新型コロナウイルスの感染が拡大し、世界中の人々が未曾有(みぞう)の事態への対応を迫られている。コロナと共存して生きる「Withコロナ」時代に突入した今、世界各国で暮らす日本人はどんな日々を送り、どんな思いでいるのか? ノンフィクションライターの井上理津子さんが生の声を取材する。第4回は感染者数が385万人(9月3日厚生労働省集計)を突破したインドに暮らす日本人男性に話を聞いた。

自粛期間、気分転換にベランダを活用(北村研二さん提供写真)

「これでもか」というほど感染予防していた

「今思えば、検査する1週間ほど前から鼻と喉の奥に違和感がありました。鼻炎持ちで、そういう症状にはときどきなるため、どうってことないと思っていたんですが、『まさか』が起きてしまって。息子にもうつしてまって……」

 こう話し始めてくれたのは、インド南部のカルナータカ州に住む北村研二さん(=仮名、35歳)。輸送機器関連メーカーに勤め、インド駐在7年目。職場はインド人約200人が働く工場だ。家族は、秋に第2子の出産を控えた妻と4歳の息子。

 3月下旬からおこなわれていた都市封鎖が5月中旬に緩和され、経済活動が再開。北村さんも2か月余りのテレワーク後、5月下旬から出勤体制にあったが、会社でも家でも、「これでもか、これでもかというほど」感染予防に注力していた。インドは、米国、ブラジルに次ぎ、感染者数世界3位だ。だが、感染者の多くは衛生環境や住宅事情の悪い人たちで、社内にも知人にも感染者は1人も出ていなかった。

北村研二さん(仮名) 1984年生まれ。輸送機器関連メーカーに勤務。2013年からインドに駐在している。北インド在住を経て、現在は南インド・カルナータカ州で、妻、長男と暮らす

「この生活をしている限り、感染することはないと思っていました」

 定員7人のバンに、ドライバーを含めて3人のみが乗って通勤。1列ごとに左右交互に座り、車内で喋らないルールだった。工業団地のメインゲートと工場の入り口の両方に非接触型体温計と消毒機器が設置され、オフィスは換気も万全で、2メートル以上あけてデスクを配置。食堂を利用するランチには「マイスプーン」を持参していた。帰宅後は、真っ先にその日の着衣すべてを洗濯し、シャワーを浴びる。徹底していたつもりだった。

「ところが、8月1週目の週末、朝起きると妙な倦怠感を覚えた。お昼にレストランのデリバリーを頼んでいて、今はマンションのゲートまでしか届けてくれないので、取りに行ったんですね。その途中、マンションの敷地内を歩いているときに、突然息切れがしたんです。そして、夜から胸の上が痛み始め、発熱。怪しい。で、自宅内隔離。一室に閉じこもりました」

 週が明けて、私立の総合病院のオンライン診療を受けた。その後、すばやくその病院に出向いてPCR検査を受け、陽性が判明した。その病院を選んだのは、国の医療体制が不安定ななか、「政府系の病院は避けたほうがいい」との情報を駐在者コミュニティーから得ていたからだ。

「ショックでした。自分のこともですが、家族を守らなければならない自分が家族にうつしているんじゃないかと、すまない気持ちでいっぱいでした」

ICUで大勢の重症患者を目にして真っ青に

 ネットで調べまくった。陽性の妊婦が出産するとき、インドでは帝王切開になる。10歳以下の子どもにも重症化リスクがある。そんな情報にうろたえた。通常なら自宅内隔離も可能な軽症だが、家族事情から入院を勧められ、従うことにした。

 ところが、陽性者本人は入院するにも、会社のドライバーもタクシーも頼めない。救急車を呼んだが、到着するとマンション中の窓という窓が開いて住民たちの視線が注がれ、「針のむしろ」状態に。同じ時間、濃厚接触者にあたる妻と息子はPCR検査をするため、タクシーで同じ病院に向かった。

カルナータカ州の緑の多い町に在住(北村研二さん提供写真)

「病院で妻と息子に再会。泣きじゃくる息子と別れるのも辛かったですが、その後が……。防護服を着せられ、車椅子に乗せられ、どういう事情かわかりませんが、ICUを通って診察室に連れていかれたんです。ICUには人工呼吸器をつけた大勢の重症患者がベッドに横たわっていて……」

 ICUは、ものものしかったと言う。自分も重症化し、ああなるかもしれないと、真っ青になった。

 アビガンなど数種の薬を投与され、病室へ。動脈血酸素飽和度は98パーセントで胸をなでおろした。入院初日は、政府機関や会社、マンションから、次々と細かなヒアリングを受け続けることとなった。

PCR検査の結果、息子に陽性が確認される

 入院は2週間の予定だったが、北村さんは1泊2日で退院した。妻と息子のPCR検査の結果が出て、妻こそ陰性だったが、息子に陽性が確認されたからだ。

「息子の感染は、自分の感染以上に落ち込みましたね」

 2つの選択肢があった。息子も一緒に入院させるか。自分がマンションに戻って息子と2人で隔離生活をし、妻をホテルに避難するか。Skypeを使って夫婦で話し合い、後者を選んだのは、3月から家にこもりっきりの息子に、さらなるストレス負荷をかけたくなかったから。もしも家で「何か」が起きたら、救急車を呼んでまた病院に行けばいいのだから。苦渋の選択だったそうだ。

 戻ったマンションは厳重な消毒が施された後。自室のドアに「Caution(警戒)」と赤文字で書かれた大きな紙が貼られていた。同じフロアの住民らが濃厚接触者に認定され、PCR検査を受けたと聞いた。さらに、会社オフィスの同僚もPCR検査を受け、工場が48時間の操業停止となった。感染は不可抗力だが、「自分が悪いことをした」意識にさいなまれたとも言う。

隔離生活で最も気をつけたのは息子のメンタル面

「私の人生で、いちばん長く感じた2週間でした」

 妻をホテルに送り出したあとの、息子と「陽性者2人」の自宅隔離生活を北村さんはそう振り返る。初めのうちに37度台の熱が出ただけで、2人ともほぼ無症状感染状態だったが、それでも、息子がくしゃみすると、「もしかして」と考えてしまう。熱を測るたびに、ハラハラする……。

「ホテルのシングルルームから出ずに過ごさなければならなかった妻は大変だったようですが、息子と私はなんとかそれなりに。いちばん気をつけたのは、息子のメンタル面です。息子が妻と話しながらご飯を食べられるように『リモート夕食』したり、ベランダで『焼肉パーティー』をしたり、工夫しました

 食材は、もともと備蓄していたし、同じマンションに住む友人が、玄関の前に新鮮な食材を置いてくれることもあり、助かった。息子の「学校」が8月から新学期。リモート授業が始まったので、「見守った」とも。

オンライン授業を受ける4歳の息子(北村研二さん提供写真)

 陽性確認から16日が経った8月20日、北村さんはPCR再検査し、陰性結果が出た。

「妻が戻ってきて家族一緒の暮らしに戻れました。バンバンザイです」

 明るく話し、あと1週間ほどで出勤するという北村さんだが、インタビュー終盤に、

一緒に通勤していた同僚もドライバーさんも、私と同じころに陽性になり、感染経路は不明なんです。あんなに予防していたのに感染した。ということは、今後もずっと感染リスクがあるということでしょう? 今後、マスクの上にフェースシールドをつけようと取り寄せましたが、それくらいしか、予防を強化できることがない」

 と、声のトーンが下がる一幕もあった。

「自分にも、日本のみなさんにも、こう言いたいんです。『絶対に、過信してはいけない』と」


取材・文/井上理津子(いのうえ・りつこ)
1955年、奈良県生まれ。タウン誌記者を経てフリーに。著書に『葬送の仕事師たち』(新潮社)、『親を送る』(集英社)、『いまどきの納骨堂 変わりゆくお墓と供養のカタチ』(小学館)、『さいごの色街 飛田』(新潮社)、『遊廓の産院から』(河出書房新社)、『大阪 下町酒場列伝』(筑摩書房)、『すごい古書店 変な図書館』(祥伝社)、『夢の猫本屋ができるまで』(ホーム社)などがある。