(左から)松任谷由実、桑田佳祐、布袋寅泰

 緊急事態宣言が解除されても営業再開に苦戦している全国のライブハウス。今や超大物となったミュージシャンたちにも、若き日に立ったステージがある。そんな“聖地”を半世紀にわたって提供してきた人物が明かす、ブレイク前夜の貴重秘話──。

 新型コロナウイルスの影響で苦境が続くライブハウス。そんな中、日本ロック界のパイオニアたちを輩出してきたライブハウス『ロフト』の創業オーナーで、“ライブハウスを創った男”と言われる平野悠さんが1冊の本を緊急出版した。波乱に満ちた黎明期を綴った『定本 ライブハウス「ロフト」青春記』(ロフト・ブックス)。そこには、いまや大スターとなったアーティストたちの若き日の姿も赤裸々に描かれている。

サザンの無名時代エピソード

'71年に、世田谷区の千歳烏山に初めて開いたのはライブハウスではなく、ジャズをかけるスナックでした。'73年に杉並区の西荻窪で始めた『ロフト』が最初のライブハウス。当時は“ライブスポット”と呼ばれていましたけどね」(平野さん、以下同)

 客が持ち込んだレコードでロックの面白さを知り、それを生で聴く場所が欲しくなって、自らこしらえることに。

70年代の新宿ロフト

'75年に下北沢で、'76年には新宿にも『ロフト』をオープンさせました。そのころ、やっとロックが市民権を得て、レコード会社がライブハウスに群がるようになりました

 今では考えられないくらいの豪華なミュージシャンたちが、そこには集っていた。

サザンオールスターズは『ロフト』がなかったら存在しなかったと思います。ギター担当の大森隆志が、下北沢『ロフト』の店員で、そこでメンバーを集めていた。当時は練習スタジオが少なくて、彼らは営業が終わった夜中の店で練習していました。

 ウチで店員の仕事をしながら、ほかの人のライブが見放題。何が今、自分たちに必要なのかを勉強できたはず。桑田佳祐もビールジョッキを客席に運びながら、ほかの人のステージを、目を皿のようにして見ていました。でも、桑田には給料を払ったことはなかったのに、よくやってくれてるなぁと思っていました(笑)

 平野さんの印象では、当時のサザンは客が入らないワースト10のバンドのひとつ。

サザンは本当に客が入らなかった。少しの客も途中で帰っちゃう。客席がガラガラだと盛り上がらないからね。それでも彼らをステージに出し続けたのは、ウチの店員だったから。気持ちよく働いてもらうために、月1回の出演を保証したんですよ

 そんなサザンが、思いもかけないデビューを飾ることに。

「キャンディーズのマネージャーだったアミューズの大里洋吉が、ある日ウチにやって来て、“ベストテンにサザンを出すから場所を貸して”と言う。それを承諾したら、その場で“新宿のロフトが取れたからサザン入れといて”なんて電話してるの。天下の『ザ・ベストテン』に無名の新人だったサザンを電話1本で入れちゃうってのは、スゴイことだと思いました」

 大人気の歌番組に『ロフト』から中継で出演したサザン。桑田は「僕らは、ただの目立ちたがり屋の芸人でーす!」と言い放った。

いつもヨレヨレの汚い服で、オーラもなかった桑田が、すごいパフォーマンスを見せたからビックリしましたよ。テレビで暴れまくる桑田の姿が信じられなかったですね

 そんな大スターの才能を見抜けなかった自分を大いに悔いたという。

ユーミンは、'74年に『荒井由実とパパレモン』として荻窪のロフトに出たことがあります。松任谷正隆と細野晴臣のバンド『ティン・パン・アレー』のコーラスグループの1人としても参加していました。ほかには吉田美奈子、大貫妙子、矢野顕子という豪華なメンバー。でもステージに入り切らないから、コーラスの4人はお酒を作るカウンターの中で歌ったんですよ

 とにかく手を焼いたのはデビュー前から面倒を見ていた氷室京介布袋寅泰らの『BOOWY』だった。

元暴走族というだけあって、メンバーの目はギラギラして飢えた、カミソリみたいな印象でしたね

氷室と布袋を怒鳴りつけた!

 氷室と布袋は仲がよくなかったが、それがいい意味で緊張関係を生んでいたとも。

布袋はほかのミュージシャンとも酒を飲んでワイワイしていましたが、氷室は酒を飲まないから、ライブが終ったら帰っちゃう。自然と氷室が仲間はずれになって

 大事な大手レコード会社へのプレゼンにもメンバー全員が1時間以上遅刻することもあったが、平野さんは根気よく彼らをサポートし、レコーディングにもかかわった。ところが、彼らから聞こえてくるのは、ブレイク前なのに“解散”の話ばかり。

私は氷室と布袋に怒りましたよ。“お前らが育つために、どれだけの人が苦労したか、わかるか!”って。それなのに2人が不仲だから“解散だ”なんて許さない、と。まあ、女の問題とか、いろいろ複雑でしたが。それで私は“もういい加減にしろ!”って怒鳴って、海外へ飛び出した

 '84年に平野さんは世界放浪の旅に出る。BOOWYはその後も解散せず、大ブレイクを果たす。結局、'88年に東京ドーム公演をもって解散した。

氷室と布袋は一緒にやるのは嫌だったけど、すぐに解散はしないで、タイミングを見ていたみたいだね

 ロフト人生を通して、平野さんにとって最も付き合いが古い1人が坂本龍一だ。

烏山の店には、東京芸大の大学院生だった坂本が来ていました。当時から女にモテたよね。ヒッピーが全盛のころだから、格好はビシッとしていなかったけど、雰囲気はあった。近くに通う女子大生のレポートを書いてあげてましたね。酒も1杯おごってもらったりして(笑)

 坂本龍一には当時からオーラがあったようだ。

今まで会った人でいちばんインパクトがあったのも坂本。初めて見たときから天才だと思ったし、客が誰もいないのに、よくピアノを弾いていた

 ほかにも思い出は尽きない。

豪華すぎる!輩出された大物有名人たち

RCサクセションも客が入らなかった。“僕はRCが大好きだけど、客が5人じゃ商売にならないからステージに出せない”って、忌野清志郎に謝った。でも『屋根裏』という別のライブハウスに出たら、半年後に人気が爆発(笑)。

 スピッツは客が入っていたけど、俺が出したくなかった。バンド名が気に入らなくて、ロックなんだから、せめて“ブルドック”にしろよって思っていた。『ロフト』からCDも出して、倉庫に何十枚もあったけど、いらないから捨てちゃった。彼らがブレイクしてCDに10万円以上のプレミアがついたって聞いたけどね (笑)

 芸能界の大御所・タモリが“デビュー”したのもロフトだった。

ピアニストの山下洋輔さんの声がけで、福岡に面白いやつがいるから、会場費は払えないけど場所だけ貸してくれって言われて。赤塚不二夫さんたちも集まって、みんなでネタ見て大笑い。その後も何回かステージをやって、芸能界でブレイクしたね

 ライブハウス受難の今、波瀾万丈な『ロフト』を半世紀、運営してきた平野さんはいう。

コロナで俺はロフトのオーナーは辞めました。後はバトンタッチした若い人たち次第。原発騒ぎでも変わらなかったこの国がどう変わるかも、楽しみではありますね

『定本 ライブハウス「ロフト」青春記』(著=平野悠)山下達郎、中島みゆきなどのエピソードも満載※記事の中の写真をクリックするとアマゾンの紹介ページにジャンプします