星野源

 ミュージシャンとしても役者としても引っ張りだこの星野源。彼のもう1つの顔が文筆家で、これまでに6冊ものエッセイを出版している。

 そのうちの1冊が、’14年に出版された『蘇る変態』。こちらはファッション誌の3年間の連載をまとめたもので、彼が多忙な日々のなか突然、病に襲われた際の闘病の記録と、彼が大好きなAVなどのエロの話が散りばめられた1冊だ。そんなエッセイが9月3日に文庫として改めて発売。初週で2・4万部を売り上げ、文庫ランキング1位のヒットとなった。宣伝文句は、《エロも哲学も垣根なく綴った怒涛の3年間。》だ。

「星野さんは、さわやかで柔和なイメージがありますが、大のAV好きで、自身のラジオやライブではあけっぴろげに話しています。ファンたちはそんな星野さんの“変態さ”も含めて好きな人が多い印象ですね」(音楽ライター)

文庫の修正箇所は100か所以上

 今回文庫化されたエッセイのタイトルにも“変態”の文字。しかし、こちらの文庫版は元の書籍とだいぶ内容が変わっているという。

「AVや風俗などのエロネタ、芸能人の名前を出した場面、チクリと批判したような話が根こそぎカットされているんです。修正箇所は細かく、大きなカットなど合わせて100か所以上ありますね」(出版関係者)

 エロも哲学も垣根なく、だったはずなのに……。

「全体的に表現を緩やかにしたりしているんです。たとえば《俺》だった部分を《私》にしたり。エロ話はまったくなくなったわけではなく、《処女》だった部分を《ヴァージン》に、《オナニー》を《自慰》に変えたりしていますね」(同・出版関係者)

 実際に通常版と文庫を比較してみよう。まずはアダルト系のパソコンゲームを取り上げる雑誌について語った場面(以下、文面の比較は1つ目が通常版、2つ目が文庫版)。

《その日、『パソコンパラダイス』で自慰行為をし、泣いた》

《その日、『パソコンパラダイス』を読みながら泣いた》

 星野が大好きな自慰行為がなかったことに。続いてぽっちゃりした女性が好きな男性が多いことについて語った場面では、

《俺の思うぽっちゃりは、篠崎愛(16歳あたりの)である。痩せではなく、デブでもない、絶妙にふっくらした体型、それがぽっちゃりだ》

《痩せではなく、肥満でもない、絶妙にふっくらした体型、それがぽっちゃりだ》

 “ぽっちゃり”として例に出したグラビアアイドルの篠崎愛のくだりをガッツリ削除。しかし、“ぽっちゃりではない”として例に出した森三中はそのままだった。

“変態”部分の表現がマイルドに

 星野といったらやはりAV。エッセイでは語る回数が多かったが、自分が好きなAVについて語った以下はすべて削除。

《作品の中には「素人風演技もの」というカテゴリーが存在し(俺の中で)、それは大好物であるということだ。それも女優のすばらしい技量が見られる「プロの仕事」の一部である》

 また、セックスと自慰行為が別物だという、男性に多い意見について語った場面もオールカットされている。

《どこまでいこうが、風俗はセックスではない。なぜなら、そこには愛がないからだ。(中略)愛のないセックスで得られる快感は「一人ではないオナニー」に過ぎない。(中略)ピンサロが浮気でないなら、AVはもっと浮気になりえないわけだ》

 本項は《というわけで、今から、AV見ます》という言葉で締められていたがそれも削除されている。

 仕事の現場でも彼の“変態さ”が発揮されていたことが通常版のエッセイでは盛り込まれていたが、初めての主演舞台『テキサス』の稽古の報告した回は表現がマイルドに。

《本当に疲れた。疲れすぎて逆に、股間は元気だ。疲れマラだ。どうだい木南さん、野波さん美人女優のお二人、見てください。俺はいま勃っています。稽古をしながら何故か勃っていますぞ。どうぞ見てやってくれ。しかし、これでもしちんこまで元気がなくなったとしたら、俺はもう限界なんだろうな》

→《本当に疲れた。疲れすぎて逆に、股間は元気だ。稽古場の皆さん、ぜひ見てやってください。私の股間は元気ですよ! これでもしちんこまで元気がなくなったとしたら、もう限界なんだろうなと考える》

 “木南さん、野波さん”とは、もちろん舞台で共演した木南晴夏と野波麻帆のことだ
創作風景を伝えた回でもエロ話は欠かせない。

《考えすぎると客観的になれず、製作中の音が正確に聴けなくなってしまうので、AVを見て心を無にしたり、エロサイトを観て流行の性知識を学んだり、スポーツニュースの女性アナウンサーの脚を見て「ここ三日間で抱かれたか否かを予想」したりして、脳を一回レコーディングモードから切り離す

→《考えすぎると客観的になれず、製作中の音が正確に聴けなくなってしまうので、AVを見て心を無にしたり、エロサイトを観て流行の性知識を学んだりして脳を一回レコーディングモードから切り離す》

 女子アナへの変態的な目線をカット。ちょっと言い過ぎたと思ったのか、はたまた女子アナへの興味が薄れた?

左が通常版(マガジンハウスより)。右が今回発売された文庫版(文藝春秋より)

若手アーティストへの苦言もカット

 エッセイで語るのは自身の変態さだけでなく、音楽については厳しい視線。さすがはヒットメーカーだ。量産されるJ‐POPのジャズアレンジについて苦言を呈していた。

《いいなぁ、名曲の原曲がある上に歌なしで。しかもジャズ風アレンジ。しかしですね、ジャズをなめてもらっちゃ困ります。ピアノトリオでモダンっぽくしてますがね、普通の人は全然違和感なく聞いてしまうだろうけど俺は騙されませんよ》

 また若いアーティストがカバーアルバムを出すことにも、

最近よく、そこそこ若い音楽家が「新しい音楽というものはない。すべては過去の引用で成り立っている」と発言しながら、自分がやってることは過去のいいとこ取りばかりな人がいるが、そういう台詞は、服部良一さんや細野晴臣さんなど世界中の音楽を吸収し尽くした巨匠が言って初めて説得力を持つのであって、若造が言っても信憑性はなく、楽をしている自分への言い訳と感じる

 しかし、この憤りは今回の文庫版ではカットされている。

 こちらのエッセイは、くも膜下出血による闘病生活も綴られており、通常版は連載のまとめたものに、闘病日記を加筆する形で発売された。通常版は連日吐き気に悩まされたつらい闘病を記しつつも、看護師に座薬を入れられた場面では、

《その昔行った風俗店で、プレイ後に言われたことがある。「お客さん、ドMだね」》

 などエロ話を入れ込んでいたが、彼女とのSM的なプレイ内容を事細かに記したくだりも含めて、すべて削除されていた。

「今回の修正は星野さん本人の意向が大きかったのでしょうね。修正箇所を見ると、編集者が入れるような修正ではなく、改めて自分の書いた原稿を読み、いまの自分の気持ちと照らし合わせて、表現を変えたり、削除したりしたのでしょう。文庫化するときにここまで読み込んで修正する人はなかなかいないので、忙しい中すごい労力だったと思います」(前出・出版関係者)

 エッセイは、変態さは柔らかくなったが、彼の真摯な姿勢が垣間見えるものだった。きっとこれが今の彼の“胸の中にあるもの”なのだろう。