったなら

《議員として酒癖の悪さでトラブルを起こしてきたのを問われるならまだ分かる。でも発言内容で辞職勧告を決議しようという動きには少し怖さを覚える。私は丸山議員と同じ考え方には無いが、世論に反するからといって辞任を迫るってどうなんだろ。本来であれば選挙の時に国民に判断させるべき事でしょう?》(5月19日)

 私が昨夜、以上のようにツイートしたところ、「丸山議員を擁護しているですね」といった旨の返信がいくつか届いた。私のいいたいことの本質が伝わりづらかったのは、今回の件が懇親会というシチュエーションで起きたという点も大きいです。

 たとえばこれが国会内、ちゃんとした議論の場での発言であったならば、憲法の姿勢に反する発言をしたからという理由で、果たして辞任させて良いものかという議論が巻き起こったことと思います。

 本来、意見というのは色んな方向から出でしかるべきで、それを抑え込んでしまうと、それはもはや議論ではなくなります。たとえそれが憲法や国家の姿勢、世論に反した意見であっても、議論においてはそうした意見も大切にされるべきだと思うんです。

 その点で、今回の発言を巡っては、国益、国民の安全、国防といろんな方面から議論が巻き起こりました。議論を生むという、そのこと自体は本来良いことではあるものの、今後の憲法改正議論に都合よく利用されるのを恐れて、日本維新の会が保身とも取れる対応をせざるを得なかったことは理解できます。

 だけど日ごろ、表現の自由を声高に叫ぶメディアが、丸山議員の発言を叩くことには矛盾を感じます。

 表現の自由がない国々もあるなかで、結局日本もそうした国々と変わらない境遇にあるのではないかと思ってしまいますよね。社会の多様性を目指すと表ではいいながら、右向け右で、世論が誘導して次から次へと辞任させる。

 これを違和感もなく当然のことと考えるなら、それこそ明日は我が身です。ついつい、政治のなかだけで起きていることと思ってしまいがちだけど、こうした事態は自分たちの生きる社会、環境にも反映するのだということを決して忘れてはいけないと思います。

<文/フィフィ>