初瀬勇輔さん 撮影/坂本利幸

 初瀬勇輔さんの肩書は、障害者雇用コンサルタントにしてパラアスリート。2枚の名刺を持つ起業家でもあります。現在、障害者に特化した人材紹介会社「株式会社ユニバーサルスタイル」、企業の健康経営や個人の健康をサポートする会社「株式会社スタイル・エッジMEDICAL」、両社の代表取締役として忙しい日々を送る初瀬さん。

「死ぬのは1年だけ延期しよう」

 15年前は絶望の底にいたと言います。当時、中央大学2年生だった初瀬さんは、23歳にして視力を失ったのです。

「手術直後だから見えないのであって、徐々に回復するのだと思っていました。でもそうではなかった。歯ブラシに歯磨き粉もつけられない。自販機で好きな飲み物を選ぶこともできない。今まで普通にしていた日常的な動作が全くできなくなってしまったのです」

 絶望の中、「死ぬのは1年だけ延期しよう」と初瀬さんは決めたと言います。

「どんな環境であっても人は慣れるものなんです。時間が解決するというか。今となっては1年間は、自分の目が悪いことに慣れる期間だったのだと思います。それを僕は“ポジティブにあきらめていく”過程と名づけています。できないことは悩んでもしかたないから、人に頼むしかないと、少しずつですが、そう割り切って受容してきました」

 将来への不安もあった初瀬さんですが、大学だけは卒業すると決めていました。大学の事務室に出向くと「目が悪くなってしまった。でも卒業したい」と相談を持ちかけます。

僕みたいに途中で目が悪くなって字も見えないし、点字も読めない学生は前例がなかった。でも、大学側は“いい前例を作りましょう”と言ってくれた。1か月ぐらいたったころに連絡をもらって、“初瀬くんが単位を取りやすいように時間割を作りました”と。先生ひとりひとりに交渉し、マンツーマン授業など、特別な時間割を作ってくれたのです」

 大学側と献身的な友人のサポートで大学生活を乗り切った初瀬さんは就職活動で困難に直面します。何と応募した100社以上から落とされてしまったのです。

「あまりに相手にされないので、障害者のための仕事は自分で作り出すしかないのかなと思いましたね」

 ようやく大手人材派遣会社の特例子会社に就職が決まり、異なる障害のある人たちと一緒に働くことになります。障害者の就職活動の困難、そして労働整備がされていない現状。これらの体験が後に「障害者雇用のコンサルティングをやりたい」という将来の起業への夢につながったといいます。

「いつか障害者のための会社を作りたいと思っていましたが、具体的に動いてはいませんでした。それが変わったのは、東日本大震災のときです。明日やろうと言っていても、明日何が起こるかわからないのだから、今やらなければならないと背中を押されました」

失明を機に再び柔道の世界へ 

 パラアスリートとしても活躍する初瀬さんの競技種目は「視覚障害者柔道」。もともと中学では柔道部のキャプテンを務め、高校2、3年と続けて県大会で3位の成績を収めた初瀬さん。高校では国体の強化選手に選ばれたこともありましたが、大学では柔道から離れていました。ところが目が見えなくなったのを契機に、再び、柔道とつながります。

「大学4年生のときですが、進路をどうするか自分の予定が全く見えませんでした。大学の勉強はしていましたが、やっているのはそれだけで、自分から積極的に何かする気分にはなれなかった。僕がずっと引きこもって鬱々としているので、当時の彼女が“もう1度、柔道をやってみたら”とすすめてくれました。このとき、目の見えない人だけでやる視覚障害者柔道のことを知りました……と言いたいのですが、この話をすると、僕の母親は、アテネ・パラリンピックのときにすでに教えたと反論するんですよ(笑)。そのときは2回目の手術から半年しかたってないから、それどころじゃなかったと思いますが、頭の片隅に残っていたのかなと」

 視覚障害者柔道と出会った初瀬さんは、その面白さに魅了されます。

「視覚障害者柔道では、組んでからスタートするので組み手争いがなく、時間稼ぎもできず、逃げることが許されないんです。最後まで攻め続けるしかない。柔道に詳しくない人には、視覚障害者柔道のほうがドラマチックで面白く観戦できるんじゃないでしょうか」

 その後、初瀬さんの視覚障害者柔道界での快進撃は続きます。2005年から2013年にかけて、全日本視覚障害者柔道で9回の優勝。2008年北京パラリンピック柔道にも出場を果たします。今、目指すのは、2020年、東京パラリンピックでのメダルです。

アジア競技大会では金メダルに

「柔道が自分に思い出させてくれたのは、“くやしい”という感覚です。日常生活では諦めることが多かったのですが、畳の上では負けたらくやしいと思えた。久しぶりの感覚でした。さらに柔道は視覚障害者も健常者も基本的に同じことをやっているインクルーシブなスポーツです。垣根を越えて“全然一緒に柔道できるじゃん”と。2020年、東京でパラリンピックが開かれるのを機会に、ぜひ、純粋なスポーツとして楽しんでもらいたいと思います」

ライターは見た!著者の素顔

 初瀬さんが緑内障の手術で入院中、予備校で知り合った友人の磯(招完)さんが、ほぼ毎日泊まり込みでサポートしたそうです。「病室で10時間ぐらい話したりとか普通に接してくれましたね。当時はそれが当たり前でわからなかったんですけど、今思えば、目が悪くならなければ、ここまでしてくれる友人がそばにいることに気づかなかった」。退院する日、目が見えなくなったばかりの初瀬さんと、視覚障害者を誘導したことのない磯さんは、初心者同士、固く手を握り合って病院から外の世界に踏み出したといいます。

取材・文/ガンガーラ田津美


はつせ・ゆうすけ 1980年、長崎県生まれ。中央大学在学中に緑内障により視覚障害となる。卒業後、サンクステンプ勤務を経て、障害者雇用に貢献するため、株式会社ユニバーサルスタイル設立。その後、株式会社スタイル・エッジMEDICAL代表取締役にも就任し、企業や個人の健康をサポートする活動にも尽力。現在、視覚障害者柔道の選手として活躍しながら一般社団法人日本パラリンピアンズ協会理事などを務める。

『いま、絶望している君たちへ』初瀬勇輔=著日本経済新聞出版社 1400円