宍戸錠さん

 女とヤッた数は世界3位と豪語するなど、数々のトンデモ発言を残した異色の映画俳優。週刊女性でも過去にたびたびインタビューしたが、その奇天烈な発言に驚かされるばかりだった。連れ添った妻や愛犬と死別し、自宅は焼失。息子たちとも疎遠だったようで、晩年はひとり寂しく買い物に行く姿が近隣では目撃されていたが──。

銀幕スターの晩年は……

昨年は“よし、ヤリまくるぞ!”って決めてよ。美醜を問わず、性格も問わず、誰かれ構わず口説いた。だけど5人ヤッたらもういいって思って、それからは止まってる

 '14年に週刊女性が取材で自宅を訪れたときの宍戸錠さん(享年86)の発言だ。このとき、すでに80歳。外国特派員協会で'12年に行った記者会見では、女性の体験人数1331人で世界第3位だと自称。そこから、さらに記録を伸ばしたと豪語していた。意気軒昂で、女性への情熱は盛んだったが……。

宍戸さんは1月18日に亡くなり、21日に発見されました。死因は虚血性心疾患。葬儀は近親者だけで行ったようです」(スポーツ紙記者)

 不死身の“エースのジョー”も、寄る年波には勝てなかった。傘寿を超えてもパワフルさを失わなかったが、ここ数年は悲しい出来事が続いた。

'10年には長年連れ添った女優でエッセイストだった妻の游子さんが他界。'11年には『サダムフセイン子』と名づけていた老シェパードの愛犬も死んでしまいます。追い打ちをかけるように、'13年には46年間住んでいた都内の豪邸が焼失してしまったのです」(前出・スポーツ紙記者)

 火事が起きたとき、宍戸さんはバーで飲んでいた。

知り合いのマスターから自宅が火事になっていると教えてもらったそうです。火事の後、長男の宍戸開さんが来たらしく心配しているのかと思ったら“100万円貸してくれ”と言われたそう。そのころから息子さんとの関係が悪化していたようですね」(飲食店オーナー)

 会見では「泥棒が火をつけた」と話していたが、仲間内では漏電が原因だったといわれていた。

数々の著名人から慕われていた錠さん

吉永小百合さんは見舞金として宍戸さんに100万円包んでくれたようですよ。高橋英樹さんは国産の新車を贈ってくれて、それを売って金にしたそう」(同)

 ほかにも、日活の後輩・渡哲也がお見舞いに来たと週刊女性に語っていた。

家が焼けた翌朝にさ、渡が金持ってきたの。こいつは偉いなと思ったよ。英樹にも助けられたし、みんながお見舞金くれたから、この1年は十分食えたよ。さすがに家は建てられないけどな、ハハッ。俺はいちばん優しい先輩で、あいつらには酒の飲み方から女の抱き方まで教えてやったよ、フッ

まだ昭和のスターとしての貫録が残る在りし日の宍戸錠さん

 大スターだけあり、慕われていたようだが、妻が他界した後はひとり暮らしになり、生活はすさんでいたという。

「自宅では台所で寝ていると言っていました。おしっこも台所でしていたらしいですね。奥さんが亡くなった寂しさもあって、女性への執着は増していました。50代の女性とイタリア旅行に行ったことも。お金は宍戸さんが払ったそうです」(宍戸さんの知人)

 行きつけの焼き鳥店では、金を持たずにやってきて、居合わせた客におごってもらうこともあった。

「スターだったからプライドも高くて“ありがとう”も言わない。よく思っていないお客さんも少なくなかった。借金があったようですし、セリフが覚えられなかったから仕事がなく、お金は全然なかったんでしょう。売りに出した自宅の土地も買い手がついていません」(焼き鳥店店主)

 それでもスターとしての振る舞いは健在で、バーには必ず若い女性を同伴。

毎回、違う女でね。石原裕次郎さんのことは“アイツはすごい”と褒めていました。“裕次郎は遊びすぎだ”と言いつつも、裕次郎さんの曲を歌ったりね。開さんのことはお金のトラブルがあってから全否定していましたが、あるときから“アイツなりに頑張ってる”と話すようになりました」(バーの店主)

 週刊女性のインタビューには、

ほら、開なんかより俺のが立派だ》と記者に胸筋を触らせて息子と張り合う姿も見せていたが、最近は開が父親を訪ねる姿は目撃されていない。それでも、長男は可愛かったのだろう。だが、次男のことは許せなかったようだ。

次男は母親の遺産4000万円ほどを持ち逃げしたから絶縁したと言っていました。あいつは金を持って逃げたんだと、しきりに話していましたよ」(飲食店従業員)

 娘の紫しえは、父親の面倒をみていた。

「火事の後に住むようになったマンションの家賃10数万円はしえちゃんが払っていて、お金の管理はしえちゃんがしていたようですよ。宍戸さんのマネージャーも務めていましたが、娘とは一緒に住みたくないと話していたのを覚えています」(飲食店店員)

 近隣ではうらぶれた姿が目撃されていた。

やせ細ってヒゲはボウボウ、髪はボサボサ。ヨレヨレでしたけど、着ている服はそれなりのものでした。格好つけていたのか、それしかなかったのかはわからないけど。最後に見たのは10日前ぐらいかな。コンビニでお弁当と缶ビールを買っていました」(近所に住む女性)

 '10年の週刊女性インタビューで、コンビニ弁当のことを話していたことがある。

《メシは自分で作って食うのも面倒だからコンビニ弁当が多い。398円と498円のがあるが、何を食べても同じに感じる。3か月で12キロはヤセたな。ダイエットするならコンビニ弁当がいいぞ(笑)。ただ、広い庭を生かして、バーベキューはときどきしている。スパイスは自然の風、音、湿度、香り。串に刺した肉塊を直火にかざしてそのまま食らうと、原始の記憶を呼び覚ましてくれる》

 庭がなくなってからはバーベキューはできず、主食がコンビニ弁当に……。

コンビニでは若い人と話ができるのが楽しかったみたい。ひょうひょうと歩いていましたけど、健康という感じではなかったよ。昭和のスターだった面影はなく、宍戸錠だと言われなければわからないと思います」(近所に住む男性)

宍戸錠さんが思い残したこと

'01年に頬に入れたシリコンを除去した宍戸錠さん、晩年はひっそりと生活を

 訃報から2日後、紫しえは日活を通じて密葬したことを文書で報告。

私達親子は長年過ごしてきた強面の宍戸錠とは思えない時を過ごすことができました。母の遺言である「しえが最後まで映画俳優・宍戸錠でいさせなさい!」を全う出来たと思います

 宍戸開は《俳優として、父親として、厳しい顔、優しい顔を持った父でした。本当に多くの事を学びました》とコメント。ただ、亡くなってから数日がたち、誰にも看取られない孤独な死だった。

 破天荒な人生を思いどおりに駆け抜けた宍戸さんだが、思い残したこともある。'14年の週刊女性インタビューで、小説を書きたいと話していた。

90歳の殺し屋が100歳のヤツにヤラれるって話なんだ。100歳になってから勝負すりゃよかったって後悔しながら死んでくんだよ。完璧な小説を書いて、90歳になったら映画を撮る。小説と同じ“90歳の殺し屋”がテーマ。日本には90歳の俳優はあんまりいないじゃない。だから俺がなる!

 殺し屋の役で一世を風靡したのだから、最後も殺し屋を演じてこの世を去っていく。ダンディーな昭和の銀幕スターは、お楽しみを天国へと持っていってしまった。これも“ジョー”が描いたシナリオだったのかもしれない。