どんな質問にも終始笑顔で答えてくれた鈴木蘭々。会社のことについて語る際は真剣な表情に

かつて世間の注目を集めた有名人に、「あの騒動の真っ最中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、そして当時、言えなかった本音とは……。第4回は'94年の『ポンキッキーズ』(フジ系)でスターダムを駆けのぼった鈴木蘭々。その後も多くのテレビ番組やCMに引っ張りだこだったにもかかわらず、ある時期から姿を消した。お茶の間の人気者が、ひそかに抱えていた“苦悩”とは―。

「2年半の間、1日も休みがないこともありました。年末年始も特番の収録で仕事があり、今より生放送が多かったので、大変でしたね」

 鈴木蘭々(44)は、笑顔で当時のことを懐かしむ。

『ポンキッキーズ』のハードな裏側

 '94年に放送された子ども向けのバラエティー番組『ポンキッキーズ』(フジテレビ系)で、安室奈美恵とうさぎの着ぐるみを着た『シスターラビッツ』として出演したことを機に、大ブレイクした。

「ボーイッシュなショートヘアと明るいキャラクターで一躍、お茶の間の人気者に。'95年には『泣かないぞェ』で歌手デビューし、10社以上のテレビCMに出演しました」(スポーツ紙記者)

 そんな人気者は、多忙な日々を送っていた。

「まだ10代だった『ポンキッキーズ』初期のころは、緑や青の背景の前で撮影して、後で別の映像と合成するクロマキーセットを使った撮影が大変でした。

 合成写真は緑が背景の何もない場所で、何かあるような感じで芝居をしなければならなかったのですが、その色合わせの調整に時間がかかり、朝4時になってしまうこともありました」

 ハードスケジュールでも疲れた様子は見せていなかったが、裏側ではこんな本音も。

「番組の中で、トレジャー号というメリーゴーラウンドの乗り物に乗って、みんなが元気になる種を探しに行く企画があったのですが、“やっている私たちのほうが元気の種欲しいよ”と思っていました(笑)」

夢が叶い、引き出しが空っぽに

『ポンキッキーズ』では、まだブレイク前のピエール瀧や安室と共演していた。当時、彼らとどんな時間を過ごしたのか聞いてみたが……。

「実は、忙しかったこともあって、細かいことはあまり記憶にないんですよ。たまに、You Tubeで昔の映像を見ると、“こういうこともやったかな?”って思うくらいですから」

 今となっては、ほとんど覚えていないようだが、 “相棒”のことは印象的だったようで─。

「番組で一緒だった安室のダンスを見て、素直にすごいと思いました。それからダンスのレッスンに頻繁に通うようになりましたね」

『ポンキッキーズ』(フジ系)では、安室とともに人気者になった

 バラエティー、CM、歌手とあらゆる分野で活躍し人気絶頂だったが、23歳になった'99年に突然、アメリカのニューヨークに留学した。いったい何があったのだろう?

「当時、自分がやりたいことを全部やり終えてしまったような感覚になったんです。バラエティーや歌の仕事など、子どものときからやりたかったことがすべて叶ってしまった。

 そうなったときに、次はどうしようと考えるように。自分の中の引き出しが空っぽになっていることに気がつきました。引き出しの枯渇を埋めるために、海外へ行こうと思ったんです」

 現地での生活は、心の空白を満たす出来事の連続だったという。

「12月に留学していたので、現地はかなり寒く、地下鉄の乗車券を出そうとしたときに、手がかじかんで出せず、その間に電車が来てしまったことがありました。すると、近くにいた若い男性が自分の乗車券で改札を開けて、“行きなさい”と促してくれたんです。

 電車の中でも、みんな大きくてつかまるところがなく、困ったなと思っていたら、黒人のおばさんが“このバッグにつかまりなさい”と言ってくれました。友達から“ニューヨークは孤独を感じる街”と聞いていましたが、滞在中は楽しくてしかたありませんでした」

 一見、たわいのない出来事のようにも見えるが、なぜ心を満たしてくれたのだろうか。それは、彼女がひそかに抱えていた“苦悩”が関係していて……。

「13歳から仕事をしていましたが、周りの人はみんな優しくて面と向かって怒ってくれる人はいませんでした。ただ、当時、広告代理店の人に“この世界でわがままになったらいけないよ。仕事先の人は表面上にこやかにしているけど、裏では何を言っているかわからないからね”と忠告されたことがあったんです。

 それ以来、仕事で関わる人は“タレントの鈴木蘭々だから優しくしているのかな?”と思うようになりました。だからこそ、誰も私のことを知らないニューヨークで、優しくしてもらえたことがとてもうれしかったんです」

化粧品開発に歌手活動も行う現在

 帰国後は舞台を中心に活動していたが、'13年に所属していた事務所を退社。そこからは、表舞台から姿を消してしまったように見える。

 実はその後、化粧品を販売する会社『WOORELL株式会社』を立ち上げていた。なぜ、起業しようと思ったのかというと、

「20代後半からセカンドキャリアを作りたいと考えていました。芸能活動に加えて、ほかの仕事もやりたかったんです。ただ、事務所に所属しながらだと、なかなかほかの仕事はできませんからね」

 もともと、脳や身体のことに興味があり、漠然とそうした仕事に関わりたいと思っていたという。化粧品の会社を立ち上げたのにはこんなきっかけが。

「それまで全然、肌が荒れたことがなかったのに、25歳くらいから突然荒れるようになってしまったんです。

 化粧品関係の仕事をしていた知り合いに自然由来の化粧品をすすめられましたが、自然派でありながらアンチエイジングもできるものを探すのは大変でした。それなら、自分で作ってみようと思ったんです」

 一方、本業である芸能活動では、'18年に30周年を記念したライブを行い、昨年12月17日にはデジタルシングル『ビュリホー ビュリホー』をリリースするなど、歌手活動も再開。そこには、こんな舞台裏が。

「30周年記念ライブに、以前所属していたレコード会社のディレクターとマネージャーがお忍びで来ていたんです。後日、10年ぶりくらいに彼らと食事に行って、昔話で盛り上がりました。昔、レコーディングした曲の中に、現場で絶賛されていたものの、いろいろな事情があり、世に出せなかった曲がありました。

 当時のマネージャーたちと話した結果、ボツになった曲をもう1度作ることになったんです。今は、CDを売るのではなく配信する時代なので、昔よりもっと気楽に音楽に向き合うようすすめられました。でも、久しぶりに歌ったので、当時の歌い方によせるのが大変でしたね(笑)」

 最後に、今後の目標について聞いてみた。

「ゲッターズ飯田さんの占いによると、私は3つのことが同時にできる星だそうです。実際、私はひとつのことに限定せず、いろいろなことをやりたいタイプ。

 いまの時代、起業したり、ものを作ったり、YouTubeで音楽を作るなど、やろうと思えばいろいろなことができます。すごくすてきな時代だと思うので、これからも多くのことに挑戦していきたいですね」