自分の母親のことを“娘”だと思い、貧困に耐えながら過ごした幼少期は過酷なものでした

 普段クライアントのほとんどが女性なのですが、全体の1割ほど、時々男性の方のお話をお伺いする機会があります。今回お話にいらしてくださったのは、佐々木勇さん(仮名、36歳)会社員です。

「僕、生まれてこの方1度もいい夢を見たことがないんです。毎晩夢見が悪くてうなされる。子どもの頃からなんです、ずっと……」

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 手渡された名刺の会社名を見ると、勇さんは上場企業の営業マンです。見た目はさわやかで、語り口調もやさしく、包容力のありそうな雰囲気でしたので、嫌なことがあっても顔に出すことなく自身の中に留めておいてしまうタイプなのか、それともオーバーワークからのストレスで夢見が悪いのか……と考えましたが、“子どもの頃から1度も”という言葉に引っかかり、幼少期はどのような生活環境だったのか伺ってみました。

近所でも有名な「ごみ屋敷」だった

「実は母子家庭で、うちは近所でも有名なごみ屋敷でした。母親は昔から精神的に不安定で仕事ができませんでした。なので僕は中学生になったときに年齢をごまかしてアルバイトを始めて、家計を支えてた感じです。

 今まで父親はとっかえひっかえで、自分の遺伝子的な父親は誰なのか知らないのですが、母から“新しい父親”と紹介されたのは6人以上になるんじゃないですかね……。みんな何の仕事してた人だったのか、どうやって知り合ったかなんて知りませんけど。

 その中でもいかにも父親っぽく優しく接してくれた人もいましたが、何しろ母親が精神不安定だから長くは続かず、すぐにまたいなくなっちゃうんですよ。それでまた母は不安定になって食事も取れなくなるし。だから僕も食事をまともにもらえなくて……。

僕、小さいときに空腹すぎて、母親のたばこの吸い殻を食べて救急車で運ばれたこともあって(笑)。今でいう育児放棄ですよね。そんなひっちゃかめっちゃかな母親に僕1人で耐えるしかなかったんですよね。でもある日気がついたんですよ。“あ、そうだ、母親だけど、自分の娘だと思おう”って。そうすると、どんなにひっちゃかめっちゃかなことが起きても、“娘だから仕方ないな”って、自分の中で納得できるようになったんです」

 勇さんは想像を絶する幼少期を送っていました。もちろん途中何度も児童相談所の人が来ては、児童養護施設に保護されていた期間もあったとか。でもまた少しすると、“娘”を支える生活へ戻っていたといいます。学生時代に同級生からのいじめなどのショックな出来事がなかったか、先生との関係はどうだったのかを聞いてみました。

「僕ちょっと女性が苦手だな思う瞬間があって、母親のこともあるのかもしれないんですが、今でも覚えてることがあって。

 小5のとき、学校で弁当の日があって、僕、近所の総菜屋で買った肉団子を自分で弁当箱に詰めていったんですよ。いかにも母親の手作り弁当だって感じに。そしたら同じクラスの女子が“あ、それどこどこの総菜屋のやつだよね”って言ったんです。

 その瞬間、初めて人前で泣きましたね。人生で人前で泣いたのは後にも先にもそのときだけでした。悔しかったのか、なんで泣いたのか、今でも自分の感情がよくわからないんですけど、やっぱなんか図星つかれてショックだったんだと思います」

 勇さんは、“娘”を守らなければいけないという使命感と、そうあることで目の前にいる母親を受け入れる心を育てていったのです。幼少期から大人であることを求められ、子ども時代がなかった勇さんは、やはりどこかで「母親」または「親」に憧れ、“子どもらしく愛情を受けてみたい“という心の奥の扉をノックされて涙があふれたのかもしれません。

入院したら母が「いつから働けるの?」

「高校生のとき、建築関係の仕事のアルバイトをしていて、仕事中に骨折して入院したときに母親が病室に来たんですけどね。なんて言われたと思います? “いつから働けるの?”ですよ(笑)。でも僕、娘だから仕方ないよなって思って、“ごめんごめん、すぐ仕事するから”って答えてましたね」

 こんな状況下にいたらやさぐれたり、暴れたりしてしまうものだろうと思ってしまいがちですが、勇さんの場合、常に冷静でさらには希望を忘れないという芯の強さがとても印象的でした。

 それはやはり、幼少期に自分で入れた「親は守ってくれるものではなく、“娘”だ。自分が守らなければいけない」という早熟精神のスイッチなのかもしれません。自己防衛の最たるものだとその精神性の高さにただただ感心すると同時に、胸が痛くなり、目頭が熱くなる思いでした。

「本当は大学にも行きたくてめちゃめちゃ勉強したんですが、服なんて1度も買ったことなくて毎日同じ服を着てるくらい貧乏でしたので、諦めるしかなかったですね。なのでなんとかバイトしながら高校は出たんですが、卒業後は高校時代からバイトしてた仕出し屋でそのまま仕事を続けました。

 とにかく生活を支えなければいけなかったですし、その頃から母の幻聴もひどくなり、統合失調症と診断されたので治療費も稼がなければいけなくて1日も休まず仕事しましたね。ほかにも、仕出し屋の仕事の前後の時間には朝に新聞配達とか、夜は工事現場とか……とにかく働きまくりました」

 そんな勇さんの必死の姿を学生の頃からずっと見ていた仕出し屋の社長が、とある自身の古くからの友人を勇さんに紹介してきたそうです。その方とは、都心の真ん中にオフィスを構えるある大手企業の関係者でした。

「仕出し屋の社長から呼ばれて、その方を紹介されたときに、“うちで働かないか”って声をかけてくれて、これはチャンスだと思ってすごくうれしかったんです。生きてればいいことってあるんだなって。そして今の企業に就職できたんです。正社員雇用で、すごく幸せで充実しています。僕、ずっとサラリーマンに憧れてましたから」

 勇さんは現在大手上場企業のトップ営業マンです。「サラリーマンなんて普通じゃん」と思いがちですが、幼少期より過酷な環境で育った勇さんにとって「普通」という称号はとても特別なものなのです。

 現在では、ごみ屋敷を離れ、賃貸マンションで母親の介護をしながら施設に通わせ、サラリーマン生活をしているといいます。

父親より母親のほうが「共依存」になりやすい

 近年言われるいわゆる「毒親」ですが、特に母親の場合に「親子の呪縛」を感じることが多々あります。「男は外で仕事」が当たり前の昭和世代の父親の場合は、子どもたちはある程度割り切って距離を置いた関係になることが多いのですが、母親の場合、一緒にいて苦しいのに“見捨てることができない”という思いが強くなり、ひどい場合には共依存になるという方もいます。

 “見捨てる”というふうに発想してしまうのが原因で、自分が受けた仕打ちを自分自身もしてしまったというふうに考えてしまい、かえって自分の心の傷に塩を塗ってしまうようです。

 現在は自分の力で夢に描いてきた「普通の生活」を手に入れて、充実した日々を送っているという勇さんですが、悪夢から解放されないでいるのを聞くと、心の傷は深く、癒えるまで先々まだまだ時間のかかることがわかります。

 人は経験と記憶の上に今があります。勇さんにとって、これから先の人生のテーマは「人の愛情を経験する」ことが重要で、それが傷口を治癒していくことになります。

 人生において誰かに甘えるという経験を積んでこなかった、1人ですべてを抱え込んできたことしかない勇さんにとって、少しでも心が軽くなるときが来るのがいつかはわかりませんが、今は安心して生きられる環境を手に入れたわけですから、少しずつでも人を頼り、人に甘え、人の愛情に触れるという経験を積んでいってほしいと願うばかりです。

 それが、せめても、寝ているときくらい心が解放されるための方法なのですから。