《“がんばろう福島”と言われてもむなしく、涙が出た》
震災後、リスナーから届いたそんなFAXをきっかけに“現場”に通い詰めるようになった。権力者にも鋭く斬り込む姿勢で県民から厚い信頼を寄せられる男が、幾度も大学生を原発取材に同行させ、見据える福島の未来とは―。

ラジオアナウンサー大和田新さん

「さあ、ラジオ福島のふるさとレポーターのみなさんに、地域の話題をお聞きいたしましょう。今週は南相馬市の上野敬幸さんにお話を伺ってきました」

 毎週土曜日、張りのある男性アナウンサーの声が、福島県民に朝を告げる。午前7時から午後1時までの6時間、“ニューシニアマガジン”と銘打つ番組『ラヂオ長屋』のパーソナリティー、大和田新(64)だ。

心のひだを知りたい、伝えたい

 2011年3月11日に発生した東日本大震災では、被害状況を涙ながらに伝えた。停電の続く部屋で、避難先の車中で、人々は震えながら耳を傾けた。電池で動くラジオが頼りだった。

 震災から9年を迎えるにあたり、大和田は津波で両親と2人の幼い子どもを失った上野敬幸さん(47)を真っ先に取材した。震災の半年後に生まれた次女は、小学2年生になっていた。

「震災から10年目ということで私たちメディアは節目みたいなことを言うのですが、今回はどういう気持ちで迎えられそうですか」

 やや斜に構えた問いかけから、被災者の率直な意見を阿吽の呼吸で引きだした。

「被災地はいまもこんなに大変ですとか、こんなに復興しましたと報道されますが、それを見た第三者はなにを受け取るのかと考えると、とても疑問です。それより、いまある命をどう守るかを考える機会にしてほしいと思います」

 取材の模様をさっそく、大和田は自身のフェイスブックに載せた。上野さんの着るTシャツの左胸に「心」とあるのに対し、大和田のTシャツには「下心」とある。上野さんが贈ったのだという。そんなところに、時間をかけて深めてきた関係がうかがえる。

「大和田さんはおもしろい人ですよ。大好き。普段会っているときはふざけてばかりいるけど、いざ仕事になると謙虚でまじめで、真摯なんです」

 2人の出会いは最悪だった。取材に来た大和田は「なにやってんだ! お前なんかにしゃべることねえ」と上野さんに怒鳴られ、けんもほろろに追い返されたのだ。

 南相馬は津波で壊滅的な被害を受け、見渡すかぎりの大地に上野さんの家が1軒だけ、かろうじて残っていた。象徴的な被災地の姿を写真に収め、住人に話を聞こうと、多くのメディアが集まった。土足で亡くなった娘の部屋に上がり込む記者もいた。そのたびに「ここでなにが起きたか知っているのか!」と、上野さんはたしなめた。

上野さんを取材する大和田

 原発に近いことから警察も自衛隊も来ないなか、上野さんは行方不明になった家族を地元の消防団仲間と探していた。近所に住む知人を遺体で見つけると、メディアはすかさずカメラを向ける。上野さんは込み上げる怒りを押し殺し、捜索を続けた。

 原発事故に関心が集まるあまり、津波の大きな被害が福島でもあったことが見過ごされていた。疑問をもった大和田は、めげずに上野さんのもとへ通い詰めた。ただ挨拶をして帰ることを来る日も来る日も続けたのだという。

「語りたくても、すぐには語れないドラマというのが必ずある。上野さんの怒り、悲しみ、苦しみ、不安、家族を亡くした人の心のひだを知りたい、伝えたいと思っていました」

 夏が近づいたある日、インタビューに応じると上野さんのほうから声をかけてきた。そして、ポツリ、ポツリと大和田に語り始めた。

「死んだ娘をがれきの中から見つけて抱きしめて。そのまま遺体安置所に連れて行きました。顔は泥だらけ。水がないからね、顔を洗ってあげられないんです。でもね、涙で娘の顔を洗ったよ……」

家族の祭壇を前に話す上野さん。娘が好きだった花火大会を毎年主催しているが、いまだに上野さんは花火を見上げることができない

 震災後、学校の宿題がそのまま机に置かれた娘の部屋に上野さんは入れずにいた。

「あの日抱きしめた遺体と、生きた痕跡が残る部屋。そのギャップに耐えられなかったんです。そこに土足で入る記者が許せなかった……」

 そんな胸の内を泣きながら明かしてくれた上野さんの姿が、このとき大和田のなかに深く刻まれた。

本当に怖いのは無関心

 番組で相方を務める山地美紗子さんは、新人のときから「とにかく現場だ」と大和田に教えられたという。

「“現場に行かなければわからない”“現場に行かないかぎり伝えられない”と口すっぱく言われました。子どもを亡くしたお父さんにも、大和田さんはストレートな言葉で気持ちを聞きます。みなさん“自分のせいだ”と苦渋するのでひやひやしますが、決まってあとから、“あのとき聞いてもらえてよかった”と言われるんです」

 震災当時、そうした大和田の報道が部分的に切り取られてネットに広まり、全国から批判が集まった。ラジオ局が「大和田クレームマニュアル」を用意したほどだ。しかし、本人に気にする様子はなかった。

「批判は、応援と受け止めました。私は見ていませんが、ネットには想像を超えるほどたくさんの批判があふれていたようです。でも、本当に怖いのは無関心ですからね」

 大和田がいまも被災地の現場にこだわるのは、マスコミが継続的な取材をしないのも無関心のうちと考えるからだ。

 震災があった当時、大和田はラジオ福島の編成局長を務めていた。「未曾有」とまで国が形容した地震と津波による被害に原発事故が重なり、なにがどうなっているのか、報道の責任者であるにもかかわらず、さっぱりわからなかった。原子力や放射能についての基本的な知識もなく、勉強不足を痛感した。

「福島は北海道、岩手県に次いで広く、手分けして取材するにも限界があります。そこで被害状況から、どこでなにを売っているといった生活にまつわることまで、各地から寄せられる情報を裏もとらずに伝えました。リスナーとの信頼関係があったからこそできたことです」

 地方のラジオ局は地域のほのぼのとした話題が主で、社会的な問題を深く掘り下げることはまずない。それが被災地となって一転、15日間にわたり、CMを入れずに状況を伝え続けた。広告収入が経営基盤となる民間放送としては異例のことだった。

 大和田は「いいか。語るなよ」と、新人アナウンサーに注意をうながした。

「私たちは科学者ではないので自分の意見や見解は言えず、“がんばろう福島!”とひたすら呼びかけるしかありませんでした。代わりに専門的な知識をもつ医者や大学の先生に出演していただきました」

 専門家とひと口にいっても、立場によって言っていることが異なり、ときに矛盾した。聞き慣れない専門用語や数値の単位が理解を妨げた。一貫性を欠いた説明が混乱を招き、国やマスコミは情報を正しく伝えていないとの不信感が全国的に高まっていた。

「現場を見てから物を言え」

 大和田のもとに、視聴者から長文のFAXが届いたのは、震災から3週間が過ぎた4月2日のこと。その日付を大和田は忘れられずにいる。差出人は福島市内の人で、混乱の最中、何度も沿岸部に行って仕事をしていた。そこで見た被害状況を、丹念に伝えてきたのだ。

《瓦礫のなかから子どもを探し回る人がいれば、陸に打ち上げられた漁船を呆然と眺める人がいる。そんななかで「がんばろう福島」と言われてもむなしく、涙が出た》

 自分にあてられたFAXを読んだ大和田は、「現場を見てから物を言え」と言われている気がしてならなかった。実際、リスナーから集まる情報で放送を続けていたものの、現地取材はほとんどできていない。先の見えない状況で誰もが不安を抱えるなか、「がんばろう」「力を合わせよう」と感情に訴えるのが精いっぱいだと決め込んでいた。

「番組への批判というより、まだラジオ福島が見限られていないのだと思いました。しかし、沿岸部の現状がどうなっているのかわからず、部下を取材に行かせるわけにはいきません。俺が行くしかないよなと思い至りました。それで毎週、沿岸部の被災地に通うようになったのです」

 大和田の「現場主義」はこのときから始まった。

 被災した街はどこも、風景を一変させていた。海岸沿いの住宅地では家が軒並み流されて土台だけ残り、見渡す限り瓦礫の山。遺体を収容する場面に何度も遭遇した。

「まだこういう状況なのか」と実感した大和田は、スタジオではなく、現場からレポートするようになる。4月末には行方不明者を捜索する警察官に同行し、原発から5キロのところまで近づき実況した。

「びっくりしたことがあるんです。当時、福島市内でも25マイクロシーベルトありましたが、原発のすぐ近くなのに3マイクロシーベルトしかない。国は20キロ圏内、30キロ圏内と同心円で避難指示を出していたので、どういうことかと疑いました。そして、国や東電の発表する数値には心がないのだと感じました」

震災当日の卒業式、直後に避難所と化したさまが残る富岡町の体育館

 第一原発のある大熊町に隣接する川内村は全村避難を余儀なくされていた。震災から2か月たった5月はじめ、ようやく一時帰宅が許可された現場に大和田は足を運んだ。

 真っ白い防護服に身を包み、線量計を首から下げた人々に許された滞在時間はわずか2時間。思い思いのものを入れて持ち帰ってきた村民に、村長の遠藤雄幸さん(65)は「ご苦労さん、ご苦労さん」と声をかけていた。

「袋は透明なので、中身が嫌でも見えました。身の回りのものや位牌、写真アルバムなどが多かったです。子どものおもちゃと勉強道具で、袋がいっぱいになった夫婦もいました。空っぽの人もいて、どうしたのかと村長が聞いていました。2度と戻れないからビデオに収めていたという人や、愛犬が死んだので、庭に埋めたという人がいました」

 こんな不条理なことはないと涙をこぼす遠藤さんに、大和田はすかさず近づき、単刀直入に尋ねた。爆発した原発がこれからどうなるのか見当もつかないなか、「川内には戻るんですか」と聞いたのである。リーダーの覚悟を確かめたかったからだ。

「もちろんだよ。戻れない人のためにも、戻らない人のためにもふるさとは必要なんだ」

 原発は安全だと信じ込み、避難訓練などしたことがない。その意味では自分も加害の側にいると遠藤さんは考えていた。大学の研究チームに村の状況を詳しく調査してもらい、自らチェルノブイリを視察し、原発事故の影響とはなんなのかを把握していった。そして、震災から1年足らずで「帰村宣言」をする。

「行政は町や村を元の姿に立て直すことが復興だと考えがちですが、遠藤村長はちがいました。新しい川内村をつくり、たとえ離れて暮らしていても心の中ではともにあり、帰るとなったらいつでも温かく迎える。そんなふるさとをつくろうとしていました」

学生を連れて原発を視察

 大和田は、震災の翌年から『月曜Monday(もんだい)夜はこれから』という番組のなかで、震災報道を続けていた。国会議員や東京電力の幹部、県知事や市町村の首長らをスタジオに招いては、本音を質した。タレントのカンニング竹山やジャーナリストの堀潤など、県外のゲストと被災地を回り、率直な感想を語らせたこともある。大和田自身、仮設住宅に住む被災者を週に何度も訪ねて困りごとに耳を傾けた。

 だが、震災から5年が過ぎた2016年、震災報道の潮目を感じる。前年に福島ラジオを定年退職した後も、フリーランスの立場で続投していたが、会社の幹部に番組の終了を告げられてしまうのだ。

「もう十分、震災報道の役割は果たしたよ」

 震災当初は全社一丸となって報道に取り組んだが、時がたち、その熱量は失われていた。福島を地場とする広告主への配慮も見え隠れした。

 大和田はふくしまFMに場を移し、『伝えるラジオ 福島リアル』という番組を2017年に始める。相方に福島大学の学生だった上石美咲さん(23)を抜擢した。

2018年当時、福島大学の学生だった上石さんに3号機の前でマイクを向ける大和田

 中学2年生で3・11を体験し、大学生になると都市計画の研究室に所属。浪江町の仮設住宅で調査を重ねた上石さんから、大和田は思ってもいなかったことを言われる。

「原発に行ってみたい」

 動機は、特産の桃をキャンペーンする「ミスピーチ」として県外のデパートで試食会をしたときの屈辱だった。口にした桃を福島産と知って吐き出す人がいたのだ。

 大和田はこう諭したという。

「きちんと説明できないあなたにも責任がある。農家の人たちは放射線量を厳しく測定し、出荷しています。数値はすべて平均以下です。買う買わないはお客さまの勝手ですけど、身体に影響のあるものをもってきているわけではありません。風評被害に対し、きちんと説明すべきだった」

 大和田の厳しい言葉を受け、上石さんの真実を知りたいという気持ちは固まった。

「正直、不安はありました。親もずいぶん心配しました。でも、医師の話を聞いたり、公表されている数値を調べて、自分なりに納得できる入構の理由を見つけていきました。案内してくれた東電の人は学生の疑問にも真剣に向き合い、きちんと答えてくれました。なにかを隠していると疑っていましたが、少なくともこの方の言っていることは信用できると思いました」

 以来、大和田は希望する学生に原発を取材させては番組のゲストに呼び、感想を尋ねてきた。その回数は第一原子力発電所(1F)に20回、第二原子力発電所(2F)に8回で、のべ88人におよぶ(2020年2月現在)。

「負の遺産を若者に押しつけるのは申し訳ないけど、廃炉にはまだ40年、50年とかかる見込みです。そのときいまの大学生は60代、70代になっています。次世代に伝え、託していかなくてはならないと思うようになっていきました」

 自分の目で確かめるまで、原発の状況は事故当初とさほど変わらないと考える学生が少なくないと大和田は言う。 

ふるさとを取り戻すために

 視察者にはまず、東電の担当者が経緯と進行状況を説明する。それによれば、事故後8か月くらいは不安定な状況にあったが、注水がうまくできるようになってから、危機が次第に収束していった。さらに構内の地表面をモルタルで覆う「フェーシング」の進んだ2015年を境に、空間放射線量が少しずつ減り、作業員の装備が徐々に軽くなっていく。一方、燃料取り出し装置のトラブルで延期を繰り返すなど、廃炉に向け、一進一退を繰り返しているわけだ。

 大和田が決まって学生たちと作業員向けの社員食堂で食事をするのも、現状を知ってもらうためだ。

「作業員の方々は地面に座って冷たいお弁当を食べていると思っている学生が多いのですが、2015年にこの社食ができて、温かな食事ができるようになりました。毎日5種類から選べ、これがとてもおいしいんですよ。環境が改善され、作業員のケガや事故が激減しました。視察の感想を自分の言葉で書くように言っていますが、“廃炉に向けて大事なのは作業環境ですね”などと、作業員の笑顔が見られる食堂のことに触れる学生が多いんです」

浪江町では一部を除き、いまも帰宅困難区域が広がる

 栃木県出身の川島史奈さん(21)が進学先に福島大学を選んだのは、福島の現実を学びたいとの一心からだった。

「東電は住民の方々をひどい目にあわせたとずっと考え、敵愾心さえもっていました。しかし、いま第一原発で働く4000人あまりの作業員のうち、6割近くが地元の方だと知り、意識を改めました。みなさん、ふるさとを取り戻そうと必死なんだと気づかされたのです」

 こうして原発を視察した学生に対して、「いつまでも見てきたと言うな。同じことをずっと言っていては事実ではなくなる」と大和田は必ず釘を刺す。何度も入構してきて、状況が一変するのを目の当たりにしてきたからだ。

 視察の窓口を務めるのは東京電力福島復興本社の広報部長・岡崎誠さん(52)。さまざまな目的をもつ学生を受け入れる背景には、大和田との深い信頼関係がうかがえる。

 2016年の人事異動で福島に来た岡崎さんは、ここで何をすべきか、大和田に教わったと話す。

「震災から5年過ぎていましたので、遅れを取り戻したい気持ちもあって、大和田さんの話をよく聞いたり、あるいは大和田さんとご縁のある方と付き合うようになりました。会社の机に座って仕事をしているだけではわからないたくさんのことを、大和田さんがハブのようなかたちになって、教えてくれたんではないかなと思います。

 復興で肝心なのは、東京電力で働く者が浜通りに居続けること。単身赴任が多いので人の入れ替わりもあるのですが、累々と思いをつないでいくことで、人の営みとしてなにかが生まれ、はじめて新しい街ができていくのではないでしょうか」

 大和田は被災者を数ではなく、ひとりひとりの声として伝えてきた。東日本大震災ではなく、「東日本・津波・原発事故大震災」と呼ぶべきだとも提唱してきた。当然、東電に対する激しい怒りも番組で何度もぶつけた。

 2018年に東京電力本社でおこなった社員向けの講演では、東電内の温度差を強く批判した。

「東京の東電と、福島の東電はまったくの別会社だ。東京の社員にとって福島なんて、他人事でしょ? でも、現場に携わる東電の社員はみなさん、命がけですよ」

 事故を起こした責任から、福島を忘れずに仕事をしているつもりでいた社員は大和田の語る福島の状況を知り、「びっくりした」「想像もつかなかった」と感想を綴った。そこに温度差を見いだし、「東電にはいま2つ会社がある。1つにならなければならない」と放送で指摘した。

メディアの報じる“復興”は“復旧”にすぎない

 講演を聞いた東京電力社長の小早川智明さん(56)から、「私たちが福島にできることはなんですか?」と尋ねられ、大和田は「あなたが福島に来ることです」と断言したという。

 以来、小早川さんは、お祭りや植樹祭など地域の催しを訪れては、被災者ひとりひとりに頭を下げて回っている。震災後、東京電力の社長は3回代わっているが、知事や市町村の首長に謝ることはあっても、一般の人々にそのような姿勢を見せる者はいなかった。大和田の送りつづけた被災地の声が、ようやくトップに届いたのである。

 大和田の事務所は、福島大学にほど近い学生向けアパートの一室にある。ここから車で学生を案内する。ナンバープレートの「20-11」には、あの日を忘れないでほしいとの願いが込められている。

「原発の現状を見ることで、廃炉までどのような道をたどればよいかを考えてもらうきっかけになればと思っています。単に原発に反対か賛成かではなく、この先エネルギーをどうしていくのか、日本の将来にきちんと向き合い、考えてほしいのです」

1Fに33回、2Fに10回、計43回、入構している大和田(左)と東電の担当者

 第一原発へは福島市と浜通りと呼ばれる福島県の沿岸部を結ぶ、国道114号線を走る。この山峡の道は途中、浪江町の帰還困難区域で原発事故以来、通行規制がなされていた。2017年に解除されたが、いまもオートバイや自転車で通ったり、道を歩くのは禁じられ、いたるところで脇道が封鎖される。年間放射線量が50ミリシーベルトを超える場所がまだあるためだ。

「ここは浪江町の津島と呼ばれる地区です。町内では原発からいちばん離れているので安全だろうと、町長はここに町民を避難させました。国も県も情報を出さないのでわからなかったのですが、このあたりの放射線量がもっとも高かったのが後でわかりました。私も取材で来ましたが、車のなかで100マイクロシーベルトを記録したこともありました。町民を被ばくさせたと、亡くなった町長は泣いて謝っていて、かわいそうでしたよ」

 国道の通行量はそれほど多くはないものの、除染土を運んで隊列をなす大型ダンプカーとひっきりなしにすれ違う。除染土を入れたフレコンバッグと呼ばれる黒い袋の山も目につく。家の前には大きなバリケードが置かれ、ひっそり静まり返る。時間の経過を物語るように、生い茂る木立に埋もれた家もある。典型的な被災地の風景を見て、他県からはじめて訪れた大学生は誰もが驚き、復興にはほど遠いとの印象をもつ。

 事実、いまも4万人が避難生活を送る。昨年だけで36人の震災関連死が出て、うち13人自殺しているのが福島の現状だ。

「道路や鉄道が開通したり、学校や病院ができるたび、復興だとメディアは騒ぎますが、それは“復旧”にすぎません。復興とは亡くなった家族の分まで、一生懸命に生きていくことだと私は思います。震災関連死を止めない限り、福島の復興はありえません」

ポルノ映画の解説が原点!?

 大和田は福島の出身ではない。神奈川県の横須賀に生まれ、逗子の高校に通っていた。かつての夢は福祉の仕事に就くこと。同級生が中途失明し、頼まれるがまま手伝うようになったことがきっかけだ。

「教科書を読んで聞かせ、ポルノ映画を見ながら場面を解説してほしいと頼まれたこともありました。よがり声がすると、なんでだって聞くんです。“おっぱい、もんでんだよ”“どっちのおっぱいだ?”“右だ”“どっちの手でもんでんだ”という具合に、細かく聞いてきたりしてね(笑)。

 見えない人に状況を正しく伝えるにはどうしたらよいかを考えた経験は、ラジオの仕事で活きたかもしれませんね」

 視覚障害者の支援施設で朗読のボランティアをし、「大学を卒業したら、ここで働きたい」と館長に申し出た。喜んでもらえるとばかり思っていたが、予期せぬ答えが返ってきたという。

「本当に視覚障害者の人たちと付き合っていこうと思っているのであれば、それを生業にしてはいけません。福祉を仕事にしてしまうと、福祉本来の意味がわからなくなります。ですから、それを外から見る仕事を選びなさい」

 中央大学の法学部に進学し、一時は法律関係に進もうとも考えたが、しゃべるのが好きなことからラジオのアナウンサーを希望した。1970年代、深夜放送が流行り、ラジオは人気の就職先だった。キー局を中心に10社近くを受けたがうまくいかず、最終面接まで漕ぎつけたラジオ局も落とされた。

「推薦するから、ラジオ福島を受けてみないか」

 どうしたわけか、面接を担当したアナウンサーが救いの手をさしのべてきた。

 1977年、ラジオ福島に入社。当時は福島がどこにあるかも漠然としか知らなかった。3年ほど修業してフリーアナウンサーに転じ、東京で仕事をしようとひそかに考えていたのだという。

「気持ちを読まれたのか、歴史のある競馬場があるから、福島を好きになるには、競馬のアナウンサーがいいと先輩に言われました。4年目にようやく実況中継ができるようになり、ドラマがあっておもしろいと評判になりました。いつしか東京で仕事をしたいとは思わなくなっていました」

入社5年目のころの大和田

 1986年、アイドル歌手の岡田有希子さんが自殺し、後を追う若者が相次いだのが転機になった。担当していた深夜放送にも、自殺をほのめかす手紙や電話が届いたのである。「死ぬな、死ぬな」と必死に呼びかけても、いまひとつ手応えがない。リスナーにはいじめにあったり、親が離婚し、心に悩みを抱える若者が多かった。命の大切さをわかってもらうにはどうしたらよいかを考え、障害のある2人の難病患者と番組づくりをはじめた。視聴者から感想が山ほど届き、高校生がスタジオに遊びにくるほど人気になった。

被災地の小学生から贈られた言葉

 視覚障害者との交流はいまもつづく。福島市内で鍼灸院を開く中途失明者の星純平さん(44)はそのひとり。3・11の日、電気が5日間、水道が7日間も止まるなか、ラジオから流れる大和田の声に家族と耳を傾けた。

「アナウンサーの仕事は、目の前にきた原稿を読み上げるだけだと思っていましたが、“いまきたこの被災者の人数は正確かどうかわからないので読めない”と言っていました。すごく人間味のある人だなと思いました」

 フルマラソンに出る星さんを取材するため、はじめて実際に会った日のこと。あまりに走るのが速いものだから、「本当は目が見えているんだろう」と大和田は口にした。星さんはびっくりしたという。

「親が腫れ物でも触るように接してきたのとは対照的でした。腹が立ちましたが、視覚障害者と長い付き合いがあるのを知り、障害があるからといって区別しない大和田さんの真意を読み取りました」

仕事部屋でインタビューを編集。絆を深めてきた県民からの言葉や取材の軌跡がうかがえる掲示物で壁が埋め尽くされていた

 震災報道を通じて県民から厚い信頼を集める大和田に、2019年、参議院選挙への出馬要請があった。国政に出ればこれまでとはちがうかたちで、被災者や被災地への支援ができる。最後の最後まで悩みながら、周囲に相談した。そのひとりである川内村村長の遠藤さんは「スケベ根性を出すな」と止めたと話す。

「大和田さんの判断基準は常に被災者の立場、視聴者の立場にあるのだと思います。政治的に中立を守り、特定の組織に忖度することなく、自由に物を言ってきたからこそ共感を集めてきました。リスナーが信頼するのはラジオ局ではなく、大和田さん個人なんです。政治家になって一方向からしか発言できなくなるとしたら、彼らしくないかなとぼくは思いました

 大和田も、かつて視覚障害者を支援する施設の館長に言われた言葉を思い出していた。

「学校の先生が教育を見失うように、政治家が一般国民の気持ちがわからないように、ひとつの世界にどっぷりつかってはだめなんですね」

 大和田の仕事部屋には、2013年度日本民間放送連盟賞を受賞したとき、被災地の小学生から送られた手紙が額に入れられ、飾られている。

 そこには手書き文字で、「伝えることの大切さ 伝わることのすばらしさ」とある。大和田は子どもに贈られた言葉の意味を噛みしめ、全国でおこなう講演のタイトルにしている。

 福島県のおかれた状況が、全国にきちんと伝わっていないのを大和田は歯がゆく思ってきた。帰還困難区域以外では、普通の暮らしが変わらずあるにもかかわらず、震災直後のイメージを拭えずにいる人が少なくない。まるで日本が福島と、それ以外で分断されているかのようだ。

「原発でなにか問題が生じると、メディアは大きく報じますが、改善されてもまず伝えません。人々の頭のなかで時間がいつまでも止まったままになりがちなのはそのためです。放射線についての科学的な知識はいまだ周知されておらず、福島に来たことのない政治家が的はずれなことを言い出すこともあります。

 こうしたなか、私たち福島県民には、原発事故を正しく、県内にも県外にも、そして世界にも伝えていく責任があります。でも、いまだに放射能と放射線の違いがわからない福島県民もいる。これから福島の復興に必要なのは教育ですよ

 現場に行かなければなにも伝えられないと考える大和田は、この3月にも3回に分け、10人あまりの学生を原発の視察に連れて行く。3・11を原体験にもつ若者の発信は真摯で、社会がその声に耳を傾け、認めていくことが真の復興につながると期待してやまない。大和田は「伝える」の先にある未来を見据えている。


取材・文・撮影/増田幸弘 ますだ・ゆきひろ フリーの記者・編集者。スロヴァキアを拠点に、国内外を取材・おもな著作に『独裁者のブーツ イラストは抵抗する』(共和国)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語』(明石書店)、『プラハのシュタイナー学校』(白水社)などがある