事件現場には手を合わせる人が途絶えず……

 5月28日の朝7時45分ごろ、神奈川県川崎市の小田急線登戸駅前でスクールバスを待っていた小学生ら19人が包丁を持った男に襲われ、2名の尊い命が奪われました。男は事件現場で自らの首を刺し、搬送先の病院で死亡。わずか十数秒の間に19人と自分を刺すというショッキングな事件に、メディアが大々的に報道したほか、ネット上のSNSにもさまざまな声が飛び交っています。

 なかでもメディア、SNSの両方で目立つのは、犯人への激しい怒り。池袋や大津の交通事故など、幼い命が奪われるニュースが続いたこともあってか、事故の第一報直後から「極刑にしろ」「頭のおかしい人間を世に放つとこうなる」「危ないやつはこのまま死んだほうがいい」などの感情的な声がヒートアップしていました。

 残酷な犯行の直後だけに、このような声がネット上を埋め尽くすのも、仕方のないことなのかもしれません。

強烈な不満や理不尽を感じている人はほかにもいる

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 さらに驚かされたのは、Yahoo!のトップニュースに選ばれた「川崎殺傷事件『死にたいなら一人で死ぬべき』という非難は控えてほしい」という記事に批判が殺到したこと。

 書き手に対して「無責任な偽善者!」「論点をずらすな」「なぜこいつは加害者に優しくするんだ」「お前の家族が殺されてもそう言えるのか?」「どうせお金目的か売名行為だろう」などと猛批判するツイートが続出したのです。

 ちなみにこの記事から一部を引用すれば、「類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している」「『死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき』『死ぬなら迷惑かけずに死ね』というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない」とあります。

 決して今回の犯人を擁護しているわけではなく、専門家としての立場から「さらなる被害を防ごう」とした緊急メッセージでした。

 世間の人々が犯罪者を批判したい気持ちをわかったうえ上で、「まずは犯罪の連鎖を防ぐことが重要」と言いたかったのでしょう。今回の事件を「結果」という過去形で見て怒っている人と、「まだ終わっていないかもしれない」という進行形で見て恐れている人との違いが見えました。「どちらが良い悪い」ではなく、論点が違っていたのです。

 今回の事件の犯人に関しては情状酌量の余地がなく、「どんな批判を浴びせても足りない」という感があるのは間違いありません。しかし、そこで思考回路を閉じてしまうようでは、今回のような犯罪が増えることはあっても減ることはないでしょう。

 SNSの発達で一人ひとりが主体的な意見を持つようになった現在では、「犯人を批判する」という感情に基づいたファーストステップに続く、理性的なセカンドステップが求められているのです。

子どもたちが狙われる本当の理由

「今回のような犯罪が増えることはあっても減ることはない」と書いたのは、「社会から孤立している」「生きづらいという感覚を抱えている」「強烈な不満や理不尽さを感じている」という人が増えているから。

 私はコンサルタントとして、これまで2万人以上の悩みを聞いてきましたが、その孤立、生きづらさ、不満・理不尽を強く訴える人の数は明らかに増えています。

 ネットの普及で生活が便利になる反面、画面上のコミュニケーションが中心で人間関係が希薄になり、「本当の友人がいない」「恋人もいない」「結婚もしない」「家族と折り合いが悪い」などと人々の孤立化は進む一方。さらに、「お金もあまりない」「定職がない」「やりたい仕事がない」「行きたい外出先がない」などの失うものがない人も増えているのです。

 人間である以上、いくらかの孤独や不満はつきものですが、「失いたくないもの」や「幸せを実感できる人」の存在がそれらを軽減しています。犯罪者の背景をひも解くと、「一定以上の抑止力になるような『失いたくないもの』や『幸せを実感できる人』がいなかった」というケースも多く、だから自暴自棄になりやすく、心が病んでいく人が少なくないのでしょう。

 今回の事件では、「自分より弱い子どもを標的にしたことが許せない」という声を多数見かけました。ただ、子どもが犯罪者から狙われやすいのは「弱いから」だけではないでしょう。「失いたくないもの」や「幸せを実感できる人」がいない人にとって、子どもは未来や幸せの象徴だから攻撃の対象になりやすいのです。

 どんな人でも「失いたくないもの」や「幸せを実感できる人」を作れるのが健全な社会のあり方。専門家を含む組織的なフォロー体制の構築、対面コミュニケーションを増やす環境作り、メディア・自治体・任意団体による啓蒙活動、情操教育の見直しなど、できるだけ幸・不幸の格差を埋める社会的なサポートが求められているのではないでしょうか。

怒りは出し尽くせず、心の中に宿る

 次に、「『犯人を批判する』という感情に基づくファーストステップに続く、理性的なセカンドステップが求められている」に話を移すと、現状では「そんなことはわかっているけど、そんなにうまくできない」という人が大半を占めています。

 そういう人が感情論に終始してしまう最大の理由は、自分の感情を整理できていないから。自分では「怒りの感情を出し尽くしたから、ここから先は理性的に考えられる」と思いがちですが、その思考回路こそが落とし穴。怒りの感情は「出し尽くした」と思っていても、心の中に宿り続けるため、なかなか理性的にはなれないものです。

 例えば、「上司が同僚を叱ったあとに、自分もとばっちりを受けて叱られた」「恋人や家族に怒りをぶちまけたあと、ムカムカしてなかなか眠れなかった」「この前と同じ理由で、また怒ってしまった」。これらはすべて怒りの感情が心の中に宿り続けているからであり、感情は自分で思っているほどうまく切り換えられないのです。

 自分の感情を整理するために大切なのは、一つひとつの感情と向き合って片付けていくこと。実際、「怒っている」という感情も分解していくとさまざまなものが混じっていて、それはまるで散らかっている部屋のようであり、一つずつ片付けていく必要性があるのです。

 下記に、今回の事件でコメントとして飛び交っている感情を一つずつ挙げていきましょう。

 最も目についたのは、「犯人はサイコパス。社会には一定数いるものだから仕方ない」というコメント。「犯人を生来の悪とみなすことで思考回路を閉じてしまおう」というものですが、そうコメントしたところで割り切れるものではなく、けっきょく怒りの感情を心に宿してしまうものです。また、「相手を生来の悪」とみなすことで必然的に「自分は正義」という対極の立ち位置になりますが、よほど清廉潔白な人でない限り、居心地の悪さを感じてしまうでしょう。

 2番目に目立っていたのは、「自分はどんなにつらくても絶対にこんなことはしない」というコメント。もちろん間違いではないのですが、第三者である以上、「自分は」という視点にあまり意味はありません。「自分は」という主観を込めたフレーズは感情論そのものであり、被害者と加害者の前に「自分は」が来る人は、感情>理性の思考回路から抜け出せず、「知らぬ間にストレスをためてしまう」タイプなのです。

 その他で気になったのは、「こういう底辺の人間といかに関わらないようにするかが重要」「おかしな人間は隔離すべきだ」「どうせロクな親じゃなかったんだろう」といった人をさげすむようなコメント。どれも差別的な目線に基づくものであり、「犯罪者だから第三者が何を言ってもいい」というわけではないでしょう。

 このように、自分の中に生じた感情を一つひとつ理解しつつ整理していくことで、おのずと理性的な思考回路になっていくでしょう。そもそも相手が犯罪者とはいえ、脊髄反射的に批判をしたくなってしまうのは、日ごろ感情的な思考回路になっていることの証。それは必ずしも悪いことではありませんが、あなたが一流のビジネスパーソンなら、怒りのパワーをSNSへの書き込みに注ぐのではなく、「再発防止」「リスク軽減」「安全対策」などの理性的な議論に転換していきたいところです。

錯乱状態の人でも話を聞けば心は晴れる

 こういうコラムを書くと必ずと言っていいほど、「PV狙い」「炎上商法」と私自身もバッシングされてしまいます。それでも書くのをやめないのは、「犯人批判と被害者哀悼だけでは、新たな悲劇を生んでしまう」という懸念が消えないから。

 今日も朝から民放全局の情報番組で大々的にこの事件を扱っていますが、「加害者」と「被害者」の人柄にフォーカスし、視聴者の共感を狙うものが多いことに疑問を感じてしまいます。一人ひとりが感情的な思考回路を閉じずに考え続けていくことの重要さはメディアも同じ。個人とメディア、双方が今後に向けた議論を重ね、対策を講じていくことが、悲劇的な事件のリスク軽減につながっていくのではないでしょうか。

 長年コンサルをしていると、外見は普通でも、話してみると精神が病んでいたり、錯乱状態で会話にならなかったりする人が少なくありません。ときには、「こんなにつらいなら死んでしまいたい」「『みんな不幸になれ』と思っている」「殺したいほどあいつが憎い」「絶対に復讐したい」などと話す人もいました。それでも、たまりにたまった負の感情をこちらに吐き出し、ごくわずかでも光が見えることで、どこかすっきりした顔で帰っていくものです。

 最近は「効果的な言葉をかけるより、話をしっかり聞くこと」「孤独感をやわらげ、存在を認めること」を重視したコンサルを行っていますが、これは特別なスキルが必要なものではなく、身近な人に対して誰もができるコミュニケーションにすぎません。もちろん、孤立した人に対して、「君子危うきに近寄らず」という対処方法もありですが、一方では「その方法だけで逃げ切れるのか?」という疑問も拭えないのではないでしょうか。

 私たちはどこまで行っても、事件の当事者にはなれず、第三者でしかいられない存在。だからこそ、まるで自分が被害者であるかように加害者批判を繰り返すのではなく、第三者の立場から被害者を悼み、「事件から何を学び、今後につなげるのか」を考える。きれいごとや理想論と言われても、悲劇の可能性を1%でも減らせるのなら、それはやるべきことのような気がするのです。


木村 隆志(きむら たかし)コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者。テレビ、ドラマ、タレントを専門テーマに、メディア出演やコラム執筆を重ねるほか、取材歴2000人超のタレント専門インタビュアーとしても活動。さらに、独自のコミュニケーション理論をベースにした人間関係コンサルタントとして、1万人超の対人相談に乗っている。著書に『トップ・インタビュアーの「聴き技」84』(TAC出版)など。