「こんないい歌を今まで歌わなかったのが、情けない」と『こんにちは赤ちゃん』を解禁した40周年記念コンサートでの梓みちよさん

『こんにちは赤ちゃん』で知られる歌手の梓みちよさん(享年76)が急死していたことがわかったのは2月3日。昭和歌謡界の黄金期を支えた立役者のひとりが、また天国に旅立った。

 ’63年に発売された『こんにちは赤ちゃん』は120万枚を売り上げ、19歳で日本レコード大賞を受賞。国民的ヒット曲となったが、本人は一方で、この曲の明るく家庭的なイメージの呪縛に苦しみ、あえて歌わない時期も長かった。

「梓さんにとって、あの曲は“重荷”でした。天皇陛下の前で歌って日本初の天覧歌手にもなり、世間では“こんにちは赤ちゃんの歌手”というイメージがついてしまった。でも、本人の結婚生活は1年半で終了。どうしても欲しかった子どもがいないのに、母の気持ちで歌わねばならなかった。つらかったでしょう」(音楽業界関係者)

“夜の女”演出でうっぷん晴らし

 7年連続で出場していたNHK紅白歌合戦は’70年に落選、人気にもかげりが出てくる。しかし、’74年に『二人でお酒を』をヒットさせ、再ブレイクを果たしたのだった。

「それでもコンサートで『こんにちは赤ちゃん』を歌わないで終えようとすると、客は納得しません。そこで彼女は『二人でお酒を』のとき、酒を片手にステージ上であぐらをかいて歌ったんです。彼女の積年の思いが、赤ちゃんとは正反対の“夜の女”としての演出をさせたんです。うっぷん晴らしでもあり『こんにちは赤ちゃん』を捨てたいとすら思っていたようです」(前出・音楽業界関係者)

 梓さんが、そのつらく長い呪縛から解き放たれたのは、’02年の40周年記念コンサートでのこと。アンコールで封印を解き、熱唱した。

「その記念コンサートより前に、アメリカで日系一世や二世の人たちの前で『こんにちは赤ちゃん』を歌う機会があったとき、みんなが涙を流して聴いている姿を見て、今まで歌わなかったことを後悔したとしみじみ語っていました」(スポーツ紙記者)

 この間、私生活では元プロ野球選手の東尾修との不倫騒動や、’90年に購入した自宅を’06年に差し押さえられるなど、つらい経験もした。そんな梓さんは近年、ひざの状態が悪く、杖をつかないと歩けない状態だったが、通販番組にはレギュラーで出演。自ら化粧品開発にもかかわるほどの熱心さだったという。

梓さんは積極的に会議に参加して意見も言って、5回もダメ出しをしたうえで、プロデュース化粧品が商品化できました。そのおかげで70万個近く売れるヒット商品となりました。彼女はひと言でいうと“男前”ざっくばらんで、ダメなものはダメとハッキリと言う。ただ、自宅に招いてくれたときに珍しい食材の鍋料理を振る舞ってくれて、前菜から凝っていたり、繊細さも感じましたね」(通販化粧品会社社長)

名曲の封印を解いて「自分の原点だからね」

 持ち前の負けん気で頑張ってきた梓さんを昔から知る、歌手の田辺靖雄が振り返る。

「一昨年の『徹子の部屋』で会ったのが最後でした。昔から頻繁に人と会うタイプではありませんでしたね。足を悪くして人に会うのがおっくうになっていたのと、半年前に溺愛していた飼い犬をなくして落ち込んでいたようです」

 封印していた『こんにちは赤ちゃん』については──。

「長い間、あえて歌っていないというのは知っていました。大ヒットした曲だから、ずっと彼女について回っていた。“自分はもっと新しいことができるんだ”という自負があるのに、要求されるのは『こんにちは赤ちゃん』。ジレンマを抱えていましたね」

 封印を解いてからは「自分の原点だからね」と、梓さんは言うようになったという。

「昔から裏表のないタイプ。特に大事にしていたのは『梓みちよ』というブランド。コンサートでは、会場やバンドを指定して“これじゃなきゃやらない!”というところがありました。最後まで歌手としてこだわりを貫いたのは幸せだと思います」

 本当の自分を探す旅を終えた昭和の大歌手に合掌。