柴咲コウ

 日本テレビ系で土曜夜10時から放送されている連続ドラマ『35歳の少女』は、10歳の少女・時岡望美(鎌田英怜奈)が1995年に事故で意識不明の昏睡状態となり、25年後の2020年に目を醒ますところから始まる物語だ。

話題のドラマ『35歳の少女』とは……

 35歳の望美柴咲コウ)は、心は10歳のままで、自分が大人であることを理解できない。母の多恵(鈴木保奈美)、父の進次(田中哲司)、妹の愛美(橋本愛)は望美が覚醒めたことを喜び、お祝いをするが、実は望美の事故が原因で両親は離婚していたことが明らかになる。

 また、望美の同級生で初恋の人だった広瀬結人(坂口健太郎)は、教師の仕事を辞め、恋人や友人の役を演じる「代行業」のアルバイトで食いつないでいた。多恵に「素敵な大人のフリをしてほしい」と依頼され、望美の元に駆けつけた結人は「今はお前が夢見てたような未来じゃねえんだよ」「温暖化やら差別やら原発やらいっぱい問題があるのに、そういうものには目をつぶってみんな自分が得することばっかり考えてんだよ」と厳しい現実を突きつける。

『35歳の少女』は、そんなショッキングな第1話で幕を明ける。目を醒ました望美は少しずつ現実を受け入れ、大人の身体にふさわしい内面を獲得していく。

 見どころは、柴咲コウが10歳の少女の内面を持った35歳の女性を演じる面白さ。目を醒ました望美は、短期間で急激に内面が成長していき、反抗期を向かえたかと思うと、結人に恋心を抱き、やがて家を出て2人で暮らすようになる。

 新劇の代表作として知られるヘンリック・イプセンの戯曲『人形の家』を、結人が望美にわたす場面が劇中に登場するのだが、登場人物が少なく演出のトーンが抑制された本作は、舞台劇に近い作りとなっている。

 10歳の内面を持った、大人の女性を柴咲コウが演じるという設定も舞台劇に近い構成だからこそ、納得して楽しめるのだろう。

 脚本を担当する遊川和彦は80年代後半から活躍するベテラン脚本家。

 80年代には『オヨビでない奴!』(TBS系)等のコメディドラマを多数手掛け、90年代はヤンキー出身の教師が型破りの教育をおこなう学園ドラマ『GTO』(フジテレビ系)などを手掛けたヒットメーカーである。

遊川ヒロインの基本スタイル

 そんな遊川のドラマ脚本家としてのオリジナリティが、本格的に開花したのは2005年の『女王の教室』(日本テレビ系)だ。

 本作は小学校を舞台にしたダークなトーンの学園ドラマで、謎の教師・阿久津真矢(天海祐希)が「いい加減、覚醒めなさい」と言って小学生たちに厳しい現実を突きつけていく。そんな真矢に立ち向かうことで子どもたちが逆に学び成長していく姿が、逆に感動的に見えてくる本作は、屈折した学園ドラマとして大ヒットした

 ロボットのように感情を表に出さずにクールな喋り方をすることで、個性を際立たせる遊川ヒロインの基本スタイルが始まるのも本作からで、同じ手法で遊川は『曲げられない女』(同)や『家政婦のミタ』(同)といったヒット作を生み出していく。

 ロボットのような謎の女が、物語をかき乱していくというキャラクタードラマの手法は中園ミホ脚本の『ハケンの品格』(日本テレビ系)や大石静脚本の『家売るオンナ』(同)といった作品にも波及しており、今や日本のテレビドラマの基本スタイルとして完全に定着している。

 また、『女王の教室』以降、遊川のドラマはショッキングな描写で視聴者の関心をひきつける露悪性が極まっていく。序盤で主人公をどん底に突き通して、中盤以降は、どん底から這い上がる人々の復活劇を描くことでカタルシスを与える。緩急の激しいジェットコースターに乗っているようなドライブ感こそ遊川の脚本の巧みさで、そのストーリー展開と、ヒロインのキャッチーなビジュアルが見事にハマったのが最終話の平均視聴率が40.0%(ビデオリサーチ社、関東地区)を獲得した『家政婦のミタ』だった

 ただ、この露悪的なストーリー展開は、視聴者はもちろんのこと、作者自身にも負荷が強く、うまく転がれば『女王の教室』や『家政婦のミタ』のような大ヒット作となるが、作家の「強い個性」が暴走すると作品がコントロールできなくなり、ストーリーとキャラクターがボロボロに崩壊するバッドエンドとなってしまうように筆者は思う。

 たとえば、連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『純と愛』(NHK)は、遊川の“毒”とも言える強い個性が出てしてしまったように思う。本作は、筆者も含めた遊川ドラマのファンにとっては、ダークな刑事ドラマ『リミット-刑事の現場2-』(NHK)と並ぶ遊川の最高傑作だが、朝ドラを楽しみにしている一般視聴者にとっては受け入れ難い辛辣な内容に、放送終了時は「朝ドラにしては挑戦的」「トラウマになる」などの声もあった

 この露悪的な部分が自家中毒となってドラマそのものを壊してしまう流れは、2015年に東山紀之と柴咲コウが主演を務めた『〇〇妻』(日本テレビ系)でも反復された。この時期の遊川作品は、常に危うい雰囲気が漂っていたように感じる。

 その後、世の中の流れに合わせたのか、遊川の作る露悪的な印象は少しずつ後退しており、高畑充希が主演を務めた『過保護のカホコ』(同)や『同期のサクラ』(同)といった近作では、だいぶ前向きで健全なムードに変わっている。

 同時に、遊川が執拗に描いてきた家族に対するこだわりもじわじわと弱まっており、むしろ近作では会社をテーマにした群像劇が増えていた。

『35歳の少女』は何を語るのか?

 その意味でよくも悪くも作家としての毒が抜けつつあるというのが近年の印象だったが、今回の『35歳の少女』は遊川の暗黒面が強く出ていた『〇〇妻』の柴咲コウが主演だからか、悪意が強かった2010年代初頭の作風に戻ったように感じる。

 だからこそ物語の続きが気になって追いかけてしまう。

 ヒロインの成長に感化される形で家族や恋人といった周囲の人々も成長していく展開は遊川作品ならではの心地よさで、最新話(第5話)の時点では、感動的な方向で話が進んでいる。

 しかし、このまま最後まで順風満帆に行くとはとても思えない。

 やはり遊川作品ならではの“毒”が最後に発動するのではないかと不安と期待が入り混じった気持ちで観ている。それが、どんな形になるのかは想像できないが、ひとつヒントになるのは『家政婦のミタ』が東日本大震災の起きた2011年に作られた作品だったということだ。

 2011年に『家政婦のミタ』がヒット作となったのは、入水自殺で母親を失った家族が謎の家政婦によって、一度破壊された後に再生する物語に、震災で多くの命を失った日本人の絆と再生の物語として、多くの視聴者が受け止めたからだと言われている。

 おそらく『35歳の少女』は'95年に昏睡状態となった望美の視点で2020年の現代を描くことで、日本の25年を総括しようとしているのだろう。

 近年の遊川作品はクロニクル(年代記)化しており、『過保護のカホコ』では2009~2020年の11年間、遊川が監督を務めた映画『弥生 三月-君を愛した30年-』では昭和・平成・令和の3つの時代を舞台にしている。寓話的な物語の中に同時代的なメッセージを込めるのが遊川ドラマの隠し味であり、その時代の気分を読む的確さがあるからこそ、時代が変わっても遊川はヒット作を生み出すことができたのだ。

 おそらく『35歳の少女』も、2020年のコロナ禍ならではのメッセージが最終話に用意されているのだろう。それは救いのない結末かもしれないが、フィクションが現実を描くことが難しくなっているコロナ禍だからこそ、絶望をちゃんと描いて欲しいと期待している。何事も常に「良薬は口に苦し」だ。

PROFILE●成馬零一(なりま・れいいち)●1976年生まれ、ライター、ドラマ評論家。テレビドラマ評論を中心に、漫画、アニメ、映画、アイドルなどについて幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。サイゾーウーマン、リアルサウンド、LoGIRLなどのWEBサイトでドラマ評を連載中。