新型コロナウイルスの感染が拡大し、世界中の人々が未曾有(みぞう)の事態への対応を迫られている。コロナと共存して生きる「Withコロナ」時代に突入した今、世界各国で暮らす日本人はどんな日々を送り、どんな思いでいるのか? ノンフィクションライターの井上理津子さんが生の声を取材する。最終回となる第5回は香港に暮らす男性に話を聞いた。

香港市内筌湾(せんわん)地区(山本さん提供写真)

赴任後すぐに「いまの香港」の洗礼を受けた

 香港は東京都の半分の面積(約1110平方メートル)に、横浜市の約2倍の人口(約740万人)がいる。

 昨年来の「逃亡犯条例改正案」への抗議デモ。警察の「香港国家安全維持法」を盾にした言論弾圧激化。目下は、合法的にデモをするのが難しい状態に。中国が建国71年を迎えた10月1日、香港各地で政府への抗議が呼びかけられたが、警察は民主派団体が事前に申請したデモを認めず、違法集会の疑いで少なくとも69人が逮捕された。

 2019年6月以降、累計逮捕者数は1万人以上にのぼるが、起訴されたのは2200人余りにとどまり、市民の間では警察への不信感や憤りがますます強まっている──と報道される中、新型コロナウイルスの感染者数は5304人、死亡者数は105人(10月27日現在)である。人口密度が高い上、中国本土と陸続きであるにもかかわらず、感染拡大は抑えられている状況だろう。

「先日、オフィスの朝礼の際、私が余談で『日本のテレビ番組で、今年国民にもっとも不要だったのはパスポートだ、と放送されていた』と言ったら、香港人のスタッフが『香港で今年もっとも不要だったのは政府だ』と言ったんです」

 こう話すのは、事務機器製造会社に勤務する山本政之さん(57歳=仮名)。ウイットに富んだ香港人スタッフの発言だが、笑い飛ばせない。失笑が起きたという。

 山本さんは、昨年10月から香港に単身赴任している。赴任数日後に、「いまの香港」たるものの洗礼を受けたという。宿泊していたホテルから20分ほど歩いて早めに出社したところ、始業時間の10分前になってもオフィスはがらんとしている。始業時間になっても2、3人のスタッフしかオフィスに現れず、首をひねった。スタッフ数は、日本人、香港人合わせて40人。昨日は全員がそろっていたのに、と。

「少ししてわかったのは、その日、デモの影響で地下鉄やバスなど公共交通が止まっていて、みんな足止めをくらっていたということ。今回の香港赴任は、そんな“びっくり“からのスタートでした」

 新型コロナウィルスが香港で感染拡大したのは1月末の春節(旧正月)の後から。大陸と往来する鉄道が春節も通常どおり運行されたため、主にその鉄道を使った「家族と再会するための大移動」が行われてしまった。香港政府は春節の終了とともに鉄道を止め、大陸との往来をできなくしたが、時すでに遅し、の感が免れなかったというのが、専らの見方だ。山本さんには「香港政府が中国政府に遠慮した」ように映ったという。

 一方で、香港では2003年にSARS(重症急性呼吸器症候群)の集団感染を経験しているため、コロナへの市民の危機感は高く、早い段階からいたるところでドアノブやエレベーターボタンなどが非常に丁寧に消毒されていたともいう。

香港政府からマスクが配布されたが…

「面白いのは、日本でマスク不足が叫ばれていた春ごろ、ここ香港で日本製のマスクがずいぶん売られていたこと。商魂たくましい人の手によるものでしょうが、1箱1000香港ドル(約1万3500円)などと高値がつけられ、その値段でも売れていました」と山本さん。

 さらに、興味深いことがもうひとつ。

 日本でいわゆる「アベノマスク」が配布されたのと同様、香港でも政府によって5月に市民にマスクの無料配布がおこなわれた。「2枚じゃなくて、5枚です」とのこと。「見ます?」と山本さんにも届いたマスクを真新しいビニール袋から取り出し、オンライン取材の画面の向こうから見せてくれた。

「使ってないんですか?」

「ええ。われわれには、日本の本社が(マスクを)送ってくれたので」

 香港政府配布のマスクは、白地に薄いベージュのストライプ模様。おしゃれなデザインに見えた。

香港政府が配布したマスク(山本さん提供写真)

 同封の説明書きに、《ジュネーブで開催される世界最大の発明品国際展示 (International Exhibition of Inventions of Geneva)で、一昨年、金メダルを獲得したもので、口に当たる部分は薄いガーゼ。6層構造のうち2層は銅を使った素材でできているため、菌の移動を防ぐ》とあるそうだ。

「アベノマスクよりもずっと使い勝手がよさそうですね」と言うと、山本さんは苦笑しながらこう返した。

「実は街でだれひとり、この政府配布のマスクをつけて歩いている人を見かけないんですね」

 そのマスクをつけないことが、「無言の政府へのレジスタンス」と、市民の間で共通認識されている、というのだ。驚いた。

コロナ対策を名目に5人以上の集会が禁止

 山本さんによると、1か月ほど前に、サウナ、テーマパーク、カラオケルーム、プールなどが再開され、飲食店の営業時間が夜12時までに延長された。ただし、店舗をはじめ公共の場所ではマスク着用が義務づけられている。

「こうした情報を在香港日本国領事館がホームページに載せるのが遅く、いつも先に香港人の会社スタッフから教えてもらっているんですよ」

 香港市内筌湾(せんわん)地区の52階建てマンションの50階に住む。窓から見えるベイサイドには、ジョギングする人が戻ってきているという。

 路線バスを使って通勤。8時前に出勤し、21時ごろまで社内にいる。帰宅途中に自炊用の食材を買いに寄るスーパーも、運動不足解消のために日曜日に歩いている山も「混雑していますね」と。

スーパーマーケットの店内(山本さん提供写真)

「でも、コロナの恩恵を受けていることが1つだけあります」と苦笑する。

「観光業などの失業者が増えたため、現地スタッフを募集すると、日本でいうと東大にあたる香港大学の卒業生など優秀な人が応募してきて、採用できたことです」

 山本さんは企業人という立ち位置からそう話した後、こうも言った。

「中国の中で唯一の“自由の砦”だったはずの香港から自由が奪われ、市民がデモで意見表明をしたくとも、新型コロナウイルス対策を名目に5人以上の集会が禁止されているほどなんです。日本の人も、もっと香港に関心を持ってほしいと思います」


取材・文/井上理津子(いのうえ・りつこ)
1955年、奈良県生まれ。タウン誌記者を経てフリーに。著書に『葬送の仕事師たち』(新潮社)、『親を送る』(集英社)、『いまどきの納骨堂 変わりゆくお墓と供養のカタチ』(小学館)、『さいごの色街 飛田』(新潮社)、『遊廓の産院から』(河出書房新社)、『大阪 下町酒場列伝』(筑摩書房)、『すごい古書店 変な図書館』(祥伝社)、『夢の猫本屋ができるまで』(ホーム社)などがある。