“自分が傷ついても、傷ついている人がいるとほっとけない”それが、医療ソーシャルワーカー歴30年の大沢かおりさん(53)だ。この30年、DV被害にあっていた女性を助けたり、がん患者はもちろん、その家族も親身になってサポートしてきた。だが、実は自身もDV被害にあっていたことがあり乳がんサバイバーで、夫を亡くした経験をもつ。過酷な体験があっても、多くの人を助け続ける彼女の熱意の秘密は―。

自身のつらい体験も隠さずに話してくれた大沢さん。どうやったら人の役に立てるかを常に考えて未来を見つめている 撮影/伊藤和幸

「がんと診断されることは、とてもつらい経験ですよね。特に、子育て中のお母さんやお父さんにがんが見つかったとき、これからの治療はどうなるのか、仕事や子育てはできるのか、さらには経済的なこと、子どもにどう伝えるかなど、たくさんの心配が生じます。そうした相談に乗ってサポートすることが私の仕事。簡単に言うと、“なんでも相談屋さん”です」

 白衣に身を包み、そう言ってにっこり笑う大沢かおりさん(53)は、小柄だがエネルギーに満ちあふれている。

35歳で乳がんと診断された過去

 東京共済病院で医療ソーシャルワーカーとして働いて今年で30年目。2007年からは、がん相談支援センターが病院内に設置され、その運営を任されるようになった。

「女性が罹患するがんのうち、乳がんがいちばん多く、30代から罹患率が上昇して40代後半から50代前半がピークとなります。この病院では、がん患者さんの多くが乳がんで、子育て中の方も多く、ご家族のサポートも大切です」

 病院の10階にある小さな相談室が大沢さんの仕事場だ。この部屋で診察後の患者や家族の相談を受ける。メールや電話での相談も受けている。

「本当に小さな部屋でしょう。でも窓から空も見えるし、気に入っているんです」

 同僚の医師、乳腺科部長の重川崇さん(45)からも大沢さんはとても評価が高い。

「私はこれまで3つの病院を経験していますが、乳がんにこんなに詳しい医療ソーシャルワーカーは初めてです。大沢さんはこの病院の乳腺チームのまとめ役。頭の回転が早く、情報のアップデートも早い。英語が堪能でアメリカから最新情報を取り入れてチームに共有してくれます。有能な方ですね」

 大沢さん自身も35歳で乳がんと診断された。乳房を温存しての摘出手術、術後の放射線治療とホルモン療法をこの病院で受けた。その経験も大きい。

乳がんの治療をする患者さんには、診察後に大沢さんとの面談をしていただきます。みなさん、大沢さんとお話しすると安心感を得られるようですね。中には、大沢さんに相談したいからこの病院を受診したという方もいらっしゃいます。とても親切で、誰に対してもその対応は本当に手厚い。看護師が大沢さんに相談することも多いですし、私も頼りにしています」

 情熱を持って仕事に取り組み、患者本人やがん患者の家族、そして職場の同僚たちからも頼られる存在─。

 そんな彼女の半生は、想像を絶するいくつもの困難とともにあった。

暗黒の高校時代に見つけた夢

 大沢さんは、3人きょうだいの2番目として鎌倉で生まれた。2歳年上のまじめな姉、2歳下の静かな弟に挟まれて自由奔放。隣に住んでいた年齢の近い3人のいとこや近所の幼い子どもたちと毎日のように自然の中で遊んだ。家の近くの材木座海岸で貝殻を拾ったり、空き地で穴を掘ったりしながらのびのびと育った。そのころから面倒見がよく、小さな子と遊ぶのが好きだった。

 小学校4年生のとき、父の転勤でニューヨークへ引っ越しが決まる。父はテレビ朝日の特派員で仕事人間。中学校卒業まで、思春期の多感な5年間をアメリカで過ごした。

個性を大事にする自立心はニューヨークで育まれた(右)

「突然、現地の学校に入ったのでしばらく大変でしたが、半年くらいで英語もわかるようになり、翌年には日本人学校に移りました。油画を習って絵が大好きになり、ひとりで地下鉄に乗ってメトロポリタン美術館に絵画を見に行ったり、毎年夏休みにはサマーキャンプに行って湖で泳いだり乗馬をしたり、陶芸したり。楽しかったですね」 

 それまで生き生きと過ごしていたが、帰国後、高校に入学して様子が一変した。同調圧力に包まれた日本の学校生活になじめなかった。

「暗黒の時代です。一貫校でしたから、高校から入った私は“外部”と呼ばれ浮いてしまう。休日に私服で会ってもみんな同じような服装だし、話すことは悪口ばかり。授業中、英語の先生に発音の違いを指摘したら、授業を聞かなくていいから発言するなと注意されました。そういうことが積み重なって、本当に嫌になっちゃって」

 不適応の状態が続いた高校時代。部活にも入らず、月1回は学校を休んだ。

「父は相変わらず仕事ばかりでしたが、母は私を理解してくれ、ズル休みにも協力してくれました」

 高校3年生の夏、身体に異変が起きた。紫斑病性腎炎が悪化してネフローゼ症候群になり即、入院。当時、ネフローゼは絶対安静だ。8月から12月まで約4か月間を病院で過ごすことに。

「もちろん身体は大変でしたが、これで正々堂々と学校を休めると思って少しホッとしました(笑)。きっと入院しなくても不登校になっていたんじゃないかと思います」

 その病院での経験が、大沢さんの未来を決めた。入院した病室は6人部屋で、生活保護を受けている人、身寄りのない人もいた。

「いままでぬくぬくと育っていたと思いました。日本人学校は大企業に勤める家庭の子ばかり。世の中のことを何も知らなかった。そう思ったら恵まれた層に対する反発心も湧いてきて、困っている人をサポートする仕事をしたいと看護師さんに相談するようになったんです」

 ネフローゼで入院中の大沢さんは、仲よくしてくれた若い看護師のひと言で将来の仕事を決めた。

「看護師は体力勝負だから、看護師よりソーシャルワーカーがいいんじゃない?」

 ソーシャルワーカー(社会福祉士)は、障害や病気などで日常生活に困難のある人の相談を受け、困難の軽減や解決を支援する仕事だ。

「じゃあ、社会福祉士になろう! って。単純なんです、私」

 そんな大沢さん自身の退院が近くなったある日、同室でとても仲よくなった30代の女性が心不全で突然亡くなった。身近な人の初めての死だった。

「死」とはどういうことなのか。大沢さんの中で大きな問いがひとつ生まれた。

患者のDVも他人事ではなく……

 入院期間が長かったため、高校は出席日数が足りず、留年が決まった。

「あんな学校にもう1年、行く意味はない」と思った大沢さんは退学を決意。大検を取得し、翌年、上智大学の社会福祉学科へ進学した。

「大学は帰国子女も多く、高校と違って楽しかった。社会福祉を学びたい人たちって、みんな優しいし(笑)。授業とサークルでのボランティア活動漬けの毎日でした」

 毎週土曜日は都内の特殊学級(現・特別支援学級)で食事介助をし、午後は身体を動かして公園で一緒に遊んだ。児童養護施設にも学習ボランティアとして通い、勉強をサポート。

 子どもたちに関わることで、大沢さんも力をもらえた。

大学の卒業式のときにサークルの仲間や後輩と。「バブル期だったけど、私たちはとても地味で、ボランティアに熱中してました」

 一方、病院で初めて体験した死別から、「死」について考え続けていた。精神科医エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という分厚い本を読み込んだ。そこには、患者自身や家族が病気や死を受容していく過程が克明に記されていた。大学ではアルフォンス・デーケン教授の「死の哲学」を聴講し、キリスト教の洗礼も受けた。

 しかし、卒業後は収入面を考え、いったん英語力を生かせる外資系の出版社に就職。実際の仕事はただ英語でやりとりをするだけの単調な仕事だったため、医療現場への思いはますます強まった。

 そんなとき、実習でお世話になった東京共済病院の医療ソーシャルワーカーから「病院を移るから、私の後任としてこない?」と声がかかる。水を得た魚のように「行きます!」と即答。夏には出版社を辞めた。

 当時、医療ソーシャルワーカーは東京共済病院に1人。新人であっても病院のあらゆる患者を1人で担当するという激務だ。それでも大沢さんは仕事の喜びを感じていた。

「さまざまな人の生活や人生にかかわり、学ばせていただきました。救急搬送されてきたホームレスの方の生活保護申請を手伝ったり、2階から落ちて骨折した女性が実はDVを受けていてシェルターを案内したり、子どもが家でご飯が食べられずネグレクトの状態になっていたので児童相談所につないだりしたこともありました」

 20代、まだ人生経験も浅い。経験がないなりに、病気や人生の奥深さを学ぶことがやりがいにつながった。困ったときは前任者に相談し、院外の事例検討や勉強会にも積極的に参加した。

 仕事では、特にDVや虐待のケースがとても気になったという。

 実は大沢さん自身も、学生時代から同居していたパートナーから暴言を受けていた。彼は司法試験を目指して勉強していたが、失敗するたびにエスカレートした。

「患者さんのケースは冷静に見られるのに、自分のことはわからなかった。結婚すればおさまるかもしれないと思い26歳で結婚したけど、さらにエスカレートしていきました。引き出しをひっくり返しモノを投げるようになり、蹴られるようになりました。でも謝って、優しくしてくれるハネムーン期もある。典型的なDVでした」

 東京大学卒業後も司法浪人をしていた夫は、大沢さんが家計を支えていたことでプライドを保てない苛立ちもあったのだろうか。結婚して3年、29歳のとき、大沢さんは夫の暴力で尾てい骨を骨折。

 その後まもなく、夫に「別の女性に子どもができた」と告白された。そこまできてようやく離婚することを決断できたという。

「自分自身もそうだったから、DVや虐待を受けて身動きが取れなくなる人のことがよくわかります。相手にどんどんエネルギーを吸い取られてしまう。私自身もカウンセリングを受けていましたが、自分では行動を起こせなくなっていく。今となっては、当時は仕事で少しでも誰かの役に立てることで、自分は生きている価値があると確かめていたような気がします

夫のうつ、そして乳がん発覚

 31歳で再婚した。相手は渋谷仁幸(まさゆき)さん。5つ年下の心優しい穏やかな男性だ。しばらくは平穏な日々だった。

結婚式のとき。夫は家族思いで優しく、うつ状態でも就職活動をしてくれていた

 仁幸さんは仕事をしながら弁理士の資格取得を目指していた。結婚から2年たったころ、仁幸さんはうつになった。当時、うつ病に対する社会的な理解はまだ浸透しておらず、仕事に支障が出ると会社を辞め、転職を繰り返すようになる。

 それでも家の中は穏やかだった。2人の仲はよく、出かけるときはいつも一緒だった。

 35歳のとき、大沢さんは胸に違和感を感じた。

「着替えのとき、何気なく胸を触ったら小さなしこりがありました。32歳のときに受けた子宮内膜症の手術後の治療の通院先でエコー検査をしたら、診断は乳腺症でした」

 ホッとして1年放置した。しこりは大きくなっていた。そこで再度、マンモグラフィーと針生検(細胞診)。診断は悪性のクラスIIIBとの見立て。3か月後に来るように言われた。

「その場で診断書をもらって翌日すぐに勤務先の病院でも検査を受けました。職場での受診はためらいましたが、そうも言っていられないし」

 すぐに針生検で6か所の組織診を行った。医療ソーシャルワーカーとはいえ、当時はまだがんを熟知していたわけではない。結果が出るまでの1週間はいたたまれなかった。ビクビクしながら同僚の看護師に尋ねた。

「針生検しようと医者が思った患者の中で実際にがんだったのは何パーセントくらい?」

 冷静になれば、その問いに答えられないこともわかっていたが、聞かずにはいられなかった。もちろん、看護師は答えてくれない。

「結果を待つ間のあの感覚は、医療職でも一般の患者さんと変わらないと思います」

 がんだと判明し、手術をすることを仁幸さんに報告したのは、その日の夜のことだ。

 仕事の合間に結果を聞き、そのまま仕事を続けて夕方、帰宅。食事を作る気分にはなれず、2人で近所の定食屋に行った。「うつで大変なときに伝えるのはかわいそうだな」と思いながら、大沢さんはできるだけ落ち着いてこう切り出した。

「あ、そうだ。結果出たよ。乳がんだった」

 仁幸さんは間髪入れずにこう言った。

「うそ!」

「私も、うそだと思ったけど。うそじゃないんだよ」

 仁幸さんはショックを受け、言葉を失っていた。

 その数日後、大沢さんは仁幸さんがネットに書いていたブログを見つけた。そこにはこんな文章があった。

「僕は死にたくてたまらないのに生きていて、妻は死にたくないのに死ぬかもしれない病気になってしまった」

乳がんの治療を乗り越えて

 大沢さんは、やるべきことを片づけるかのように淡々と乳がんの治療を進めた。

 手術では全摘ではなく乳房温存手術。周囲も含めて7cmほどをくり抜き、周囲の脂肪を寄せて形を整える。実際のステージはIIAで、腫瘍は大きいところで3・5cm。リンパ節転移はない。

 大沢さんから乳がんだと報告を受けたときのことを、姉の由佳理さん(55)はよく覚えている。

「私、乳がんなんだ。でも、医療従事者だから対応方法もわかっているし大丈夫よと、あっけらかんとしていました。入院中もとても冷静だった。でも本当は落ち込んでいたんじゃないかな」

 大沢さんは当時、ネットで検索していろいろな人のブログを読んでは、「この人も死んじゃったのか」と落ち込んだという。

「医療従事者であっても、ネット検索するとどんどん悪いほうに考えてしまいます。著名人のケースは過剰に報道され、専門家といわれる人が会ったこともないのにその人の病気の解説をする。同じ病名でも、症状も経過も過ごす環境も人によって千差万別です。できるだけネット検索をしたり、ワイドショーなどを見続けたりしないように患者さんには伝えています」と大沢さんは語気を強める。

「子どもに親のがんをどう伝え、どう支えるか」をテーマにしたキャンサー・サバイバー・フォーラムのゲストの写真。多くの医療従事者が関心をもって集まった

 手術後は、放射線治療とホルモン療法、そして抗がん剤治療を提案された。家計を支えるためにも仕事はできるだけ休みたくない。生活を変えないことを第一に考え、放射線治療とホルモン療法の2つを選んだ。

「17年前、当時はまだ抗がん剤の副作用を抑える治療が進んでいなかったので、抗がん剤の副作用を避けました。最近は副作用をかなり抑えられるようになりましたね」

 大沢さんは、出勤すると仕事前に放射線治療を受け、通常どおり働いた。エストロゲンの分泌を抑えるホルモン剤の注射が始まると、副作用で更年期障害のような症状に悩まされた。

 職場では、「大沢さん、がんらしいよ」という噂話も聞こえてきた。会議中にも汗が噴き出し、同僚から「ホットフラッシュ?」と声をかけられる。最初は「ストレートだなぁ」と戸惑ったが、開き直ってオープンにした。すると、ずいぶん気楽になった。

 それでも、患者会や患者サロンを探し、同じ悩みを持つ人たちとの交流を求めた。ある患者会に1人の患者として参加したときには、ホルモン療法の副作用のつらさについて、一気に話した。安心して自分の思いをすべて話せたのは初めてだった。医療関係者という立場では同僚に話せないこともあることに改めて気がついた。

 オペも術後の治療も順調だった。放射線5週間。注射のホルモン療法2年間。

 手術から2年たった2005年10月、「これからは飲み薬だけになったよ」とケーキを買って夫と2人でお祝いをした。ホットフラッシュももう終わりだと思うと、気分も軽かった。これからまた、身体が楽になっていくだろう。

 夫との生活もこれからよくなっていくような気がしていた─。

突然、自殺した夫

 数日後、仕事中に夫の仁幸さんからメールが届いた。

「落ちちゃった」

 2つの会社の面接を受けた結果の報告だった。

「今日、ジムに行く予定だったけど行かずに帰ろうか?」

「大丈夫だからジム行ってきなよ」

 仕事中も仁幸さんのことが気になり、帰り支度をしてもう1度、電話をかけた。答えは同じだった。

「大丈夫だから、ジムに行っておいで」

 ジムで汗を流し、家に帰ってドアを開けると、家の中は真っ暗だった。嫌な気持ちになった。「もしかして」と思った。

 仁幸さんの部屋を開けると、そこも真っ暗。目を凝らすと、本棚にベルトをかけて首を吊っていた。

 どうしていいかわからず、思わず仁幸さんの身体に触れた。驚くほど冷たく硬い。頭の中にいろんな思いが浮かんでくる。

「私が電話切った後、すぐにやっちゃったのかな。生きられるかな。この冷たさだと生きられないかな。脳死の状態で生きることは彼にとって悪いことなのかな……」

 鼓動が早くなり息苦しい。何がなんだかわからない。とにかく救急車を呼んだ。電話口の人に、「心臓マッサージできますか」と尋ねられた。やり方を教えてくれ、電話を保留にしたまま何度も心臓マッサージをした。

 そのあたりから記憶は曖昧になっている。

 救急隊員が来て、家の近くの病院に搬送された。警察の人に話を聞かれた。何を聞かれたか覚えていない。

 大沢さんの記憶には、「私がもっと早く帰ってくれば死ななかった。死ななかった。私が寄り道しなきゃよかったんだ」と繰り返しぶつぶつとつぶやく自分の姿があった。

 警察の人がそれに応えるようにかけてくれた言葉はよく覚えている。

「奥さん、今回、間に合ったとしても、こういう人はまたやるんですよ。だからしかたがなかったんです」

 最後に顔を確認するかと尋ねられ、少し遠くから顔を見た。さっきまで肌色だった顔が真紫になっていた。その顔を記憶に残したくなくて、「見ません」と答えた。

 看護師に付き添われ、霊安室についたとき、大沢さんのお姉さんが病院にタクシーで駆けつけた。

「電話で、すぐに病院に来てって呼ばれて、慌てて向かいました。雨の日でした。電車もなくなりそうな時間で、タクシーで病院へ向かったのを覚えています。私を見ると妹は泣き崩れるかもしれないと思ったけれど、妹は泣くこともできないくらい緊張していました」

パートナーを亡くした後の数か月のことは、どうやって暮らしていたかほとんど記憶にないという 撮影/伊藤和幸

 由佳理さんは大沢さんが仁幸さんと結婚してから家が近くなり、行き来も増えていた。姉妹でもよく話すようになっていたという。

「2人とたまに外食したりしていたんです。渋谷くんも結婚当初は元気でしたし、行き来が増えました。渋谷くんがうつになってからは、電車に一緒に乗っていて人身事故のアナウンスを聞くと、妹がとても緊張している様子だったのを覚えています」

 大沢さんは、駆けつけた由佳理さんに会ってしばらくするとガタガタと震えだした。自分でも驚くほどに身体が勝手に震えた。寒さではなく、ショックからくる震えだったが、看護師がブランケットを持ってきてそっとかけてくれたのを覚えている。

涙が止まらない日々

 仁幸さんの死亡届を役所に提出したときだった。

「これはこちらで破棄していいですか」と確認された。

 オレンジ色の年金手帳には、10以上の会社を転職した仁幸さんの記録が残されていた。大沢さんはとっさに、願いのようにこう言った。

「うつなのに、頑張っていくつもの会社に勤めては辞めた彼の記録だから捨てないでほしい」

「そうですね。これは、ご主人が頑張った記録ですものね」

 大沢さんはそのとき、市役所の窓口で、初めて涙を流して号泣した。

 夫を自殺で亡くした後も仕事を続けた。誰かのために働くことが大沢さんをなんとか支えていた。

「仕事はしていましたが、2年ぐらいの間は、ふとしたときに涙が出てきて止まらなくなったり、不意に死にたくなったりしていました。自死遺族の会をネットで探し、夫を亡くした人で話せる人が見つかって時折、電話でやりとりをするようになりました。でも誰もいない家はあまりにも静かで寂しかった」

 そんなとき、遺族会で知り合った仲間がすすめてくれたのがフェレットだった。

「フェレットを飼い、チロと名づけました。手のひらに乗る赤ちゃんから育てました。小さな命の気配がすぐそばでスースーと寝息を立ててくれる。5年で亡くなってしまったけれど、最期を看取る経験をさせてくれた。チロちゃんにはとても感謝しています」

 そのころ、追い討ちをかけるように職場で1人の女性からのハラスメントが始まった。

「ご主人が自殺したことみんな知らないと思っているでしょうけど知ってますからね」「大沢さんに気を遣って、めんどくさい仕事が全部、私に回ってくるんです」

 夫を亡くしたPTSDに加え、やりがいを得ていたはずの職場でのハラスメント。半年ほどたつとソファからも起き上がれなくなり、1か月だけ休職することにした。

「1人でいると何も食べる気にならない。そんなとき、姉が毎週のように食事に誘ってくれた。姉妹だから気を遣う必要もないし、そのことでずいぶん助けられました。それに、死にたくなったとき、私が死んだらチロちゃんの世話をする人がいなくなってしまうという思いが何度も思いとどまらせてくれました」

つらい体験を共感の力へ

 大沢さんは、その後も仕事を続けることで少しずつ本来のエネルギーを取り戻していった。2007年、院内にがん相談支援センターができ、大沢さんはその運営を任されることになった。ハラスメントからも解放された。

「夫を亡くしたことで、家族を亡くしてしまうことの大変さ、大好きな人が死んでしまった後のつらさを、私はいままで本当にはわかっていなかったと気づくことができました。不思議ですが、亡くなった夫の存在をふと身近に感じることもありました。それ以来、病状が悪化していく患者さんとも、なぜか話しやすくなったんです」

身体と心の両面で乳がんの患者を支える乳腺外科部長の重川さんと大沢さん 撮影/伊藤和幸

 患者さんとのやりとりのひとつひとつや自身の感じ方も大きく変わった。がんになって患者会に参加し、患者サロンに参加したことで助けられた経験、配偶者を亡くした遺族の会で感じた経験は、院内の患者サロンや患者会の意欲的な立ち上げにもつながっている。

「信頼できる相談相手を探す」「つらさを我慢しない」

 この2つを何より大事にしてほしいと伝え続けている。

 翌年、現在、大沢さんにとっての大きな活動の軸になっているホープツリー(Hope Tree)という団体も立ち上げた。

 当時、親ががんになった子どもの心のケアは日本ではほとんど行われていなかった。その分野の最先端、アメリカのM.D.アンダーソンがんセンターで実践されていた取り組みを日本に紹介した講演会をきっかけに、「親が病気になっても、子どものたくましい力を育みたい」「病気になって子育てに自信がなくなっている患者さんを支えたい」と考え、実践する仲間が集まった。

 創設から13年、ともにホープツリーを支えてきた四国がんセンターの心理療法士、井上実穂さん(56)は大沢さんについてこう語ってくれた。

「彼女は自由な発想とアイデアを持って、権威や権力にもとらわれず、何にも縛られずに行動できる人です。やりたいことを実現するパッションの強さ、弱っている人に対する使命感は誰にも負けない。おかげで周りはハラハラすることも多いのですが(笑)。ホープツリーはメンバーそれぞれが本業の傍ら自分の強みを生かして支え合い、活動しています」

 井上さんは大沢さんのプライベートな背景は知らずに一緒に活動していたが、数年後に大沢さんの背景を聞いたとき、「彼女はこの活動をするために、これまで大変な体験をしてきたのではないか」と思ったという。

 ホープツリー主催の医療者対象の講演会や講座には、全国から専門職が集まってくる。

誰かのために自分ができることを

 現在では、その講座で学んだ医療関係者が、自らが所属する医療機関などを中心に各地で子ども対象のプログラムを開催している。

 子どもたちのためにはCLIMBプログラムとバタフライプログラムがある。CLIMBは、子どもたちが「がん」についてともに学び、親ががんになったことで抱えている感情を安心してシェアできる場を、数回にわたって提供する。バタフライでは、死が近いがん患者とその子どもの思い出づくりや伝え方、グリーフケアなどをともに考える。

大沢かおりさん 撮影/伊藤和幸

 母を乳がんで亡くして2年になる深澤美沙紀さん(22)にとっても、大沢さんやCLIMBプログラムは欠かせないものだった。

「12年近くにわたり、母も私も大沢さんにたくさん相談に乗っていただきました。母は最初、がんであることを私たちに隠していましたが、抗がん剤治療を始めるとき、当時、小学校5年生だった私と5歳だった妹に話してくれました。母ががんだということは友達にも話せませんでした。大沢さんは安心して話せる唯一の相手でした

 母のみゆきさんは、亡くなる直前までホープツリーの活動を手伝っていたという。

「母は大沢さんのことが大好きで、少しでも力になりたいって思っていたんじゃないかな。私がCLIMBプログラムに初めて参加したときも、“大沢さんに会えるよ”と母に誘われたから。“大沢さんに会えるなら行く!”と即答したのを覚えています」

 深澤さんは今年4月から保育士となり、福祉の現場に立つことになった。

「母ががんで治療中も、安心して自分の感情に向き合い、こうして夢を実現できたのは、大沢さんとの出会いやCLIMBプログラムの体験が大きい。これからは、大沢さんのように子どもたちのことを考え、寄り添い続け、力になれる保育士になりたい」

 大沢さんに支えられてきた多くの子どもたちが大沢さんの思いを受け継いで、新しい未来をつくりはじめている。たくさんのがん患者やその子どもたちをサポートしてきた大沢さんの周りには、力になりたいという人がいまも自然に集まってくる。

「大沢さんは、傷ついた人を見ると放っておけない。例え自分が傷ついても。彼女のその使命感は人を惹きつける求心力になっています。ホープツリーの広がりがそのことを証明している。同志として行けるところまで行こう! とエールを送りたいですね」(井上さん)

 誰かのために自分ができることを。このコロナの時代にこそ大切にしたいメッセージを、大沢さんの活動は私たちに訴えかけているのではないだろうか。


取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき) 大阪府生まれ。ライター・編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に、雑誌、書籍、テレビ番組などに関わる。初の著書『新しい時代の共生のカタチ─地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)好評発売中。