現在、全国に100万人いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は今年初めて、40歳以上が対象の調査結果を公表した。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。
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喜久井ヤシンさん(31)のケース

 待ち合わせの喫茶店にやってきた彼を見て、「名探偵コナン」みたいな青年だなと思った。穏やかな表情だが、眼鏡の奥の目は非常に冷静で知的な印象である。エスニック調のファッションがセンスのよさを感じさせた。

 彼は小学校2年生から不登校になり、ずっと「学校へ行けなかった自分」と闘ってきた。

とにかく学校というシステムが合わなかったんです。何時から何時までそこにいなくてはならないという時間割が私の生理に向いていなかった。1時間目に国語があったら、頭は国語になっている。それなのに2時間目にすぐ算数の頭に切り替わらないんですよ

 喜久井ヤシンさん(31)は落ち着いた口調でそう言った。共働きの両親の間に生まれたひとりっ子。保育園に通うころは「たくさん遊んで楽しかった」と話す。小学校に入って、急にいろいろな規制や制約があることに心身が拒絶反応を示したのだろうか。

 実は私自身も、規則やシステムが守れない子どもだった。小学生のころ、全校生徒が校庭に並ぶとき待つことができず、ひとり列を離れて砂場で遊んでいた。先生が追いかけてくると捕まらないように逃げ回った。私は校庭で全校生徒がそろうのを、ただ列を作って待つのが無駄だと感じていたのだ。そろうまで砂場で遊んでいてもかまわないと思った。

 子どもから見れば、ことほど左様に学校のシステムは無駄が多い。私は開き直ったような態度を見せていたが、幼いころから繊細なヤシンさんはシステムへの恐怖感が私よりずっと強かったに違いない。

学校へ行けない理由は、単純な話じゃない

私が学校へ行かないことで母親は激怒、無理やり腕を引っ張って行かせようとしました。だけど、そうすればするほど身体が拒否反応を示すんです。全身が虚脱して動けない、頭痛、腹痛もひどくなる。結果、行けない状態になる

 周りはなんとかして学校へ行かせようとする。なぜなら「子どもは学校へ行くべき」だからだ。3、4年生のときは少しだけ行った。5、6年生になると、“保健室登校”はどうかと学校側から提案があった。ボランティアが来ていたので、そこに通った。

「ただ、ボランティアが“なぜ学校がイヤなの?”と聞くんです。時間割がいやだ、食べたくもないのに給食の時間だと無理やり食べさせられるのもいやだと言うと、不登校はそれが原因だと決めつけられる。学校へ行けない理由は、そんな単純な話じゃない。私だって親の期待を裏切って失望させて申し訳ないと思っていたし、できるならきちんと通いたいと思っている。自分が自分に裏切られているような気持ちだったんです

 不登校の原因は「自分でも説明しづらい」と彼は言う。彼の場合、病気でも、いじめでもない。学校のシステムになじめないのは一端である。そして、たとえいじめを受けても学校へ行っている人もいる。そんなことはわかっている。だからこそ他者には説明できないし、親も自分も裏切っているようでつらかった。

母から受けた「心配」という名の支配

 中学は入学式とその後、数日通っただけで行かなくなった。中学2年生の春から夏にかけては特別支援学級、3年生の半年ほどは校内のカウンセリングルームに、いずれも週2、3日行ったことがある。

「どこへ行っても気持ちが休まらなかった。学校へ行かせようとする親との妥協点がそんな感じだっただけ」

 卒業後は母親の要望により、サポート校に在籍した。サポート校は高等学校卒業程度認定試験の合格を目指す人などの学習を補助する、一種の塾のような場。彼は1学年の3分の1くらい登校しただけで、図書館へ行くことが多かった。

「親はもう学校へ行かないことには何も言わなくなっていました。父親はもともと私に対して、よく言えば“自然に接していた”、悪く言えば“放任”でしたから軋轢(あつれき)はなかったんですが、母親は心配性で過干渉。10代半ばからはそれがひどくなって、私がどこかに電車で出かけるだけで“大丈夫なの?”“危なくないの?”って。いつまでたっても幼児扱い。私がレトルト食品を湯煎しようと、鍋を火にかけただけで“あら、すごい。上手ね”って。私は幼稚園児ではないのに。

 そうやって幼児扱いするのは、結局、私への評価が低いからなんです。そして気づいた。本来、私自身が決めるべきことを、ずっと母が決めてきたことに。不登校の代替で特別支援学級やサポート校に行ったのもすべて母の要望。私には1度も決定権がなかった。私の人生なのに……。そこから怒りや憎しみが出てきたんですよね

 17歳のころだった。半年間、1歩も外に出ずひきこもっているうちに負の感情が増幅されていった。突然、悲鳴を上げたり号泣したりしたこともあるという。

自殺したいと思うようになって、自分に危機感を覚えました。そこで、自分で精神科医を探したんです。カウンセリングを受けたほうがいい、と。月に2回通ったけど、医師から特別なメッセージは受け取れなかった。ただ、ひとりで閉鎖的にならなかったのはよかったかもしれません。10代は何もしてこなかったなぁと絶望的な気持ちでした。本当に死にたいと思っていたけど、あと1年たてば何か変わるだろうかと思うところもあって、単純に延期して」

 最初は、彼が精神科に通うことを渋っていた母も、医師とは話をしてくれた。ヤシンさんは母親にアダルトチルドレン関係の本を渡して読んでほしいと頼んだ。ただ、母の反応は鈍かったという。

母は完璧主義者なんです。仕事をしながら家事も手抜きをしない。そんな母が子育てには失敗したことを認めたくなかったのかもしれません

 ヤシンさんは端的な言葉で、自分のことも母親のことも分析していく。

ひとりの人間として母と対話

 18歳になってから、彼は「シューレ大学」を知り、通い始める。ここは1994年に開設されたNPO法人東京シューレによるフリースクールだ。スタッフの助言を受けながら、自分が知りたいこと、表現したいことを学べる。ヤシンさんは美術と文学を中心にディスカッションをするなど、自分のペースで通った。

居場所としての役割が大きかったですね。家以外でそういう場所があるのは、いま振り返っても大事だと思う

 ただ、そのころは常にピリピリしていた時期でもあった。対人恐怖症であるかのように、「人にどう思われるか」を気にして、外出前は1時間も鏡を見ながら身だしなみを整え、気持ちを落ち着かせたほどだ。

 25歳のころ、母がシューレ大学の学費を払うのを渋るようになった。働くしかないかもしれない。彼は危機感を覚え、スタッフと母親と3人で話し合う機会をもった。

大きな転機になったと思います。私はこれ以上支配されたくないと、初めて母にはっきり言った。そして母の人生で何がつらかったのか、何がうれしかったのか、私のこと以外に興味があることは何か……。お互いにひとりの人間として話すことができたんです。母は若いころ、会社でいじめられていたそうです。そんな話も聞いたことがなかった。何ものとも比べようのない時間でした。母も私も、過去をなかったものとするのはやめて、向き合いながら勇気をもって進んでいこうという気になりました

 もちろん、それで母の性格が一気に変わるわけではない。だがシューレ大学を続けることには納得してもらった。そして、それを機にひとり暮らしを始めたいと母に言った。

「やはり抵抗されました。電気代とか水道代などの一覧表を見せて、どのくらいお金がかかるものなのかをわからせようとする。そして私が無理だと思う頃合いを見計らって、最後は“あなたが決めなさいね”って。母の中にはいつもストーリーができているんです。そこに私の行動をあてはめようとする。赤ちゃんを扱うように私に接する。それが我慢できなかったんですよね」

 結局、ヤシンさんはひとり暮らしを決行する。「親から援助を受けてですけどね。すねかじりの穀潰(ごくつぶ)しです」と自嘲的につぶやいた。

 だが結果的には、物理的に離れたことは大きかった。母の過干渉を受け止めることは、彼にはもうできなかったのだ。

家を出たら、まるでコルセットがはずれたような感じでした。母の“心配という名の支配”からやっと逃れることができた。母も伝え方が下手なんですよね。もう少し言葉できちんと伝えるとか妥協点を見いだすとかしてくれれば、話し合えるんですが

 家を出てからは断続的にアルバイトを始める。あまり人と話さなくてすむ倉庫での物流関係の仕事などを選んだ。

「最初は労働することは苦役に服することだと思っていました。ひきこもっていたことへのプレッシャーもついて回るんですよ。だって人と会うと“世間話”というものをしなければいけないでしょう。小学校のころどうだったとか、どんな給食が出たとかの話になると、ついていけない。だけどだんだん、適当に話を合わせることができるようになっていきました。その間、必死で闘っている状態でした」

 現在は週に3日、アルバイトで働いている。その合間には本を読んだり、文章を書いたり美術館へ出かけたりと、1日1日が充実している実感があるという。

ひきこもり経験もあってLGBT

 ただ、彼はもうひとつ「生きづらさ」を抱えてきた。

15歳のころからぼんやりと意識していたんですが、私は同性愛者なんです。親子関係で悩んだりひきこもったりしていたので、そちらが圧倒的な大問題で、LGBTは隠れていた。自分の中ではLGBTであることとひきこもりは直接の関係はありません。ただ、世間は異性愛を前提とした会話をするので、そういう世間話が出るとドキッとすることはあって、それが生きづらさにつながっていく。仕事先や親には言えません」

 シューレ大学やひきこもりの「居場所」などで少しずつ人とつながり、親しい友人には話せるようになったという。

「31歳、非正規で働いていて、ひきこもり経験もあってLGBT。それが私ですが、今の日本では本当に生きづらい。ただ、少しだけ自分で決定して歩いていけるようになっている気はします。世の中はすべて『~すべき』でできているでしょう。学校へ行くべき、就職するべきって。はたしてそれをきちんとこなしたとき、本人は楽しいのかというのが私の疑問なんです

 私自身、早々に世の中の「正規コース」からはずれた人間である。高校にはきちんと通えず、劣等生だったし、大学入学には2年も浪人した。かろうじて卒業はできたが、就職はしたことがない。できなかったというのが正しい。ずっとフリーランスで収入は不安定。「人生は楽しい」と諸手を挙げては言えないが、「生きてりゃいいこともある」程度には思っている。

 ヤシンさんと同じように「~すべき」と考えている人を見ると、つらくないかなと心配してしまう。余計なお世話ではあるけれど。どうせ誰もがいつかこの世を去っていく。それなら好きなことをしたほうがいい。

実家には年に数回、帰る程度です。数年前、父が入院したのでお見舞いに行ったとき、父が弱っている姿を見たら、私も少し本音で話せましたね。最近は、実家に行くたびに少しずつ滞在時間が増えています。母との関係も、時間をかけてもう少し良好になれたらと考えています。私たちにはまだ先があると信じて

 ひきこもり当事者の会に行けば、親と断絶している人たちもいる。「先に希望があると信じられただけ幸せかもしれない」と彼はつぶやいた。

 彼は仲間内でも「若くて知性に富んだ、非常に才能をもった人」と認識されている。自分では「多方面に興味をもったリベラルで寛大な者でいるつもり。複数のマイノリティーがあるため、そうでなければやっていけないんですけどね」と自分を分析する。

 私から見ると、やはり「名探偵コナン」のようだった。鋭い直感と緻密な分析、それを言葉にする理性と知性が彼には備わっている。

【文/亀山早苗(ノンフィクションライター)】


かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆