土屋死刑囚からの手紙  
 殺人事件の犯人に科せられる、この国の最高刑罰『死刑』。現在、日本にいる死刑囚は約110名。毎年のように死刑の執行が行われているにもかかわらず、何十年もの間、その現場は厚い雲で覆われてきた。その雲の先には何があるのか。凶悪な殺人を引きおこす者とは、一体どんな表情をしているのだろうか。本稿は、現在、ある死刑囚と手紙のやりとりや、面会を続けている河内千鶴によるものであり。《ガラス越しの死刑囚》拘置所で会った彼が、一度だけ笑顔になった瞬間【第1回目】の続きである。

 『前橋市高齢者連続殺人事件』という事件をご存じだろうか。2014年11月に群馬県前橋市にて高齢者1名、続いて12月に高齢夫婦を殺傷した強盗殺人事件である。筆者は、「死刑制度」に違和感を覚えたことから、この事件の犯人である土屋死刑囚と文通・面会を重ねていくうちに、「目の前の彼は、最初から凶悪だったのだろうか」「なぜ、人を殺(あや)めてしまったのだろうか」そうした疑問を抱くようになった。同時に、“凶悪な事件を起こした彼”と、“目の前にいる小心者の彼”という、あまりにかけ離れた印象に動揺を隠せずにいた。

 そうした疑問の答えを突き止めるため、土屋死刑囚の生い立ちや事件の詳細を追うことになる。彼のこれまでの人生の足跡をめぐる旅に出かけ、事件背景をたどっていくうちに浮かび上がってきたのは、彼の“孤独”と“貧困”だった。

 逮捕時は無職で、1円も所持しておらず、過去に勤めていたラーメン店へ侵入し食材を数千円分盗んでいたこともあり、県警は生活の困窮が事件の背景にあるとみていた。

 最初の犯行日(2014年11月)からさかのぼること10日間は水と砂糖だけで空腹をしのいでいたというのだ。さらには犯行の1か月前ころから、自宅に引きこもってスマートフォンのゲームにのめり込み、課金を重ねた結果、消費者金融から数十万円の借金をするはめになってしまう。

 自宅家賃も払えず、光熱費も止められていた矢先の犯行。のちに「殺してでもお金や食べ物が欲しかった」と供述しているが、犯行前、被害者宅で身を潜めている間、空腹を満たすかのように、被害者宅にあった複数のリンゴを食していたこともわかっている。芯まで食べ切っているものもあったそうだ。

周囲の証言から浮かび上がる“孤独”

 土屋死刑囚の両親は、彼が2歳になるまでに離婚。以降、母親が親権をもつも、経済的理由で4歳から児童養護施設に預けられ、思春期をそこで過ごしている。彼は父親を亡くしているが、亡くなったことを知ったのは事件を犯したあとだったということからも、家族の絆の希薄さ、両親との交流が皆無だったことがうかがえる。

 中学卒業後、施設を離れ、祖父母と叔母が住む福島県内の高校に通うも、叔母とは不仲であった。高校卒業後は職を転々としたが、唯一、長続きしたのが前橋市内のラーメン屋(侵入・食材を盗んだお店)で約3年8か月勤務した。そのほかでは欠勤などを理由に解雇されたりと定職に就けず、最後に就いた警備の仕事も数か月で解雇されている。そして、その1か月後に犯行に及んだのだ。

 また、土屋死刑囚には友人と呼べる者がひとりもいない。中学・高校では、「おとなしく、何を考えているかわからない」と、いじめの対象にもなっていた。量刑の参考となる“情状鑑定書”(精神科医らが調べてまとめたもの)には、「学校で受けたいじめが人格形成に影響した」ことが指摘され、ストレスを抱えながら生きてきたのだろう。

 彼の同級生や施設をともにした者、一度でも関わりを持ったという人物から、彼の学生時代を訪ねてみても、みな「土屋に気の知れた友人はいなかった」「友人と遊んでいるところを見たことがない」などと口をそろえた。また、事件当時の朝日新聞では、《職場での本人を知る人たちは、「おとなしかった」「人付き合いが苦手な性格だった」などと話す》と報じている(2014年12月28日、朝刊)。これらの言葉が彼の孤独を物語っている──。

 本事件に関する新聞を遡ると、事件の動機は「金銭目的の犯行」「お金と食料品」という短い言葉で切り捨てられていた。はたして、実際の法廷では何が語られていたのか──。

法廷で貫いた“沈黙”

 土屋死刑囚の初公判は、事件から2年後の2016年6月30日、前橋地裁で、有権者の中から選ばれた市民が審理に参加する、裁判員裁判だった。強盗殺人罪の法定刑は、死刑か無期懲役。公判前の整理手続きで、犯行をおおむね認めていることから、裁判員が重い判決を迫られることは必至であった。

 裁判での彼は、罪を認めるかどうかについて行われる“罪状認否”で、裁判官からの問いに対して、驚くべきことに無言だったという。彼の無言を貫く姿勢は、この限りでなく、犯行時の行動について問われた際も黙りこくり、やっと口にしたのは

覚えていないです

 のひと言だっだという。このことは当時の新聞やテレビでも報じられ、このときの彼の様子から、なぜ法廷の場で語らないのだと憤るのはもちろん、反省の字すらうかがえない態度に怒りを覚えてしまう。

 私が彼と面会し始めたころも、同じシーンを思わせる言動があった。こちらが核心に迫るような質問には、決まってうつむき、黙る。“都合の悪いことには答えない”。これがわかりやすく表れていたのだ。

 裁判の多くを無言で占めていた土屋死刑囚。ご遺族による被告人質問にもほとんど無言だったようで、裁判長が答えるよう促すも、ひと言も発しなかったそうだ。ただ、裁判員からの「もし、幼少期が違えば違う人生を送れたと思いますか」という質問に、はっきり「はい」と答えている。

 彼はこうして自分自身の人生を狂わせた不運の原因を、今の社会のあり方に結びつけた。私はただの傍観者にすぎないが、そんな私からみても、土屋死刑囚のこの言動は、あまりに身勝手な自我そのものに思えてならなかった。

 亡くなってしまった被害者の痛みを、残されたご遺族の計り知れない悲しみや喪失感を、世間に与えた恐怖感を、彼自身はどこまで感じとっていたのだろうか。私は、彼の事件の動機を知ろうとすればするほどに、わからなくなり、彼の心の趣を、まったくつかみかねていた。

「精神的障害が事件に大きく関与」
精神科医の鑑定から

 犯行に及んだ経緯に、一審の代理人を務めた弁護士は、

「被告は対人関係に障害のある広汎性発達障害(パーソナリティー障害と軽度の発達障害)があり、犯行に強い影響を与えた」

「学校などで受けたいじめが人格形成に影響した」

 という、趣旨の主張を法廷でしている。彼を診断した精神科医も「障害の特性の衝動性が表れた結果だ」と説明した。だが、裁判所は一審判決で、

犯行を決意したのは障害の影響とみるべきでない

 という理由で死刑判決を言い渡している。

 一審の公判中、土屋死刑囚の精神鑑定医が残した印象的な言葉がある。その様子を報じた朝日新聞から一部下記に抜粋する。初公判から約1週間後の裁判で、

《裁判員から再犯の可能性を問われると、(中略)「被告は元々、凶暴でなく、環境を整えると事件は起こしづらくなる可能性はある。(中略)本人が努力し、周りのサポートがあって、初めて(更生が)成立する」》

 精神科医がいう“彼はもともと凶暴でない”という、趣旨の供述が本当であれば、彼はなぜ凶悪な事件を引き起こしたのか。私の興味は再び、“なぜ事件を起こしたのか”に向き始める。彼の言動の根底に潜むものは一体何なのか。この問いに対する答えを求めて、私は彼との関わりのある人物を追っていくことを続けていこうと思う。

あなたも加害者になりうるかもしれない

 土屋死刑囚の置かれた環境や、強いられた対人関係を事件の動機とするとき、犯罪の理由とそれとは関係ないという意見を耳にする。

 もちろん、その声は受け入れなくてはならないし、事実、そうかもしれない。罪のない尊い命を奪ったという事実は決して、一生をかけても償えるものではない。自らの不運を、殺人を用いて社会に表したことの罪の重さは計り知れない。

 例えば少し見方を変えて、前橋市高齢者連続殺人事件において、被害者も加害者も生まないという視点に立ったとき、『なぜやってしまったのか』という深層心理に関心をもち、『なぜ防ぐことができなかったのか』を知る義務があると強く思うのである。これから先の未来、悲しい事件が起きないために私たちは共有し、その記録を残さなければならない。ここで改めて読者へ問いかけたい。

 あなたは死刑制度に賛成か反対か──。

 この問いを向けられたら、あなたは何と答えるだろうか。死刑制度に関してあまりにも情報が少なく、判断材料が足りない中で、答えは「賛成」「反対」のたった2つしか与えられないのだろうか。もっと知り、考えなければならないことがあるのではないだろうか。心の中で膨らみ続ける「なぜ」の声に、私は耳を傾けたい。そして、少し立ち止まって考えてみてほしい。

 日本で毎年のように行われている死刑の執行。日本はこの制度を支持し、私たちは国民の一人として、間接的に支えている。人の命を左右しているのが私たちなのであれば、この制度について考えなければならない。死刑囚の命に直接、手は下さないにしろ、無知や沈黙や傍観は、ときに“加害者”にもなりうるのだから。

PROFILE
●河内千鶴(かわち・ちづる)●ライター。永山子ども基金、TOKYO1351メンバー。 これまでに地球5周、世界50か国以上を旅しながら、さまざまな社会問題を目のあたりにする。2013年から死刑囚の取材を始め、発信を続ける。連載に『死刑囚からの手紙』週刊金曜日。