福知山城の天守閣は、市民たちの熱意で昭和61年に復元されたもの(写真提供福知山市)

 明智光秀はどんな生涯を送ったのか!? その生涯を記したとされる『明智軍記』をはじめ、彼の足跡を読み取ることができる史料をもとに、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の聖地を巡礼。その足跡をたどれば、光秀の思いが見えてくるかも──。

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 江戸時代中期に書かれたとされる『明智軍記』に従うなら、美濃に生まれたという光秀。死後100年ほどたったころに書かれた、創作を含む史料ではあるものの、光秀の数少ない実体を教えてくれる貴重な手がかりであることは間違いない。

 光秀生誕の地の最有力候補が、現在の岐阜県可児市にある明智城跡。斎藤義龍に攻められ落城するまで、生まれてから30年近くを過ごしたと考えられている、別名・長山城とも呼ばれる山城だ。

明智城跡&天龍寺

本堂には日本一大きい明智光秀の位牌がまつられている天龍寺

 最寄り駅は、名古屋駅から1時間ほどの名古屋鉄道広見線の明智駅となるが、さらに歩いて20分ほどかかるので体力と時間に余裕を持つように。バスは土日祝のみの運行かつ本数が少なく、タクシーはほとんど通らないので、のどかな風景を横目に、光秀の故郷を目指すのが現実的だろう。

 また城跡の麓(ふもと)には、明智家歴代の墓所を持つ天龍寺(地図1 写真ページ参照)がある。

「テレビの影響はすごいんだなと実感しています」と笑うのは、天龍寺のお庫裏さん。

「光秀公が亡くなったとされているのは6月13日なので、毎年6月上旬に『明智城址保存会』からの依頼で、光秀の霊を慰める「光秀供養祭」を行っています」

 なんでも、桔梗印の明智光秀生誕ロゴマークが入った御朱印も人気なのだとか。近くには、本尊の薬師如来坐像を含め、24体の国指定重要文化財を保有し、1200年の歴史を誇る古刹(こさつ)・大寺山願興寺もある。願興寺の門前町として発展した『御嶽宿』は、明智駅から東にあり(御嵩駅周辺)、明智城からも近かった。光秀は、教養が高く、知識人であったとされているが、文化の薫る門前町に近かったことも一理ありそうだ。

天龍寺の門をくぐり左手奥へ向かうとひっそりと明智一族の墓所がある

金華山山頂の岐阜城

ドラマでは斎藤利政が居を構えている稲葉山城。後に織田信長がここから天下統一を目指す

 名鉄を乗り継ぎ、名鉄岐阜駅に移動。そこからバスで約10分ほどの距離にあるのが、光秀の主君である斎藤利政(道三)の居城・岐阜城(地図2)。天気のいい日は、市内からも金華山山頂ににそびえたつ城を仰望でき、308mに築城された難攻不落の城として、今なお多くの人を魅了する。岐阜公園内から歩いて登頂することもできるが、途中は険しい道が続くため、約3分で山頂付近まで到達可能なロープウエーが◎。

 斎藤氏は、信長と帰蝶の婚姻によって織田家と和睦・同盟を結んでいたが、斎藤利政が、その息子・義龍に討ち取られると関係が再び悪化。義龍が没すると、斎藤龍興が家督を継ぐも、織田氏との『稲葉山城の戦い』で敗戦し、以後、信長の居城となった。それを機に、地名を“岐阜”と改名し、城の名前も『稲葉山城』から『岐阜城』に。

 城下町の発展に力を注ぐため、歴史の教科書で習ったであろう楽市楽座も、岐阜城下で盛んに行われた。今なお、岐阜県としてその名が残るわけで、命名者があの織田信長と知ると、「岐阜県ってすごいじゃん」と畏怖の念を抱かずにはいられない。

 現在の天守閣は再建されたものだが、石垣の一部は信長時代のものと言われている。天守閣内は入場可能で、最上階から濃尾平野や名古屋市内を望む見晴らしは絶景。複雑な地形を一望すると、“戦国時代屈指の難攻不落の城”と謳われた意味がわかるはず。この城を落とした信長のすごみも伝わってくる……。

 信長が美濃を制圧している間、光秀はどこにいたのか。道三が討ち取られると、居場所を追われ、美濃の北・越前(現在の福井県)に向かったと言われている。そこで細川藤孝と再会し、足利将軍家を再興しようと東奔西走し、信長とも親しくなっていく。光秀の名が、歴史の表舞台に頻繁に登場するようになるのもこのころから。すでに40歳を越えており、遅咲きの苦労人だったことがわかる。

信長の琵琶湖水運支配の始まりとなった坂本城。実はこの場所、当時は湖の下だったという

琵琶湖畔の坂本城址

 信長配下で光秀が大きな功績を残したのが、比叡山延暦寺の焼き討ち。実は光秀、「(延暦寺に味方する)仰木家の勢力はみな殺しにしてしまえ」などと手紙にしたためていることから案外ノリノリで攻めたてたなんて説も。その功績もあってか、延暦寺の麓の町・坂本5万石を与えられるだけではなく、坂本城の築城まで許される。

 当時、交易の中心は日本海。積み荷が琵琶湖を介して京都に送られていたため、坂本に城を築くということは、信長から京都の東の玄関口を任されたようなもの。坂本城は、本丸が琵琶湖にせり出した水城だったと考えられており、なんと安土城の参考になった城とも言われるほど! 

 坂本城址公園(地図3)へは、大津駅からバスで行くことができ、最寄り駅である比叡山坂本駅からバスもある。が、本数は少ないため、タクシー移動も視野に入れたほうがベターだろう。琵琶湖の幽玄な景色を眺めながら、「このときは光秀と信長は蜜月だったんだろうな」などと物思いにふけってしまうこと請け合いだ。

 信長から信頼されていただろう光秀は、京都の西・丹波(現在の亀岡市や福知山市など)の攻略を命じられる。4年の歳月をかけ、亀山城を拠点に着々と攻略していき、丹波を平定する。武田信玄が信濃を攻略するために費やした歳月が10年(その後に川中島の戦いが勃発)だったことを考えると、信長という後ろ盾があったにせよ光秀の攻略スピードは相当なもの。どんなことに対してもオールラウンドで対応可能な超やり手のビジネスマン……それが明智光秀という武将と言えるかもしれない。

光秀が本能寺へと挙兵した城址。何が彼を“裏切り者”にしたのか……

首塚のある谷性寺

 丹波攻略の中で光秀とゆかりを持つ寺が、亀岡駅からバスで30分ほどの場所にある「谷性寺(地図5)」。別名「光秀寺」とも呼ばれ、初夏になると近辺で光秀の家紋である桔梗が咲き乱れるひそかな人気スポットだ。

「言い伝えによりますと、丹波攻略の際、光秀は旧山陰道を進軍していて、その際に近くに位置していた谷性寺の存在を知ったそうです。雷で焼失する以前の谷性寺は大きなお寺で、お坊さんの修行の場だったとも言われています」

 と教えてくれるのは、住職の若林さん。本尊が不動明王であることから、攻略の際にそのご加護を受け、信長を討つべく本能寺へ向かう際には、「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したとも。

信長を討ったあと、山崎の戦いに敗れ坂本城へ逃げる際に命を落とした光秀。その首が葬られているとされる谷性寺には光秀の首塚が

「良君に何が起こったのか──」

 丹波を平定した光秀は、荒んだ町を復興することにも精力的だった……と聞くと、意外に思う人もいるかもしれない。福知山駅から徒歩で15分ほどの福知山城(地図6)は最たる例で、近代城郭へと改修し、城下町を整備。謀反人と名高い光秀だが、昔の丹波の人々は光秀を慕っていたという。

「今でも光秀公を慕う人は多いです。門前にあるききょうの里は、地元の方が丹精込めて桔梗を育てています」(若林住職)

 坂本という東の玄関口、そして丹波亀山城という西の玄関口を任されていたことからも、信長の光秀への信用は極めて高かったことがうかがい知れる。しかし、1582年、光秀は丹波平定で大活躍した丹波亀山城から本能寺に向けて出陣する。丹波亀山城跡(地図4)の石垣は太平洋戦争後に再建されたものだが、一部は光秀が居城していた際のものが残っている。趣きのある城址を見ていると、「良君に何が起こったのか──」。そう思わずにはいられない。

「閲兵のために京に向かう」と、家臣に伝え出発。亀山城から2・5キロほど東に位置する篠村八幡宮で、初めて藤田伝吾ら重臣5人に、謀反の意図を伝えたというからゾクゾクする。柴田勝家は北陸に、羽柴秀吉は中国に。畿内の司令官だった光秀が裏切るとなれば、「是非もなし」。

 苦労人で、ムチャぶりに対しても応える。黙々と仕事をこなし、丹波の民からも慕われていた明智光秀。その足跡をたどると、“裏切り”とはほど遠い誠実な仕事人像が浮き彫りになる。麒麟ならぬ、いかにして“クライマックスがくる”のか……聖地を巡礼すると、ドラマがさらに楽しみになること間違いなし!

地図作成 大塚さやか