野村克也さん(享年84)

 名選手で名監督だった野村克也(享年84)さんが、2月11日に亡くなった。くしくも愛妻の沙知代さん(享年85)と同じ虚血性心不全だった。

「亡くなった当日は、泊まり込みの家政婦さんがいました。彼女は息子である克則さんの奥さんのママ友で、普段から家のお手伝いをしていたんです。

 その日、野村さんは夜中の2時に入浴していたので、心配になって浴室のドア越しに声をかけると“大丈夫”と返ってきたんですが、3回目に声をかけたときは返事がなかった。そこでお風呂場をのぞいて見ると、意識を失っていたそうです。夜中で寒暖差もありましたしね……」(野村さんの知人女性)

 救急車で搬送されたが、3時半ごろ死亡が確認された。克則氏によると、柔らかい表情だったという。突然の死で、球界に衝撃が走った。

ノムさんの関係者に話を聞くと

「(ヤクルトのユニフォームを着た遺体と対面して)すごい似合ってました。何回も見た姿だけど、改めて見て似合ってるなと」(ヤクルト監督の高津臣吾氏)

 野村さんは『南海ホークス』で選手生活をスタートさせ、戦後初の三冠王になるなど大活躍。現役引退後に解説者を経てヤクルトの監督に就任した。その後、阪神と楽天でも監督を務めた。

「“長嶋や王がヒマワリなら、おれは月見草”という野村さんの名言があります。地味ながら実力は負けていないという自負があったのでしょう。監督になってからは『ID野球』を提唱し、データを駆使する新しい戦略を生み出しました」(スポーツ紙記者)

 プロになった当初はあまり期待されておらず、契約金ゼロで入団。

 若き日の野村さんと親しかったのが、コメディアンの世志凡太である。話を聞くと、

「'57年ごろ、仕事の都合で大阪の通称『マンモスアパート』に引っ越したんだ。そのマンションには、作家の司馬遼太郎さんや、女優の森光子さんなども住んでいてね。ノムさんも住んでいた」

 年が近いこともあって、すぐに仲よくなったという。

選手時代のノムさんは…

「ノムさんは当時22歳。南海で30本ホームランを打ってレギュラーに定着したころ。ひとり身なのに2LDKに住んでいたね。京都の田舎から出てきたばかりで朴訥なあんちゃんだった。

 当時から自分のことを“ワシ”と言って、ボソボソとしゃべっていたね。愚痴っぽいのは昔からで、“ジャイアンツに行ってたら長嶋にも王にも負けなかったのに”とかボヤいていた」(世志、以下同)

'57年、21歳の野村克也さん。この年、南海捕手として本塁打王に輝く

 2人で飲みに行くことも多かった。

「大阪の街を歩けば“頑張れ、ノム!”って声をかけられていた。南海のスター選手だったからね。ゆっくり飲むために2人で神戸まで行っていた。1日、3~4軒は飲み屋を回っていたかな。

 グラマーな女性が好きで、女の人が接客してくれる店にもよく行ったよ。気前よくご祝儀を渡していたからモテモテだったね

 それ以外は特に贅沢もせず、派手な暮らしぶりではなかったという。

「スポーツの世界だから、心を許せる友達はいなかったようだね。自分みたいなテレビ界の人間のほうが、付き合いやすかったのかも。

 '77年に南海をクビになってロッテに移籍したときは、かなり落ち込んでいた。どん底だったんだろうね。東京に来てからも、浅草にあったウチの事務所によく来ていたよ

 しかし、'99年ごろから野村さんの妻・沙知代さんと世志の妻・浅香光代が大ゲンカ。いわゆる“ミッチー・サッチー騒動”で野村さんと世志も疎遠に。最後まで和解することはできなかった。

 東京で野村さん夫婦が毎日のように通っていたのが、『ホテルニューオータニ』のレストランだった。

監督が最後に食事に来たのは、亡くなる1週間ほど前の2月5日でした。いつものように“こんにちは!”と元気に挨拶をしてくれたんですが……突然亡くなってしまって寂しいですね。ここの食事が本当に好きだったみたいで、最近も2~3日に1回は来ていました」(ホテル関係者)

 野村さんには、行きつけの寿司店もあった。市谷の『鮨太鼓』である。

行きつけの寿司屋で話を聞くと

「監督が初めていらっしゃったのは'04年です。奥さんも連れて、週に1回は来店されていました。家族ぐるみでお付き合いさせてもらいましたね」(『鮨太鼓』のスタッフ)

“指定席”があり、必ずカウンター席のいちばん奥の端に座ったという。

「この席じゃないと“雰囲気的においしくない”なんて言うんですよ。だから監督が来ると聞くと、常連客は“野村シフト”をしいて、監督の席を空けておくんです。監督は“気を遣われるのではなく、気を遣う側がいい”と言っていましたが、周りはいつも気を遣っていました(笑)」(常連客)

 甘いものが好きで、メニューにない小豆入りパフェが用意されていたそう。家に帰ってからすぐ寝られるように、食後のコーヒーも飲んでいった。ニューオータニの1000円以上もするコーヒーより、ここで飲むブレンドがとにかくお気に入りだったという。

監督はいつも最後のお客さんが帰られるまで待つんです。閉店時間は夜の11時くらいですが、営業が終わった後にお店のみんなと遅くまでおしゃべりをしたものです。監督の話を聞いたりバカ話をしたり……」(スタッフ、以下同)

 夜9時に大阪から電話をかけ、深夜12時過ぎに来店したこともあった。野村さんにとって居心地のいい場所だったのだろうが、別の理由も。

後列が世志と野村さん。前列が浅香光代と沙知代さん。20年ほど前、まだ仲がよかったころに撮影

沙知代さんが亡くなった直後は、監督は怒っていたんですよ。“先に逝くなと約束したのに俺を置いていくなんて……”と言って。愛情が深かったからこそ、腹も立ったのでしょうね。

 でも時間がたつと、だんだん“寂しい”と口にすることが増えました。“家に帰ってもひとりだから寂しいんだよなぁ……”と言って、いつも帰宅するのを名残惜しそうにしていましたね

 最後の来店は、1月23日。

「あの日も夜中の12時までいつものように過ごされました。たまたま女将がお休みだったので、“大丈夫か?”と気遣ってくれました。毎週のように来店されていたので、突然の訃報を聞いてびっくりです」

 沙知代さんの死後はライフスタイルがすっかり夜型になっていた。

「奥さんが亡くなった直後に偶然、銀座のバーで野村さんと飲む機会がありました。初めてお会いしたのですが、私は楽天の選手に知人がいたので、選手の話で盛り上がりました。

 すると突然、監督が“なぜ沙知代を選んだかわかるか?”と聞くんです。答えはびっくり。“おっぱい”だって言うんですよ。“僕は生まれが貧しかったから、小さいころの楽しみといったらお母さんのおっぱいを触ることくらいで、沙知代のおっぱいは母と同じだった”って冗談っぽく話してくれて(笑)」(飲食店経営者)

 今ごろはきっと、サッチー節を笑顔で聞きながら、やっぱりボヤいているに違いない。