トニー・ジャスティスさん(57) アフリカヘリテイジコミティー理事長 撮影/伊藤和幸

血がつながっていなくても、家族みたいな関係って作れるよ

 食べて、遊んで、学べる『こども食堂&こども寺子屋』を毎月主催するガーナ人、トニーさんは純真な目を輝かせる。母国ガーナの食事風景にヒントを得て年齢制限は設けず、誰でも歓迎するスタイルだ。

 物資支援より“居場所”が大事だと気づき、母国に学校を作るプロジェクトも手がけている。日本に来た当初は差別に傷つき、無職のどん底も経験した。

 在日30年、自分のことなど二の次で子どもの未来を守ろうと奮闘する彼は「親切の連鎖」をつなごうとしていた。

目に見えない貧困

「日本では子どもの6人に1人が貧困状態にあります」

 テレビから聞こえてきた言葉にトニー・ジャスティスさん(57)は耳を疑った。

 西アフリカのガーナ出身で多国籍料理店を経営するトニーさん。在日30年近く、日本語も流暢に話す。

「アフリカには裸や裸足のまま路上で物を売っているストリートチルドレンがいますよ。でも、日本ではみんな学校に行ってるし、きれいな洋服を着てるでしょ。それなのに、目に見えない貧困がいっぱいあると聞いて、すごくショックでした

 朝ごはんを食べていない子や、孤食の子も増えている。日本の子どもたちは、アフリカの子どもたちとは違った生きづらさを抱えていることを知って、心が痛みました

 2015年の暮れのことだ。東京で子どものための食堂があると知り、自分も何か始めようと思った。

「私が日本に来て仕事もなくて困っていたときに救ってくれた人がいて、日本が好きになったの。だから、少しでも日本に恩返ししたい。とにかく、まず、子どもたちにお腹いっぱいごはんを食べてもらおうと思ったんですね

 トニーさんから話を聞いた妻の順子さん(36)は、「え、本当にやるの?」と思わず口にしたそうだ。

私は典型的日本人なので、準備してから走りたいタイプ。でも、主人は真逆で、考えるより動く

 失敗してもやり直せばいいと、どんどん行動するので、想像しただけでもついていくのは大変だろうなと。1回は反対しましたが、やると決めたらやる人なので

アフリカの文化を日本へ

 場所は神奈川県相模原市で自らが経営する店を使うことにし、名前は『ノヴィーニェ こども食堂』にした。ノヴィーニェとはトニーさんが属するエウェ族の言葉で、家族や仲間を意味する

 トニーさんの脳裏に浮かんだのは、生まれ育ったアフリカでの食事風景だ。近隣の人たちが集まって、ひとつの鍋にみんなが手を突っ込んで一緒に食事をすることが当たり前だった。

「何人来ても、おかわりをしても足りなくなることがないようにしたい」と大量の食材を仕込むトニーさん

「私のお父さんはお金持ちではなかったけど、クリスマスとか、部族のイベントがあるたびに、ヤギをさばいて、牛をさばいて。いっぱい料理作って、知らない人でも、違う宗教の人でも、みんなにふるまってた

 そういう食事の場が文化を伝える交流の場にもなっていたの。そんなアフリカ文化のいいところを日本にも伝えたいなと

 '16年2月。わずか2か月の準備で迎えたオープン初日。トニーさんは順子さんや友人にも手伝ってもらい、トマトベースのアフリカ風カレー、グリルチキン、アフリカンドーナツなど、子どもが喜びそうな料理をたくさん用意した

 大皿に盛り、好きなだけ取ってもらう。食事の後は遊びながら学べるプログラムも考えた。参加費は無料だ

 ところが、来てくれたのはわずか数人……

 どうしたら、困っている子どもに届くのか?

もう、やっちゃおう

 トニーさんは友人にも頼んで行政機関などあちこち相談に行ったが、心ない言葉を浴びせられたこともある。

何でアフリカの人が出てくるの。アフリカでやってよ

 それでも、トニーさんはめげなかった。

逆に、力が出たよ。ハハハハハ。よし、見せてやるよと。私、走り出したら止まらない人間だから(笑)。もう、やっちゃおう、やっちゃおう、やっちゃおうと

 ラジオで告知を流したり、タウンニュースで紹介してもらったり。最初に作ったチラシには貧困という言葉を使っていたが、「誰でも来て」と書き直したのもよかったのだろう。少しずつ参加者が増えていった。

 相模原に加えて、横浜市青葉台で経営する店でも開始。さらに、平日夜にも子ども食堂を始めた。今では毎月2か所で4回の子ども食堂を開いており、毎回数十人の子どもが訪れる。

アフリカ料理を楽しめる食堂

 7月20日に相模原で開かれた『ノヴィーニェ こども食堂&こども寺子屋』。トニーさんは朝から汗だくで厨房に立っていた。

 調理師学校の先生がベトナム人の生徒を連れて手伝いに来てくれ、大量のジャガイモやニンジンがみるみる料理されていく。

 午前11時45分にオープンすると、あっという間に席が埋まった。この日の参加者は子ども36人、大人22人

 1歳11か月の娘ひまりちゃんを連れて来た北林しずかさん(33)は3回目の参加だ。夫は仕事で早朝から夜遅くまでおらず、この日も土曜日だが出勤。いつも幼い娘と2人きりの食事だという。

「大勢のなかで、ごはんをワイワイ食べると楽しいですね。子どもをいろいろな人と関わらせたいし、私もほかの人としゃべらないと、ちょっと頭がおかしくなっちゃう(笑)。今の状態が永遠に続くような気がしちゃって

子ども食堂のようす

 ほかの子ども食堂は「小学生のみ」など年齢制限があったりすると聞くが、ここは何歳でもOK。来やすいので、友達親子を誘って来たそうだ。

 30代後半だという石田正江さんはシングルマザー。実家の自営業を手伝いながら、4人の子どもを育てている。重度障害をもつ長女はデイケア、長男は予備校に行っているので、次女の珠莉さん(16)、三女の凛蘭ちゃん(8)を連れて来た。

 2、3年前、店の前を娘たちと自転車で通りがかったとき、トニーさんに「よかったら来て」と声をかけられたのがきっかけで、ほぼ毎回来る常連になった。

生活保護は受けていませんが、やっぱり生活はギリギリで厳しいです。小・中は義務教育だからよかったけど、上の学校に行くと学費もかかるし、すごく食べるので食費もかかる

 節約していて、どこにも連れて行けないけど、ここなら私でも連れて来ることができます(笑)。娘はここで、小学校を卒業して会えなくなった昔のお友達に再会できるのが楽しみみたい。

 私は毎日のごはん作りがお休みもできるし、ほかのママと愚痴を言ったり、最近の情報を交換したりできるので、とにかく楽しい。近所にこういう場所があって、本当にありがたいです

 子ども食堂という名前だが、誰でも歓迎なので60、70代の高齢者の姿もある。

 毎回、料理は8~12品を用意する。寸胴鍋いっぱいのカレーやチキン、皮つきのフライドポテトはあっという間になくなった。少し残ったサラダなどは小分けして、欲しい人に持って帰ってもらう

音楽や英語で国際感覚を持ってほしい

 午後1時半からは「こども寺子屋」。いろいろなことに興味を持つキッカケにしてほしいと、プログラムにも工夫を凝らしている。最初はボランティアの大学生による紙芝居や絵本の読み聞かせだ。

 次はトニーさんの英語レッスン。生まれ故郷のガーナは旧イギリス植民地で、1957年に独立した。家では部族語で話すが、学校や仕事で使う公用語は英語だ。

 出番の直前、トニーさんは胸に手を当てて、緊張した面持ちを浮かべていた。

毎回、子どもたちがどんな反応をしてくれるかわからない。ドキドキするよ

 絵や文字が書かれた紙を手に子どもたちの前に座る。レッスンを始めると、よどみない口調で質問を投げかける。

トニーさんの英語レッスン。小さい子どもも発音をまねながらクイズに参加し、「きゅうり」や「浮輪」などの英単語もスラスラ

「smallは日本語で何て言うの? わかる人は手を挙げてねー」

「小さい」

「私より、日本語うまいじゃん(笑)。その逆は?」

「ビッグ」

 小学生はもちろん、幼児も張り切って答えている。

 小さな子の多くは最初、トニーさんを見て泣き出してしまうという。黒人と会ったことがないのだろう

 トニーさんは泣かれてもかまわずに頭をなで、名札を見て「hello ○○ちゃん」とやさしく話しかける。

 昨年初めのこと。トニーさんが「英語のレッスン始めるよー」と言うと、4、5歳の男の子が走り寄ってきた

いつも私を見て泣く子よ。どうしたのと思ったら、ハグしてくれたの。Oh! 私、ビックリしちゃった。私がやっていることは間違ってないと思って感動したよ

 私みたいな外国人に慣れていれば、国際感覚がついて将来的に役立つかもしれない。その子にとっては大きな1歩です。すごくうれしいよ」

やさしすぎて空回りすることも

 次は工作。紙の筒やセロファンなどを使い、「光の万華鏡」を作る。

「すごくきれい!」

「花火が打ち上がっているみたい」

「これで自由研究ができた」

 あちこちで歓声が上がる。

 最後はアフリカの太鼓&マラカス。子どもたちが思い思いに叩いている間に、オヤツを用意する。この日はミニケーキとタピオカドリンク。幼児でも飲めるように、小さな粒のタピオカを使うなど配慮もこまやかだ。

 午後3時に終了。トニーさんは子どもたちとハイタッチして見送る。

「せ~の」

 トニーさんはわざとタッチする手をずらし、コケてみせる。子どもは大喜びだ。

 この日、ボランティアとして、運営を手伝ったのは20人。妻の順子さんも子ども2人を連れて手伝いに来ていた。

 ボランティアもバラエティーに富んでいる。永井慈史さん(45)は神奈川県立高校の教諭。外国人の元教え子と参加した

「高校の現場では、出稼ぎに来た親に呼び寄せられて日本に来る子どもは増えています。なかには挫折しちゃう子や日本にうまく溶け込めない子も。トニーさんを見て、外国人でもこういうことができるんだと、ロールモデルにしてくれたらいいなと

 三田瑞江さんは最高齢の78歳だ。

戦争直後の私たちは食べ物もない、住む場所もない、ひどい状況だったの。そのときアメリカ政府がいろいろやってくれたようにね、いま困っている人がいるなら、日本人として知らん顔をしていられないのでね、首を突っ込んでみただけ

 青山学院大学3年の吉田賢志朗さん(20)は7、8回目の参加。所属するボランティアサークルSIVAの後輩12人を連れてきた。トニーさんの魅力をこう語る。

「もう、やさしすぎて(笑)、空回りすることもあるくらい。自分の体調が悪いときでも、子どもたちを楽しませようとするので、もっと自分をいたわってほしいです。たぶん、人類はみな家族だと思っているのでしょう

 これだけやっているのに、もっといろいろな人を呼びたいと言うんです。その心意気がすごい。ぜひ手助けしたいなと思って何回も来ていますが、今日は呼びすぎちゃいましたね(笑)」

 ボランティアがどれだけ集まるかは毎回違う。ときには数人しか来ないことも。軽い気持ちで参加して、大変さに不満を言ったり、帰ってしまう人もいるそうだ

 それでもうまく回るのは、青田幸治さん(45)の存在が大きい。昨年5月からほぼ毎月来て運営を支えている。

 青田さんは仕事でデジタルカメラの設計をしている。会社主催の科学教室で小・中学生に教えることもあり、今回の工作のアイデアも出した。

「誰しも人の役に立ちたいという欲求があると思いますが、残念ながら今は仕事で得られにくいので(笑)。それに子どものサポート体制を充実させないと、このままでは“日本ヤバいよね”と感じているので、できることはやろうと

 トニーさんにいろいろやってとお願いされても、不思議とイヤな感じがしないのは、彼の人柄なんでしょうね。日本に来たころは食べるのにも困って、相当苦労されたと聞きましたが、そういう苦労話も明るく話される。強い方なんだと思います

 野菜などの食材の寄付や寄付金、助成金ももらっているが、それではとうてい足りず、大半はトニーさんのほかの事業の収益で賄っている。

 朝から休みなく準備して、月4回も子ども食堂を続けていくのは相当な労力だ。トニーさんは“日本への恩返し”だというが、その裏には何があったのか─。

いたずらっ子で恥ずかしがり屋

 トニーさんは1962年にガーナの首都アクラで生まれた。父は製粉の町工場を経営し、村長もしていたので、家には多くの人が出入りしていた。

 門限は夕方6時、自分のことは自分でやるなど、しつけは厳しかった。母は専業主婦で、トニーさんは9人きょうだいの末っ子として、みんなに可愛がられた。

私はいたずらっ子でしたね。よくキッチンに隠れていて、お母さんの姿が見えなくなると、つまみ食い(笑)。友達と話すのは苦手で恥ずかしがり屋。今の姿からは想像できないと、よく言われます」

 町工場を警備するため、兄たちは会社敷地内にある寮で暮らしていた。トニーさんも12歳くらいからは自宅ではなく、兄たちと一緒に寝泊まりするようになった。

 兄の影響でハマったのが、ジャッキー・チェンが主演するカンフー映画。忍者やサムライの映画も大好きで、格闘技をマスターし、スターになりたいと夢を抱いた。

 学校の勉強では数学が好きで、高校卒業後に専門学校で機械工学を3年間学んだ。父の会社で数年働き、憧れの日本に来た。1990年、27歳のときだ。

当時は中国の中に日本があると思ってた(笑)。日本はテクノロジーが進んでいるから自分の技術も生かせるし、空手や格闘技も習えるから一石二鳥と思って来たの

 成田空港に着いたら、みんなスーツだから、逆に驚いた(笑)。映画みたいに着物とかゲタの人がいない! しかもガーナは1年中、暑いのに何でこの国、寒いの? 

 ブルース・リーのまねをして、Tシャツの上はジャージの上下だけで来たから寒くて、ちょっと失敗したなと」

 2か月ほど京都、大阪を観光して一度ガーナに戻り、翌年の冬に再び来日した。観光地で日本人のやさしい人柄に触れ、この国でもっといろいろ学んでみたいと思ったからだ。

日本で2週間ホームレスに

 だが、旅行者としてではなく、日本で生活をしようとすると、苦難の連続だった

「どこに行けば安く泊まれるのかわからない。言葉も通じない。雨の中移動して、池袋かな。大きな駅に着いたら、段ボールの中でみんな寝ていたから、私も(笑)。ホームレスだったのは、2週間くらいかな

19歳、専門学校生のころ。ガーナの写真館にて。(左)幼なじみの友人、(中央)兄メンサーさん、(右)トニーさん

 YMCAを見つけて巣鴨のゲストハウスを紹介してもらった。1部屋に3段ベッドが3つ。狭いが台所もあり、そこを根城に仕事を探した。

 日本語のできないトニーさんは、知らないビルに飛び込んで手当たり次第にドアをノックして回ったが、「ノー、ノー」と断られてばかり。

 道を聞こうとするとみんな逃げていく。トニーさんを見て、すれ違いざまに大回りして避けていく人もいた。電車で座っていると隣が空いていても誰も座らない

同じ人間なのになぜ? 何か、私、ついてるの? すごく傷つくよ。ナイフで切られるより痛い。ショックでごはんものどを通らない。

 人の顔を見るのもイヤになっちゃって、黒い眼鏡をかけて、帽子を深くかぶって。全身真っ黒ですね。それで余計に、みんな怖がっちゃう(笑)

 '90年代初めは、黒人への偏見が今より強かった。当時知り合った黒人の友人の多くは帰国。ストレスで病気になった知人もいるという。

 それでもトニーさんは踏みとどまった。

どん底を救ってくれた俳優への恩

 なぜかと聞くと、「切羽詰まってたから、パワーが出てきたの」と笑う。

 横で聞いていた妻の順子さんが言葉を足す。

「故郷に別れを告げて、簡単には帰らない覚悟で来て、言葉も何も通じないところで生きていかないといけない。だから、ハングリー精神を持てたというか、エネルギーが生まれたのだと思います

 それに主人が育ったアクラは港町でいろいろな国の人、違う宗教の人がいたそうです。そこで国際的な感覚を身につけて、海外に出たいと思ったのでしょう

 そういうベースがあったので、日本に来て自分からどんどん切り開いて、人とのつながりを作っていけたんじゃないかと

 数か月後。仕事を探して、大通り沿いの建物のドアをノックすると、「どうぞ」と入れてくれた。中は広い。何かの店のようだ。

アフリカの太鼓がいくつも用意されると、夢中で叩きはしゃぐ子の姿も

「part time jobアルバイト」

 トニーさんが繰り返し訴えると飲み物を出してくれ、えらそうな男性が来た。英語の単語を交えて日本語で話しかけてくるが、よくわからない。

 明日もおいでと言われて翌日も訪ねる。6日目の土曜日に行くと、店内は一変。大勢のお客がいた。

 ステージにその男性が着物姿で登場して踊り始め、トニーさんはビックリしたこれが、鳴門洋二さんとの出会いだ。鳴門さんは主に、'60年代に映画やテレビで活躍した俳優だ

 鳴門さんはトニーさんのことを可愛がってくれ、森進一や美空ひばりの歌、黒田節や日本舞踊などいろいろ教えてくれた。トニーさんが歌詞を丸暗記して覚えると、舞台にも立たせてくれた。

「トニー、いつも同じ服着てるからと新しい服を買ってくれたり、お好み焼きも焼きそばもそこで覚えたし、お小遣いもくれた。

 日本に来たばかりで困っていた私を、彼が救ってくれたんです。本当に感謝してます。だから、私は日本が好きになったの

アフリカへの偏見をなくしたい

 仲よくなった日本人の友人の手助けもあり、英語学校で広報とマーケティングの仕事に就いた。やっと見つけた仕事を失いたくないと必死に働きながら、日本語学校に通い言葉を覚えた。

 '93年に日本ブリタニカに就職し、海外出張や研修もこなした。

「私が知らない日本人と話そうとしても逃げられちゃう。逆に近づいてくる人がいても、“アフリカではみんな木の上で寝ているの?”と聞かれたり(笑)。

 本当に日本人、アフリカのこと知らない。だったら、アフリカの文化を紹介しなくちゃと思って

 新たな夢を抱いたトニーさん。まずは食を広めようと、'96年に相模原市に多国籍料理店を開いた。内装やインテリアもアフリカをイメージして手作りした。

 少しずつ店舗を増やし、店長は日本人に任せたが、外国人の店員を必ず置いた。オーナーのトニーさんはちょっとしたトラブルがあるたびに呼ばれる。昼間の仕事が終わった後に各店を飛び回った。

 '99年に学研ホールディングスに移り、部長として働いた。パソコンと英語を同時に学べる学校を作るプロジェクトで広報に携わったが、2002年に辞職。店の経営に専念することにした。

日本語に慣れないころは職探しでも苦労したが、懸命にマスターした。「お笑いのテレビ番組が好きで、志村けんやコロッケ、清水アキラのネタでも日本語を学んだ」とトニーさん

 順子さんと出会ったのは青葉台の店だ。順子さんは店の雰囲気が好きでよく訪れていた。気さくに話すトニーさんと意気投合し'10年に結婚。娘は8歳、息子は6歳になる。家庭でのトニーさんは“子どもファースト”だという。

子どものやりたいことをていねいに聞いて、ちょっとでもお腹がすいてたら食べさせてあげたり、過保護すぎるときもあるくらい(笑)。

 自分の子どもに対してだけでなく、子ども食堂に来る子どもたちにも同じスタンスですね」

 アフリカの文化を広めるため、トニーさんは2009年にアフリカヘリテイジコミティーを設立(ガーナでNGO法人として届け出後、日本でNPO法人格を取得)。理事長に就いた

 20年来の友人の大塚由利子さん(45)はトニーさんの店で働きながら、法人の立ち上げに協力した。今は副理事として活動を支えている。

初めて会ったとき、トニーさんが遠くから走って行って困っている外国人を助けるのを見て“あ、こういう人なんだ”と

 それに、いつの間にか人を巻き込む力もある。あれ、何で私、これを手伝っているんだろうってことが、結構あります(笑)。

 なぜか子どもはトニーさんにすぐなつくんですが、トニーさん自身も子どもなんじゃないかと思うときがあります。例えば、シリアスな話をしているときに、道を歩く変わった人を見つけて“あの人見て”と場を和ませたり。すごく遊び心があるんですね

 いつも温厚なトニーさんだが、ひどく怒った姿を大塚さんは見たことがある。

決してあきらめずに戦う

 アフリカの文化や音楽、食べ物を紹介するフェスティバルを企画したときのこと。参加するアフリカの人たちとの国際交流のため、日本側も寿司やてんぷらなど日本料理でもてなしてほしいと頼んだ。

「味噌汁と白米でいいよ」

 対応した担当者に笑いながらそう言われ、トニーさんはテーブルをバーンと叩いて怒った。

それはないでしょう!

 同行した大塚さんも、あきれてしまったそうだ。

 ほかにも国際交流の場で「黒い人が来た」と陰口をたたかれたり、黒人だからと見下されたり。トニーさんはそのたびに傷つくが、決してあきらめずに戦うのだと、順子さんは説明する

「座右の銘は“不可能を可能にする”です。前例がないとか却下されても、粘って粘って交渉して、相手を変えていくところを何回も見ています。

 最初は敵対していた人でも、最後はやさしく声をかけてくれたり。ぶつかりながら、お互いに理解していくんですね

 これまで神奈川県内各地で年に数回アフリカフェスティバルを開いてきたが、'14年からは東京の日比谷公園でも開催。さらに講演会をしたり、学校で授業をしたり。

 アフリカでビジネスをしたいと考えている日本人とアフリカを橋渡しする活動も始めた。休む暇もない忙しさだ。

母国の子どもの居場所も守りたい

 来日して2年後、日本での生活が落ち着き、初めてガーナに帰省した。それ以来、ほぼ毎年帰っている。親孝行をしたいと、18年前には実家を建て替えた

母国ガーナに建設予定の学校敷地内では、ブロックを積み上げる作業が進む。定期的に帰国し、現地の養護施設などにも足を運ぶ

日本に行って、たくましくなったね

 末息子をいつまでも子ども扱いする母親に、ほめてもらったとトニーさんはうれしそうだ。

 2・5ヘクタールの土地も買った。母国でよく見かけるストリートチルドレンや貧しくて学校に行けない子どもたちのため、学校を建てたいと考えている。孤児や障がいをもった子も過ごせるよう養護施設を兼ね備えた学校だ

 子どもたちには勉強を教えるだけでなく、好きなことを大切にし、得意なことを伸ばす教育をしたい。問題を根本的に解決するため、教育に対する親の意識を改革したり、コミュニティーの交流の中心になるような場にする目標も持っている

 ガーナに帰るたびにブロックを買って塀を作り整備を進めていたが、子ども食堂を始めて多忙になり、なかなか進んでいない。

「中途半端は意味がないでしょう。子ども食堂も続けていくことが大事だけど大変。ボランティアの人たちも心配して助成金とか教えてくれて。

 いろいろ申請したいけど、いっぱいいっぱいで書類を書く人がいないの。ガーナの学校プロジェクトのための寄付も集めたいし、スポンサーを見つけたい。

 目の前に助けないといけない人がいたら、自分が忙しくても、少しの時間でも使って助けないと。本当にね、いいことだと思ったら、みなさん、力を貸してください!

 そこがアフリカであれ日本であれ、国籍も人種も関係なく、子どもの未来のために行動するトニーさん。

 どんな言葉よりも、そのひたむきな行動が、たくさんの人を動かす─。

 取材・文/萩原絹代 撮影/伊藤和幸

はぎわらきぬよ● 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。