無観客の中、全幕内力士も参加した初日の協会ごあいさつ 相撲協会公式YouTubeより

 大相撲春場所の無観客開催が始まった初日の8日、さっそく朝8時40分の開始から見た。

 正直、無観客場所には期待はしていなかった。大相撲はスポーツであり興行であり神事である。そのひとつでも欠けたらバランスが崩れて成立しないんじゃないか? と思い、半信半疑の気持ちで見始めた。ところが、大いに感動し、涙まで流して見入ってしまったのだ。

神秘的な横綱土俵入り

 無観客場所はいつもどおりに拍子木が打たれ、審判の親方たちが入場し、序ノ口の取組から素っ気なく始まった。考えたらピラミッド社会の大相撲、いちばん下の序ノ口、次の序二段、その上の三段目あたりまで、普段から観客は少ない。開始すぐの序ノ口のころなんて、観客はいつもだいたい30~40人いるかいないかくらいだ。

 それでも8日、カメラが会場全体を映すと、本当に誰もいない。閑散たるさまは異様で、同時に不思議な感覚にもなる。時空を超えた異世界で開かれている相撲……なる妄想が浮かぶ。観客が入ることを想定した升席、椅子席には、私たちには見えない誰かが座っていそうな気までしてきた。

 肝心のおすもうさんたちは? というと、そんな妄想とは無関係……いや、でも、時空を超えた、という点において、現役力士の最高齢、今年5月で50歳になる序二段、華吹(はなかぜ)が審判である友綱親方(45歳)の隣に座って取組を待つ姿には、そこだけ時空を超えているように見えた。ちなみに華吹はそんきょの姿勢もうまくとれないほどひざが悪そうなのに、勝っていた。相撲は取ってみないとわからない。

 ガ然、面白さが増したのは午後1時過ぎ、幕下が始まったころ。幕下の相撲はいつも面白いのだが、無観客でも集中力を高めて気合をより一層込めて戦う、ネクスト関取を目指す幕下のおすもうさんたちの情熱に胸打たれた。

 そしていよいよ関取たちの登場、十両土俵入りだったが、これが実にシュール。観客が誰もいない中、花道を並んで十両力士たちが入場し、順番に四股名(しこな)を読み上げられ土俵に上がる。そして一連の所作。何やら卒業式の予行練習をする人たちのようでもあり、圧倒的に何か欠けてる感にあふれていて、切なくなった。

 それはそのまま幕内土俵入りでも同じで、「炎鵬!」とか「照強!」とテレビ画面に向かって叫び、ツイートなどしつつも、なんだか涙が出てきそうな寂しさを感じた。それでも相撲協会が「#春場所」「#楽しみにしていた気持ちよ届け!」というハッシュタグキャンペーンをツイッターで始めていたので、応援する気持ちで何度もツイートをした。

 逆に、横綱土俵入りは静寂が神秘性を演出し、厳粛な儀式としてこれまでとは違う雰囲気を楽しめた。柏手(かしわで)を打ち、低い姿勢からせりあがる所作ひとつひとつ、2人の横綱はいつも以上に気持ちを込めて行っているのが伝わった。息遣いや、実は普段も言っているという行司の「しー」という辺りを静めるためという声も聞こえ、神事としての相撲の一面を堪能した。

涙が出た理事長のあいさつ

 そして協会ごあいさつ。通常は三役以上の力士が土俵に上がって八角理事長を囲むのだが、この日は幕内力士全員が東西に整列。向こう正面側には親方衆も整列し、八角理事長が土俵であいさつを述べた。これには本当に胸打たれた。

著者のツイッターより

「公益財団法人日本相撲協会は、社会全体でコロナウイルス感染症の拡大を防いでいる状況を勘案し、またなにより、大相撲を応援してくださる多くのファンのみなさまに、ご迷惑をかけることは決してできないと考え、大相撲三月場所を無観客で開催させていただくこととなりました」

 という今回の無観客場所の理由を述べた後、お詫びなどを語る。そして、

「古来から、力士の四股は邪悪なものを土の下に押し込む力があると言われてきました。また、横綱の土俵入りは五穀豊穣と世の中の平安を祈願するため、行われてきました。力士の身体は健康な身体の象徴だともいわれます。

 床山が髪を結い、呼出が拍子木を打ち、行司が土俵をさばき、そして、力士が四股を踏む。この一連の所作が人々に感動を与えると同時に、大地を鎮め、邪悪なものを押さえこむのだと信じられてきました。​

 こういった大相撲のもつ力が日本はもちろん世界中の方々に勇気や感動を与え、世の中に平安を呼び戻すことができるよう協会員一同一丸となり、15日間全力で努力する所存でございます」

 と、大相撲が古来からあった姿、歴史を実直に語り、その価値を伝えた。これが本当に素晴らしかった。涙が出た。今ここで、大相撲をたとえ無観客でも開催する意義が、十分すぎるほどに伝わった。相撲をやることそのものが祈りであり、今こそそれがあるべきで、そのために全力を尽くすという決意。これこそがリーダーに語ってほしい言葉! と、相撲を超えた感動さえ与えてくれた。

 そして、そうした歴史や価値があるからこそ、無観客でも大相撲は成立するのだと取組を見ていて感じた。実は先日、プロ野球の無観客試合をテレビで見た。私にはお客さんのいない試合はなんだか草野球のように見えて、日ごろ感じる圧倒的な華々しさや力強さを感じることができなかった。選手の声がそのまま聞こえ、もちろん、そこで言ってることは普段、聞くことのできない言葉なんだが、これは悲しいなぁと思った。

普段聞けない土俵上の「音」

 でも、初日に見た大相撲の取組は、確かに淡々と進んだ印象は否めないのだが、八角理事長が述べたように、床山が髷(まげ)を結い、拍子木が打たれ、呼び出しが四股名を読み上げ、力士は四股を踏み、塵手水を切り、行司がさばく。そうした一連の、江戸興行相撲の発祥前から培われてきた歴史や文化があると、たとえお客さんがいなくて興行としての面が成り立たずとも、草相撲のようにはならず、大相撲としてそこに威風堂々ありうることを感じた。

 大相撲はそこにあるだけで、すでに大相撲なんだ。数百年にわたって培ってきた、先人たちが築いてきたものが支えている。

 ぶっちゃけ、江戸時代から今まで、相撲興行の意匠がさまざま整えられてきた背景には、いかに大衆を喜ばせるか以上に、天覧相撲で将軍さまを喜ばせて己の地位を高めようとした大名たち(注:江戸時代は各藩大名が力士を抱えていた)が知恵を絞ったにすぎないのだが、だからこそ、いかに相撲を「映え(ばえ)」させるかを数百年も頭とお金を使って競い続けてきたものがある。今どきの安易なインスタ映えなんかでは太刀打ちできない「映え」がここにはある。

 力士たちはみな、日ごろとは違う環境に悪戦苦闘、必死に気持ちを高めようとしているのが伝わった。それはそれでまた、違う感慨を見る側に与えてくれた。圧倒的に強くてすぐに決まってしまう勝負はなんだかあっけなく感じ、もつれた取り組みにこそ面白さを感じたりもするのも、普段とは違った。

 十両の矢後−貴源治戦、もつれた両者のハアハアする息遣いが大きく聞こえたのには、ドキドキした。声、息づかい、土俵にふんばる音、まわしを叩く音、そうした音を楽しむのも今場所の醍醐味(だいごみ)だ。

 ちなみに相撲協会のホームページには「本日の取組表」があってダウンロードすることができる。日ごろは素っ気ないモノクロだが、今場所中はいつも会場で配られるカラーで、広告なども入ったものと同じ仕様。印刷すると、なんだか楽しい。お茶やおやつも用意して、応援タオルもフリフリして、テレビの前から応援をしたい。

 二日目もすでに幕開けした。どうか、無事に15日間を戦ってほしい。私たち相撲ファンも全力で応援する。

2020年、無観客となった大相撲春場所をテレビ前で観戦

和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。