生後5か月の愛子さまと神奈川県にある葉山御用邸で静養された両陛下(2002年4月)

 '60年2月に上皇ご夫妻(当時皇太子ご夫妻)の間に、待望の第1子となる浩宮さま(現在の天皇陛下)がご誕生。

 美智子さまは上皇さまとともに、それまで伝統的だった乳人制度を廃止し、親子一緒に生活を送るなど、皇室の“育児改革”を進められた。

 ご公務などによって数日間家を空ける際には、美智子さま独自の“教育方針”を近しい職員に渡されていた。

「地方や海外訪問で数日間いらっしゃらないことが多かったのですが、ご両親と職員の教育方針が違ってはならないため、お付きの人たちに託したのが、いわゆる“ナルちゃん憲法”という育児メモ。

 例えば“1日1回はひとり遊びする時間を与えてください”“投げたものは自分で取りに行かせてください”“1日1回はしっかりと抱いてあげてください”と、細かい指示が記されていたのです

 そう話すのは、皇室を長年取材するジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさん。

 実はこの“ナルちゃん憲法”は、もともと美智子さまのお母さまである正田富美子さん('88年没)が原点だった。

母が学んだドイツの育児法が美智子さま、そして陛下へ

「浩宮さまを育てるにあたり、心強い助けになったのは母・富美子さんの“育児記録”だったそうです。

 正田夫妻は、ドイツ滞在中に美智子さまのお兄さまで長男の巌さんを出産したのですが、このとき富美子さんはドイツの近代的な育児法を学ばれ、育児に関する注意事項を記録されていたそうです。

 それは“幼児のうちに独立的な人間性を身につけさせる”というもので、例えば、赤ちゃんが泣きじゃくっても“時間にならないと母乳を与えない”“むやみに添い寝をしない”といった内容でした。

 この育児記録が、美智子さまが5年間書き続けられた“ナルちゃん憲法”の原点なのだと思います」(渡邉さん)

美智子さまと母・正田富美子さん(1958年ごろ)

 お子さま方の食事にも、ご自分がキッチンに立たれるほどに気を遣われていた。

「美智子さまは市販の離乳食を使わず、宮内庁大膳課職員や侍医と相談しながら、お子さま方の献立をお考えになり、公務のないときはご自身もキッチンに立って、離乳食をお作りになっていたのです。

 例えば、生後6か月の浩宮さまにはマッシュポテトやニンジンの裏ごし、7か月では豆腐とほうれん草の裏ごしなどです。当時、美智子さまが記されていた“離乳食日記”には、浩宮さまが好まれたメニューに印がつけられていました」(渡邉さん)

1969年8月、まだ幼いお子さまたちと軽井沢でご静養されている際のひとコマ

 自ら料理を作られていたのは、学生時代に受けた富美子さんからの教育が背景に。

「美智子さまは中高生の間、東京・麹町で知人が開いていた会に月1回くらいのペースで、ご友人らと一緒に習字や料理を習われていました。

 鯛のおろし方なども教わりましたが、ご両親としてはいつか嫁がれる日のため、花嫁修業の一環だったのだと思います」(美智子さまの同級生)

 この体験があったからこそ、紀宮さま(黒田清子さん)に料理はもちろん、嫁がれた後、しっかりと生活できるように指導されていた。

「美智子さまには、紀宮さまが“将来、結婚したときに民間人として困らないように”というお考えがありました。

 だからこそ、普通の家庭と同じように、紀宮さまが小さいころには、新聞と牛乳を毎朝取ってくるなどのお手伝いや、リンゴの皮むきやお裁縫なども教えていたそうですよ。

 ほかにも米のとぎ方やボタンの縫いつけ、洗濯の仕方も指導されたそうです」(渡邉さん)

紀子さま、美智子さまと実母から同じ育児書をプレゼントされていた

 振り返ってみると美智子さまの育児には、富美子さんの影響が垣間見える。そんな美智子さまの“育児記録”を最初に受け継がれたのは'91年に眞子さま、'94年に佳子さま、'06年に悠仁さまの3人を出産された紀子さまだった。

「眞子さまがお生まれになって以来、美智子さまが実践されていた“育児記録”を毎日つけられていました。睡眠時間や授乳量、排便などの回数をご本人がおつけになっていたそうです。眞子さまが生後4か月のころから、紀子さまはご自身で作られた離乳食を食べさせていました。果汁やスープ、野菜の入った“つぶし粥”などで、お仕事で用意できない場合でも、メニューや量を職員に指示されていたそうです」(秋篠宮家関係者)

 育児日誌以外にも、美智子さまからはこんな“プレゼント”も。

「眞子さまを妊娠されていたころ、母親の和代さんから羽仁もと子さんの著書『おさなごを発見せよ』を贈られたのですが、実はこの本、偶然にも美智子さまも紀子さまにプレゼントされていたのです。

 これには、泣き声を聞き分けて母乳を与える心得から“しつけのいろは”に至るまで、子どもの育て方が説かれています」(同・秋篠宮家関係者)

 美智子さまからサポートされながらも、頼りになるのはやはり、実の母親だった。

「初めての妊娠で不安を抱えていらっしゃった紀子さまは、お母さまにたびたび、お電話されていたそうです。

 それまでは、料理の味つけなどをお聞きになっていたのですが、つわりや妊娠中に注意すべきことなどを教わっていました」(紀子さまの知人)

オーストリアのウィーンでの紀子さま。母・和代さん、弟・舟さんと(1977~’78年ごろ)

 実家である川嶋家は、お父さまの辰彦さんが当時留学や、研究活動を行っていたため、幼少時代は海外生活だった。

「ご両親としては、幼いころにアメリカで過ごされた紀子さまに“肌の色の違いや国籍を超える人間になってほしい”という願いから、さまざまな国籍の子どもたちが集まる公立小学校に通わせました。

 その後、紀子さまは大学3年生のときに『東南アジア青年の船』に参加し、日本と東南アジアの親善に貢献するなど、幼少時の体験によって国際性豊かな方になられたのだと思います」(川嶋家の知人)

川嶋家から悠仁さまに受け継がれた“モノを大切に”

 独身時代に養われた国際的な感覚が、眞子さまや佳子さまの長期にわたる海外留学、昨年、悠仁さまとブータンを訪れるなど、お子さま方の海外訪問を後押しされているのかもしれない。

 川嶋家の教育方針はいくつかあるのだが“モノを大切にする”という心得は、秋篠宮家での教育に通ずる部分も。

「川嶋家には、偏見や先入観を親が押しつけないように心がけ、子どもが自ら価値観を作り上げるのに参考になるような体験をさせるという、独特の教育方針がありました。

 服装に関しても、お母さまのお下がりや、習い事の先生からいただいた洋服も喜んでお召しになっていましたね。

 悠仁さまも、2歳の誕生日に美智子さまから贈られた木製の汽車を、大切に使いながら遊ばれていたそうです。

 3歳ごろに乗られていた三輪車に関しては、眞子さまと佳子さまのお下がりなんですよ。モノを捨てずに大切にするのは公費で購入している皇室の伝統ですが、川嶋家の方針に重なる部分があると思います」(前出・秋篠宮家関係者)

お姉さまからお下がりの三輪車で遊ぶ悠仁さま(2009年秋ごろ)

 3歳の悠仁さまが三輪車を楽しまれていた一方で、愛子さまの3歳ごろは“音楽”をたしなまれていたという。

そして愛子さまの教育には小和田家の影響が

「まだ2~3歳だった愛子さまは、音楽に合わせて運動する“リトミック体操”が大好きで、陛下(当時皇太子)が弾かれるピアノに合わせて楽しく踊られていました。

 音楽と体操で自然とコミュニケーションをとることがお上手で、ご両親はその部分を伸ばしたいということから、東宮御所や東京・青山の『こどもの城』で、ご友人のお子さまたちとともに、本格的なリトミック体操を行われていたそうです」(宮内庁関係者)

 雅子さまは、愛子さまのお食事にも、そうとう気を遣われていたそう。

「生後7か月のころは、おかゆのほかに、カボチャやイモの裏ごしなど“ヘルシー離乳食”を召し上がっていたそうなのですが、これは雅子さまがあるとき、御所近くにある中華料理店で召し上がったメニューからヒントを得て作られたものだそうです」(侍従職関係者)

 '03年には、一般の親子と同じように“公園デビュー”も。

「愛子さまがベビーカーに乗られていたころ、両陛下(当時皇太子ご夫妻)は、東京・神宮外苑やお住まいの近くにある『みなみもと町公園』にご一家で足を運ばれたのです。

 そのときに居合わせた親子とコミュニケーションをとられながら、愛子さまは同世代の子どもたちと砂遊びをされていました」(皇室担当記者)

愛子さま、赤坂御用地近くで“公園デビュー”。同世代の子どもたちとご交流を(2003年5月)

 お父さまの小和田恆さんが外交官だったことで、幼少期には海外で暮らされていた雅子さま。小和田家には毎晩行う“ルーティン”があった。

「アメリカのニューヨークにお住まいで、当時まだ5歳だった雅子さまは、妹の礼子さんと、節子さんと、毎晩“朗読の時間”があったそうです。

 お母さまの優美子さんが童話の本を読んでくれるのですが、雅子さまがお好きだったのは『フランダースの犬』で、クライマックスには必ず涙を流されていたと聞きました」(前出・宮内庁関係者)

国際感覚とは、日本文化の理解あってこそ

 雅子さまも“絵本の大切さ”をお感じになっていたと、宮内庁関係者が続ける。

「雅子さまは、愛子さまに対して“ありがとう”という気持ちを自然に持つことができるようにと心がけて育てられたそうです。

 あるときには“小さいときに絵本から世界観を得るのはとてもいいことです。子どもはすぐに大きくなってしまいますが、小さいうちに親が本を読んであげることで、大事なことが伝えられるはずです。絵本の力は大きいですね”と、おっしゃっておられました。ご自身の幼いころの体験が、愛子さまへの子育てに生かされているのでしょうね」

 海外経験豊富で、国際的な雅子さまだが、小和田家では“日本文化や伝統の理解”にも重きを置いていたそう。

「ニューヨークから小和田一家が帰国された際、優美子さんは友人から、雅子さまをインターナショナルスクールに入学させるのかを尋ねられると“いいえ、まず日本人でなくてはなりません。日本の文化や歴史を理解したうえで国際的なことが身につくならいいけれど、根なし草のような中途半端な日本人では困ります”とおっしゃって、日本の学校に入学させたそうですよ」(小和田家の知人)

雅子さま(中央)、母・優美子さんと2人の妹との記念写真(1971年12月)

 愛子さまも英語が堪能なのは知られているが、学習院大学文学部日本語日本文学科に進学され、日本の伝統的な文学や文化を学ばれる予定だ。

 小和田家の教育方針は、優美子さんから雅子さま、そして愛子さまに連綿と引き継がれている─。