病身の父を責め、追い詰めて「死なせてしまった」原体験。罪悪感にかられ、泣くに泣けなかった少女時代を経て、たどり着いたのはホームレス襲撃問題だった。被害者に寄り添い、加害者を見捨てず、傍観者に働きかけることもあきらめない。この社会が、あるがままを受け入れ認め合える「ホーム」となるように―。

自己尊重トレーナー・ノンフィクションライター北村年子さん 撮影/近藤陽介

ホームレスの人々への偏見をなくす活動

「おはようございます! 北村年子です。すごくお久しぶりです!」

 7月14日午前8時、FMヨコハマのスタジオ。ノンフィクションライターの北村年子さんが、張りのある声でマイクに向かって語りかけた。放送中の番組は毎週月曜〜木曜の『ちょうどいいラジオ』の人気コーナー、「おはよう!ネンコさん」。

 新型コロナウイルスの感染拡大でこのコーナーは4月半ば以降、リモート放送になっていたが、およそ3か月ぶりのスタジオ入りとなった。

 この日のテーマは「自律心を育てよう」。

「自律心とは、自分で決めたことやルールに基づいて行動することなんです。ここ数年、教育現場でも子どもの自律心をどう育てるのかが課題になっています」

 そう語る北村さんは普段、自己尊重トレーナーとして各地で講座やワークショップを開催し、子育て支援活動にも取り組んでいる、女性にとっての“先輩ママ”のような存在だ。彼女の語り口には、悩んでいる人々をそっと包み込むような包容力がある。

 そんな北村さんが提唱する自己尊重とは「この世に唯一無二の、かけがえのない自分を慈しみ、大切に思う気持ち」を現す。それは自分を褒め高く評価することではなく、失敗や欠点を含めた不完全な自分をあるがままに受け入れ、「今この自分が価値ある存在」と思えることでもある。

 特に子育てに悩む母親たちに、そんな啓発活動を続ける北村さんであるが、実はもうひとつの顔もあわせ持っている。それは路上で生活するホームレスの人々への偏見をなくす活動だ。

 といっても北村さんは花柄のワンピースが似合う華やかさがあり、世間一般でいう「ホームレス」という言葉が持つイメージからは、ややかけ離れた雰囲気の女性だ。

 厚生労働省によると、日本には2019年1月現在、東京、大阪、神奈川などを中心に約4500人のホームレスが確認されている。高齢化のために年々減少傾向にあるが、彼らに対する偏見はいまだに根強い。それを象徴するのが若者たちの投石などによるホームレス襲撃問題である。

 始まりは1983年だった。横浜市の山下公園でホームレスの男性が、少年10人に殴る蹴るの暴行を加えられ、死亡した。以来、全国各地で70件以上発生している。加害者の大半が10代の若者たちだ。

 襲撃を食い止め、ホームレスへの偏見、差別をなくす教育を実現するため、北村さんは各地の支援者仲間に呼びかけ、'08年に「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」(以下、HCネット)を立ち上げ、代表理事となった。

 活動の軸は、全国の小中高、大学、専門学校などで教材DVD『「ホームレス」と出会う子どもたち』(HCネット制作)を使った授業を実施し、ホームレスの実態や社会的背景を理解してもらうことだ。

 少年らによる襲撃事件があると現場へ駆けつけ、その地域の教育委員会や学校に授業の取り組みを要望してきた。初めは門前払いだった教育現場も、今では研修や講演を依頼してくるようになった。

「全国各地で授業をしてきたかいもあってか、'12年以降、路上生活者が亡くなる襲撃事件は起きていません。教材DVDも約4000枚売れ、多くの学校現場に行き渡りました。だから今後は、自己尊重トレーニングや自尊感情を育てる教育活動に重点を置いていくつもりだったんです」

“人殺し”に関わりたくない
でも、手は勝手に新幹線を予約

 ところが、今年に入ってまた起きてしまった。

 現場は、岐阜市西部の河渡橋。3月25日未明、ホームレスの渡邉哲哉さん(当時81)が、少年グループに投石などの暴行を受けた末に殺された。

 逮捕されたのは、大学生を含む19歳の少年5人。うち傷害致死罪で起訴されるなどした3人は、約1キロにわたって渡邉さんを執拗に追いかけ、後頭部に強い打撃を加えて死亡させたという。

 5人はいずれも岐阜県内に住む友人同士で、中学や高校などで野球を通して知り合った。うち2人は、現場から約4キロ離れた朝日大学の硬式野球部員だった。

 襲撃によってホームレスが死亡した事件は、JR大阪駅周辺で'12年、ホームレスの男性(当時67)が少年4人に襲われた事件から8年ぶり。

 北村さんはHCネットの活動を続けながら、'09年に『「ホームレス」襲撃事件と子どもたち いじめの連鎖を断つために』(太郎次郎社エディタス)という本を上梓。襲撃事件における加害者側の心理に迫る取材を続けてきた。

 だから岐阜の事件を知ってとっさに「行かねば」と思ったが、実際に現場に向かうかどうかで逡巡した。その理由は、事件の加害者や関係者に介入し、彼らの人生を背負っていく覚悟の重さがこれまでの取材で身に沁みていたからだ。

「その重さにはもう耐えきれないし、人の生き死にだけでなく“人殺し”に関わるようなしんどいことは2度とできないと思っていました。つらい闇の現実は、もう十分見てきた。できれば、これからは光を見ながら生きていたかったんです。でも手は勝手に新幹線を予約し、岐阜の支援者と連絡を取っていた」

 頭では躊躇していたはずが、気がつくと身体は現場へ向かっていた。

 そこは岐阜駅から西へ自転車で30分ほど走った、河渡橋の下を流れる長良川の河川敷。北村さんが取材で訪れた日の2か月後の7月4日、現場にあったブルーシートのテントはすでに撤去され、そこには日に焼けたひとりの高齢女性が、毛布に座って猫に餌をあげていた。水色のブラウスを着た小ぎれいな格好で、さらさらの長い白髪を後ろで束ねていた。

 周囲は紫陽花など色とりどりの花々で彩られている。その中央には、高さ30センチほどの細長い石が立てかけられ、黒いマジックで「渡邉哲哉」と書き込まれていた。

亡くなった渡邉さんの名前が書かれた石のまわりは花々で埋まっていた。慰霊に訪れる人があとを絶たないという

「毎日ここで守りをしています。前はいろいろな人が献花に訪れ、北村さんも取材に来てくれました。“おじいちゃんかわいそう”って涙を流す人、“許さん! 即、死刑だ!”と、犯人に怒りをぶつけていた人もいました」

 そう語るこの女性、Aさん(68)は、声が大きく、とにかく元気だ。渡邉さんと20年間、ここで路上生活を続けてきた。

 Aさんと渡邉さんは夫婦ではないが、ときに支え合い、苦楽をともにしてきた仲だ。野良猫を支援するボランティアを通じて知り合った当時は、岐阜市内のアパートに別々に住んでいた。ところが、わけあって20年前の七夕の日、この河川敷に移り住んだ。

襲撃と隣り合わせの生き証人

 2人は支援団体やほかの路上生活者とのつながりはほとんどなく、自転車で空き缶を拾い集め、回収業者に売って糊口を凌いできた。相場は1キロ約60円。このほか、コンビニや薬局などで拾った廃棄食品でも食いつないできた。

 家電などの家財道具は、近くのアパートに廃棄されたゴミの中から拾い集めて使っていた。若者たちによる襲撃は、ずいぶん前から頻繁にあったと、Aさんが振り返る。

「小中学生が学校帰りに石を投げてきました。そのたびに110番しようと店や会社に電話を借りに行っても断られるんです。このへんの人は助けてくれませんでした」

岐阜市で起きたホームレス襲撃事件について語る生き証人・Aさん。被害は被害は長らく繰り返されてきた

 10年前には放火の被害にも遭い、木でこしらえたAさんの小屋が燃やされた。直前に石を投げられ、公衆電話から通報するため、2人とも留守にしていたときだった。

 常に襲撃の危険と隣り合わせで生きてきたAさん。今回も、その予兆はすでに見られた。3月半ばからたびたび、投石を受け、警察には4回通報していた。

 しかし─。

 3月25日午前1時半。

「来たぞ! 行け!」と叫ぶ渡邉さんの声で、テントを飛び出したAさんは、自転車で河川敷を北へ北へと逃げた。 

 周辺には男3人の影。背負っているリュックに投石を受けた。途中、自転車が動かなくなり、草むらに倒して走る。後ろから渡邉さんがついて来るのがわかったが、そのまま先を急いだ。堤防を越え、現場から約1キロ離れた住宅地の路上で「しっこたれとるぞ!」という男の声が耳に入った。振り返ると、渡邉さんが路上に倒れ、男2人が田んぼを突っ切って逃げていく姿が見えた。Aさんは近くの公衆電話から通報した。

「警察と一緒に現場に戻ってきたところ、渡邉さんの頭のまわりは血で染まっていました。私が“来たよ!”と声をかけたら、かすかに返事をしたような気がしました」

 渡邉さんは6時間後、搬送先の病院で息を引き取った。

「雨の日も風の日もアルミ缶を集め、そのお金で猫に餌をやるような人でした。本が好きで、よく図書館にも行っていましたね。最後には私を助けてくれた。犯人の5人は絶対に許さない。償ってほしい。命の大切さを誰もが感じていれば、こんな事件は起きなかった」

 そう語るAさんの口からは深いため息が漏れた。事件後、初めて生活保護を受給し、現在はアパート暮らし。そこから毎日、河渡橋に足を運んでいるという。

 長年、襲撃現場での取材を続けてきた北村さんは、こう持論を展開する。

「実際に石を投げた3人は確信犯ですが、残り2人はどうして通報しなかったのか。それは傍観者が何もしないことで加担するいじめの構造と同じです。襲撃は加害者の子どもだけではなく、ホームレスを日ごろ差別している社会の共犯性の問題。見て見ぬふりをしている、助けようとしない人たちにも原因はあります。それは無関心の暴力です」

 とりわけ今回の事件で特徴的だったのは、Aさんという“生き証人”の存在だ。それが北村さんの使命感をかき立てた。

「Aさんが生きていた。しかも女性の被害者だった。そのことが大きくて。私が行かなければ誰が現場に行くんだという気持ちになりました。私が関わる以上、Aさんも支援するだろうし、加害者の生い立ちや背景を知れば、おそらくその子にも関わることになる。今までの取材経験上、途中で“はいサヨウナラ”はできないんです」

 現場での取材を終えた北村さんは、代表理事を務めるHCネットなど関連4団体で、ホームレス問題の人権教育の実施などを求める要望書を加害者が通う朝日大学、県教委、市教委に申し入れた。

父に浴びせた「ひと言」の重み

 なぜホームレス襲撃事件の、それも被害者だけでなく、加害者の問題にも向き合い続けるのか。

「実は私自身も加害者の意識があります。自分の間違いで大切な人を追い詰め、死なせてしまったという罪悪感、自責の念に長くさいなまれてきました」

 滋賀県彦根市出身の北村さんは、幼いころに両親が離婚し、物心ついたときには、父方の祖母に預けられ、その後は叔父夫婦のもとで育った。

小学6年生の北村さん(いちばん左)。周囲の大人たちからは常に「しっかり者の年子ちゃん」を期待されていた

 父は若くして材木店を経営していたが、借金の保証人になって家を抵当に取られ、蒸発した。残された母は、北村さんを祖母に預けて実家へ戻り、一家は離散した。

 ところが北村さんが6歳のとき、京都で洋裁の仕事を身につけた母のもとへ引き取られることになる。

「後々知った話ですが、実はその間、蒸発した父はホームレス状態だったと。住み込みの職を転々として岐阜で行き倒れになり、救急車で病院に運ばれたと聞いています」

 北村さんが小学2年生のころ、母親がそんな状態の父親を見かねて引き請け、京都のアパートで3人暮らしが始まる。父は隣町の工場で働けるほどに回復、母は洋裁の内職を続け、家族3人手をつないで銭湯へ通った。

 そんな生活が一変したのは、小学4年生のとき、市営団地への入居が決まったことがきっかけだった。風呂なしアパートから高層団地の11階3DKに格上げされた。

「夢のような団地に引っ越したんです。ところが父の通勤時間が往復3時間になってしまい、それでも頑張っていたのですが、やはり身体に負担がかかってしまったのか、腎臓を患って入院しました」

 父は、かつて行き倒れて病院に搬送された当時の記憶がよみがえったのか、「病院は嫌だ、嫌だ」と言い出し、自宅に戻ってきてしまう。まだ幼かった北村さんには、父が病院嫌いになる理由がわからず「どうして病院に行かないの?」「どうして頑張れないの?」と責め立ててしまった。

 すると父はポロポロと涙を流し、「すまんなあ。お父さんもう頑張れへんのや。病院行くぐらいなら、あそこから飛び降りて死んだほうがましや」と、ベランダを指さした。その姿に驚いた北村さんは「わかった。頑張れなくてもいいから。死ぬなんて2度と言わんといて」と父の手を取り、ともに涙を流した。

赤ん坊の北村さんを抱っこする父。心やさしく、男前と評判だった

 それからしばらくして父がまた、「死にたい」と漏らしたとき、北村さんは思わずこう口走ってしまった。

「そんなに死にたかったら死んだらええやん!」

 その数週間後のこと。北村さんが学校で授業を受けている最中、父が亡くなったことを知らされる。

 実は団地の11階から身を投げていたのだ。

「まさか本気で言っているとは思っていなかった。死んだらええ、あのときのひと言が、何百回も何千回も反芻しては悔やまれて……。弱くても頑張れなくてもいい、生きていてくれるだけでよかったんやと思い知りました。それでも母を支えて頑張らないといけないと思い、母の前では絶対に涙を見せませんでした」

 周囲の大人たちは「頑張れよ」、「しっかりな」と励ましの言葉をかけてくれたが、まだ小学6年生だった北村さんは、かえって息苦しさを感じたという。

「泣きたかったら泣いていいよと本当は言ってほしかったんでしょう。もう十分、頑張ってるよねって。その“ガンバリズム”が結局、父を追い詰め、私を泣けない子どもにしていった諸悪の根源です」

 このときの原体験がその後、北村さんの運命を左右することになる。

『少女宣言』から日雇い労働者の町へ

 そんな幼少期を送った北村さんは人に悩みを言えない子に育った。いつしか書くことで思いを吐き出し、読むことで救われた。学生時代は、芥川龍之介や太宰治など、自死した作家の本を読み漁った。

「なぜお父さんは死んでしまったんだろうという疑問が消えず、何か手がかりが欲しかったんでしょうね。遺書もない。私や母のことをどう思ってたんだろう、愛されていなかったのかなとか。そういう不安は母の前では見せられず、夜中に布団をかぶって口を塞いで泣いていました。自分のつらい感情は、日記みたいなノートに吐き出していた。死にたかったし、狂いたかったし、逃げたかったです」

 北村さんは、京都にある短期大学に進学したが、ライターを目指して半年で退学。東京の日本ジャーナリスト専門学校へ入学し、報道写真家・樋口健二氏らの手ほどきを受けた。自由テーマでの写真撮影では、上野公園のベンチで眠るホームレスを被写体にした。意識はしていなかったというが、すでにそのころからホームレス問題に関心があったのかもしれない。

「そのときは若気の至りで、“被写体に1歩踏み込め”という指導どおりに、毛布をかぶっている野宿の人に近づいてシャッターを切っていました。いま考えたら、ものすごく失礼なことしていました」

 卒業後は出版社を転々としフリーに。24歳で『少女宣言』(長征社)を出版した。10代の少女200人のインタビューをまとめた本で、たちまち話題になった。続いて、1980年代半ばから'90年代に一世を風靡した女性ロックバンド「プリンセス・プリンセス」のインタビュー集『たった5つの冴えたやりかた』(シンコー・ミュージック)がベストセラーに。

北村さんがデビュー作『少女宣言』を出版したころ。駆け出しのライターだった北村さんのもとには10代の少女たちが連日押しかけ、悩みを打ち明けていた

 ライターとしての駆け出し時代は順風満帆だったが、28歳のとき、日雇い労働者が集まる大阪市西成区にある釜ヶ崎との接点が生まれる。それは1本の電話からだったと、北村さんは振り返る。

「大阪のフリースクールの職員から、釜ヶ崎に来ないかと誘われたんです。中学生の女の子が在学中に妊娠、出産して、週刊誌で叩かれている。だから、その子を守る記事を書いてほしいと」

 北村さんが釜ヶ崎に足を踏み入れた1990年秋はちょうど、日雇い労働者による暴動が勃発した時期と重なった。その爪痕が残る街で3畳ひと間のアパートを借り、NPO法人「子どもの里」が実施する夜回りや炊き出しなどの活動に参加した。

「釜ヶ崎では通りすがりの日雇い労働者から卑猥な言葉を投げかけられたり、唾を吐かれたりしたこともあります。警官からは“おっさんらにやらせてんのやろ!”と暴言を吐かれ、抗議のビラを撒きました。それが発端となって機動隊が出動してくるほどの騒動に発展しました」

 そんな人間臭さにあふれた生活を半年間続けた後、北村さんは、東京へ戻る。

「加害者の味方」と批判されて

 その4年後の'95年秋─。

 大阪市中央区の歓楽街ミナミの戎橋の上で、台車に寝ていたホームレスの男性(当時63)が、通りすがりの若者たちによって道頓堀川に投げ落とされ、死亡した。

 事件を報道で知った北村さんは、新聞で報じられている“極悪非道”な容疑者像に違和感を覚え、加害者の心理を理解しようと取材を開始する。

 しかし、そこには茨の道が待ち受けていた。

 北村さんは、事件の加害者、通称「ゼロ」に大阪拘置所で面会を繰り返し、彼が持病のために長くいじめられ、就労差別を受けていた背景を知る。ところが、同じホームレス支援に関わる人々から心ない言葉が浴びせられることもあった。

「加害者の肩を持っている」

「殺した側の味方だ!」

 北村さんが重い口を開いた。

「これはつらかったです。“加害者をかばうようなやつの話など聞きたくない”と講演中に席を立たれ、物が飛んでくることもありました。陰で泣いていました。でも襲撃問題を解決するには、加害者の心理を理解しないといけないという確信がありました」

28歳のとき、取材で足を踏み入れた日本最大の日雇い労働者の町、釜ヶ崎で半年間を過ごした北村さん。警察の暴言に抗議ビラを撒き、それをきっかけに機動隊が出動する騒ぎに発展したことも

 支援者たちからの理解を得るには、説明が必要だった。

「加害者の背景をいくら説明しても、亡くなった被害者の命はかえらないんだと、責められたこともあります。その後も襲撃の加害少年たちに手紙を書いたり働きかけてきました。でも結局、加害者に寄り添っていたら、被害者側から信用されなくなる。そういう意味で私は支援者としてのタブーを犯してきたので、本当にしんどかったです」

 それでも被害者、加害者のそれぞれに寄り添いながら、各地の襲撃現場を訪ね歩いた。批判されながらも続けてきたのはやはり、幼少期の原体験に背中を押されたからだと、北村さんは述懐する。

「私が父親を追い詰めたんだ、殺したんだ、どうしてもっとやさしく接することができなかったのか、という悔恨の念にかられていました。私自身も間違えた罪人だっていう気持ちがあったので、石を投げる子どもたちを責められなかったんです」

 人は誰しも間違える─。

 その人生哲学に裏打ちされた活動に賛同してくれた有志が集まり、'08年にHCネットが立ち上がる。全国の小中高、大学などこれまでに約500校を行脚した。

「授業終了後、8割方は意識の変容が起こります。前はホームレスを差別していたけれど、今は理解や共感に変わったと。偏見を持つ子どもたちの大半は、怠け者、怖い、危険だから見ちゃだめ、と親から教えられている。周りの大人からある意味で差別教育を受けてきているんです」

無関心な中学生を変えた映像

 大阪市西成区のシャッター街。寒い冬の夜、連れだって歩く子どもたちが、目の前に並ぶ段ボールハウスに向かって声をかける。その手にはおにぎりとポット、そして薬箱。

「こんばんは! 子ども夜回りです」

 段ボールからむくむくと起き上がるホームレスたちとの会話が始まる。

「なんでここに来たの?」

「何年ここにいるのですか?」

 単刀直入な質問にも、相手は子どもだからと、男性たちも無下にできない。なかには苦笑いを浮かべ、「土木関係してたけど、いろいろあって何年か前からホームレスで」と人生を振り返る者もいた。

 これは北村さんたちが教材で使うDVDの一場面だ。この映像が、ある若者の人生を変えた。

「ホームレスの方に子どもたちが笑顔でおにぎりを配る姿が衝撃的だったんです」

 そう語るのは、神奈川県小田原市に住む堀嵩さん(24)。中学1年生のとき、北村さんの授業でDVDを見たという。

「ホームレスの存在は知っていましたが、特に興味もなかったし、なんとなく関わらないようにしてきました。それだけに積極的に話しかける子どもたちの映像を見て、これまでホームレスを避けてきた自分に気づき、申し訳ない気持ちになりました」

北村さんの授業が人生を変えたと語る堀さん。炊き出しや夜回りに積極的に参加するように 撮影/近藤陽介

 堀さんはこのときに受けた衝撃から、市内の公園で行われている炊き出し、そしてホームレスの人々におにぎりを配る夜回りに参加。それを高校3年生まで5年間続けた。

「人と関わるきっかけを学びました。夜回りを始める前は正直、偏見はあったと思います。でも、それは関わろうとしなかったから。自然と抵抗は薄れていきました」

 夜回りをする中で夏には襲撃事件も起きた。エアガンで撃たれたり、テントを粉々に破壊された現場にも遭遇した。

「加害者は私と同じ若者。その行動は、かつて偏見を持っていた自分に照らし合わせると、理解できなくはありませんが、共感はできません」

 高校を卒業した堀さんは、福祉の専門学校へ入学し、現在は障害者支援施設で働く。

「人を手助けするのは楽しいです。相手の笑顔が自分の糧になるんです」

 感受性豊かな子どもは物事の影響を受けやすいが、これが大学生になると、同じホームレス問題を題材にしても視点やとらえ方がまた変わる。

 専修大学ジャーナリズム学科で7月1日に行われたオンライン授業(担当教授・澤康臣)では、北村さんが講師として教鞭を執った。聴講したのは3年、4年生を合わせて17人。北村さんは、今回の岐阜襲撃事件を引き合いに出し、実行犯3人以外の2人、つまり現場まで一緒についていっただけの立場だったら、どのような行動をとるかを学生に尋ねた。

 回答はいずれも「その場で何かする」「後で何かする」に分かれたが、行動をとる理由として、「その場で止めたほうが仲間の救いになる」、「被害者の気持ちを考えればその場で何かするほうが後々助かる」という意見が上がったが、中にはこんな素直な声も聞かれた。

「自分の罪悪感を少しでも減らしたいので、被害者のことを考えて通報するというよりは、自分のことを優先する」

「社会的に悪い立場に置かれるのは嫌なので、責任から逃れるために警察に通報する」

 これに対し授業終了後、北村さんはこう感想を寄せた。

「小学生だと素直な善意や正義感がもっと出るのですが、年齢が上がるにつれ、空気を読んだり忖度したりする傾向が強くなります。相手のためというよりは、自分の身を守るためにどう行動すべきかという考えになるのかもしれません。でもそれを否定するのではなく、なぜそう考えるようになったかを理解し、その選択が本当に自分を幸せにするかを問いたいと思います」

「ホーム」のある社会を目指して

 ホームレス襲撃問題に取り組んで25年。また起きてしまった現実に対して「砂漠に水をまくような活動だった」と感じる一方、北村さんの中で明確になったことがある。傍観者による無関心の暴力が襲撃の要因になってはいるが、やはり、大切なのは、あるがままの自分を受け入れ、認め合える人間関係を築ける「ホーム」の存在、つまり自尊感情を育める居場所のことだ。

「学校は本当にホームになっていますか? 家庭は本当に安心できるマイホームですか? 地域は本当にホームタウンになっていますか? 子どもたちの成績が悪くても、たとえいじめられっ子でも、病弱だったとしても、“あなたが生きてくれるだけでありがとう”と言ってくれる人がこの3つのホームのどこかにいないと、子どもは生きていけないんです」

ホームレス問題から子育て支援まで、活動は自己尊重の重要性へ至る道筋で「全部つながっている」という 撮影/近藤陽介

 ホームレスの人権を考えるだけの教育では、襲撃は止まらない。人間の居場所や価値とは何か、生きる意味とは、幸福とは何か、という根本的な問いに立ち返らなければと、北村さんは主張する。

「経済優先主義によって、金を稼げる人間にこそ価値があるという考え方が広がっています。でもその価値観では、自尊感情は育ちません。空気を読み、常に優劣を比較する、そんな環境は人間関係をますます不自由にさせる。それが今の子どもの自殺率にも反映しているのではないでしょうか」

 厚生労働省発表の2019年の自殺者数によると、特に10代の自殺率が高く、先進国の中ではトップ。原因で最も多かったのは「学校問題」次いで「家庭問題」だった。

「岐阜の襲撃事件の加害者も自分の価値が認められないとか、自己否定感、劣等感があったのかもしれない。それを吐き出す居場所がなく、襲撃という形でホームレスの人に向かった可能性があります」

 成績優秀者を褒めることは優越感で一時の自尊感情を高めているだけだ。ところがいったん成績不振に陥れば、その感情は一気に失われる。

「本当の自尊感情っていうのは、人と比べて自分を誇る強さではありません。むしろ、負けてもどん底でも、どんな状態でも、自分は生きる価値ある存在だと自分を受容できる力です。泣いてもいい、弱くてもいい、大丈夫でない自分で大丈夫だってことです」

 北村さんの人生を変えた父親の自死から46年。その間、少女たちの悩みを聞き、襲撃問題の少年たちと向き合い、そして子育てに悩む母親たちの相談に乗り、たどり着いた答えがある。

 誰もが、あるがままの存在を尊重され、違いを認めあいながら生きていける社会の実現─。

 北村さんの啓発活動はこれからも続く。


取材・文/水谷竹秀(みずたに・たけひで) 日本とアジアを拠点に活動するノンフィクションライター。三重県生まれ。カメラマン、新聞記者を経てフリー。開高健ノンフィクション賞を受賞した『日本を捨てた男たち』(集英社)ほか、著書多数