毎年11月24日は情報提供のチラシ配りをしている辻出さん夫妻

 買い物客が通過するたび、「情報提供よろしくお願いします」と声をかけ、その夫妻は制服姿の警察官たちとともに頭を下げた。手渡している全面カラーのチラシには、黒字でこう大書されている。

〈辻出紀子さん(当時24才)あなたをずっと探し続けています〉

 はにかんだ笑顔を見せる紀子さんの顔写真も掲載され、情報提供者への謝礼金上限額は「300万円」に設定されていた。

このまま死ぬわけにはいかない

 ここは三重県伊勢市にあるショッピングモール。曇り空が広がる11月24日午前、21年前に行方不明になった紀子さんの父、泰晴さん(72)と母、美千代さん(70)は、用意された4500枚のチラシを配り続けた。そばには中型のテレビ画面が設置され、職場でインタビューを受ける紀子さんの様子が映し出されている。

 泰晴さんは、集まった報道陣の取材に対し、こう声を振り絞った。

「紀子はたぶん死んでいると思います。非常にかわいそうです。今どんな状態でいるのか、それだけが気がかり。どれだけ身体が悪くなっても、私たちはこのまま死ぬわけにはいきません。あと何年探し続けるかわかりませんけど、とにかく頑張っていこうと思います」

 美千代さんも無念の思いを口にした。

「たぶん生存の可能性がない中、いろいろと想像をめぐらせます。やはり土に返っているとなると大変悔しい。解決につながるよい情報をお願いしたい」

 雑誌記者だった紀子さんが忽然と姿を消したのは1998年11月24日。勤務先の「伊勢文化舎」の事務所を午後11時ごろに退社したまま、自宅に帰ってこなかった。帰りが遅いときは必ず電話をかけてくるはずが、その日は連絡がなかった。

 翌朝、紀子さんが運転していた紺色の日産マーチが、職場から約1キロ離れた損保会社の駐車場で発見された。伊勢署の交通課から連絡を受けた美千代さんは、「紀子が違反駐車をしたのだろう」と軽く受け止めていた。ところが紀子さんの勤務先に電話をすると、出勤していないことが判明。瞬く間に不安が募り、泰晴さんとともに現場に駆けつけた。車のドアはロックがかかった状態で、車内に荒らされた形跡はなかった。  

 不自然だったのは、車が白線をはみだし、斜めに駐車されていたことだ。その場で泰晴さんは合鍵を使ってドアを開け、運転して伊勢署まで運んでしまった。

「警察が状況を把握してからでないと、車を動かしてはいけなかった。そのままにしておけばよかったのが今も悔やまれます」

 ただ、車に乗って気づいたことがある。運転手の座席の位置が、紀子さんの運転時と異なっていたことだ。続いてエンジンをかけると、いつもは耳にするカーステレオの大音量が、そのときだけは流れなかった。

「運転席に座ったときに、誰かが乗ったような感覚があったんですね。紀子じゃない別の人が。こんなに座席の位置がハンドルから離れていたかなと一瞬で感じました」

 紀子さんの携帯電話を鳴らしても、留守番電話のモードに切り替わるだけで、反応はなかった。

辻出紀子さん

 泰晴さんは翌25日、伊勢署に捜索願を出した。それから10か月後の翌年9月、三重県警は、紀子さんが事件に巻き込まれた可能性があるとみて、情報提供を呼びかける公開手配に踏み切った。

 以来、これまでに捜査員のべ約3万1900人が投入され、88件の情報が寄せられたが、有力な手がかりは得られていない。

好奇心旺盛で旅好き

 鶏を小脇に抱え、屈託ない笑みを浮かべる少年たち、たらいの中で水浴びする小さな子ども、物憂げな瞳で何かを訴えかける少女……。いずれも紀子さんが、学生時代に放浪したアジアの国々で撮影した写真だ。事件発生後しばらくしてから、これらの写真を集めた写真展が、東京、大阪、伊勢などで開かれた。

 ジャーナリストを志望していた紀子さんは、立命館大学法学部時代、タイやミャンマー、バングラデシュなどの国境地帯や難民キャンプを訪問し、そこで出会った子どもたちを被写体に、シャッターを切り続けてきた。

 大学卒業後は地元に帰って雑誌記者として就職。三重県内を飛び回り、自然と遊ぶ、手作り家具などをテーマにした特集記事を担当した。失踪直前は、世界遺産に指定された熊野古道を取り上げることになり、張り切っていたという。

たびたびアジアを訪れていたという辻出さん

 そんな彼女について当時の編集長は、写真展の冊子に寄せた手記で、こう振り返る。

《知的好奇心に満ちていた辻出紀子は、公私ともに忙しそうだったが、連休が取れると、ひょいと大好きなタイへ出かけていく》

 行方不明の前日も、紀子さんは旅先のタイから帰国したばかりだった。

 見つかった車のトランクには、タイで買った土産、英会話のテキスト、寝袋などが入っていたが、紀子さんのショルダーバッグはなくなっていた。

 美千代さんは、自宅に残された名刺入れを頼りに、取材先や友人、知人ら100人以上に電話をかけ、紀子さんの居場所を尋ねた。テレビ番組にも出演し、超能力を持つ外国人捜査官や振り子を使った「ダウジング」の日本人の専門家に捜索を依頼した。警察に重機で林の一角を掘り起こしてもらったこともあるが、いずれも有力な手がかりはなく、出てきたのはせいぜい亀の甲羅ぐらい。美千代さんが述懐する。

「そんなことしてもどうにもならないのはわかっていましたが、じっとしていられなかったんです。何かしないと自分の気がすまない。むなしいかもしれませんが、そうやる以外に方法がなかった」

 7年前からは夫婦で四国お遍路や西国三十三所を回り昨年11月にすべて回り終えた。

辻出さん夫妻が毎年配っているチラシ

失踪直前に会っていた男性の存在

 辻出夫妻による独自の捜索作業に並行し、紀子さんの失踪をめぐってはこれまで、3つの謎が浮かび上がった。

 1つ目は、志摩市的矢湾に浮かぶ渡鹿野島の実態について、紀子さんが取材で暴こうとしたため、何らかに巻き込まれて失踪したという説だ。この島は別名「売春島」と呼ばれ、タイ人や日本人の売春婦がいたことで知られる。この説については、美千代さんもネットで把握していた。

「でも面白おかしく騒ぎ立てられているだけだと思っています。男の人が遊びに行く島というのは知っていますが、紀子からその話を聞いたことはありません」

 もし仮に、紀子さんが渡鹿野島に関心を示していたとしても、実の母親には言わないだろう。アジアの難民キャンプ訪問について、心配させまいと伏せていた前例があるからだ。

 そこで、当時、紀子さんと交際していた大手新聞社の記者に尋ねてみると、こう返ってきた。

「ネット上での根拠なきデマです。地域雑誌の記者でしたので、渡鹿野島については観光地としての側面から関心を持っていたのは事実ですが、島の闇を解明しようという気持ちはなかったです」

 2つ目の謎が、2009年9月上旬に産経新聞が報じた「北朝鮮拉致説」だ。拉致問題を調査している日本の大学教員が、韓国で紀子さんを知っていると証言する脱北者に出会ったことで浮上した。この点についても前出の記者が解説した。

「数年後、その大学教員から『人違い』だったとの連絡がありました」

 しかし辻出夫妻が、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない「特定失踪者リスト」に紀子さんを登録してしまったため、ネットでもこの説が出回り続けている。

 そして最後の謎が、この事件の真相を握る可能性があるとして、いまだにくすぶり続けている。それは失踪後に解明された、紀子さんの携帯電話の通話記録から判明した。

 先月行われたチラシ配りの際、泰晴さんは報道陣の前で、その謎についてうっかり口を滑らせた。

「20年という長さはですね、人間の身体も蝕まれるし、体調も変わってくる。変わらない紀子は今どこにいるのですか? 骨のかけらも残っていないと思います。うちの紀子に何かした男がいれば、まあ、男という言葉を使ってはあれですけど……」

 通話記録を紐解いていくと、紀子さんは失踪直前、県内在住のある男性A氏に会っていたことがわかった。

 A氏は、紀子さんが取材先で出会った当時30代半ばの自営業者。失踪当日、紀子さんに複数回電話をかけ、車が見つかった駐車場で深夜、会っていたという。

 A氏はその後、東京で知り合った女性を監禁した疑いで三重県警に逮捕され、起訴されたが、津地裁は無罪判決を言い渡した。

 拘留中も含め、泰晴さんはA氏に何度も面会に行っている。

「A氏は自分の彼女とケンカしてイライラしていたので、紀子を口説くために会いに来たそうです。最初は駐車場で会ったと言っていたんです。でもその後、食事に連れて行った帰りに途中で降ろしたと言い始め、話が食い違ってきたんです」

 A氏は、監禁事件で無罪を勝ち取ったらすべてを話すと、弁護士の署名入り書面まで渡してきた。しかし、その約束はいまだに果たされていない。

駐車場の現在

(取材・文/水谷竹秀)


【PROFILE】
水谷竹秀(みずたに・たけひで) ◎ノンフィクションライター。1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。近著に『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社文庫)など。

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心当たりのあるは、伊勢警察署まで(電話 0596-20-0110)