12月12日、昭和の名優・梅宮辰夫さん(享年81)が亡くなってから一周忌を迎える。娘のアンナさんは、よくも悪くも、若いころから世間の注目の的だった。長年にわたって父の闘病を支え、辰夫さん亡きあともしっかりと家族を守るアンナさんに、世の中が抱いていた「わがまま娘」のイメージは、もはや微塵(みじん)もない。父の死と向き合ってきた、この1年の思いを聞いた。

梅宮アンナ 撮影/佐藤靖彦

(※インタビューを2回に分けてお送りします。前編では、父・辰夫さんの思い出や、相続手続きに追われた1年間の出来事を語っていただきました)

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 昨年の12月12日に父が亡くなって1年。早いものですね。一周忌は、父が好きだったレストランで過ごす予定です。私たち家族と、父が生前親しくしていたお仲間だけで、ささやかに、楽しく、父を偲(しの)ぶつもりです。

 この1年間は、あまりに大変すぎて、もう息つく暇もないくらいでした。相続手続きのために、区役所やら銀行やら、少なくとも60回以上は行ったかな(笑)。

 父は、世間ではマメでしっかりしたイメージがあったかもしれませんが、全然違うんです!(笑) O型で無頓着。遺言書もなく、銀行の口座も不動産もすべて父の名義のままでしたし、相続には父の人生81年分の戸籍謄本などが必要と知りました。相続の申告期限は死後10か月しかないから、駆けずり回らなければならなかったんです。

 母はアメリカ国籍で、書類上の難しい日本語はよくわからないし、なにより夫の死にふさぎこんでいて、それどころじゃない。私がひとりでやるしかありませんでした。なんとか手続きを終え、ふと振り返ってみると私、父が亡くなってから、まともに泣いてないんです。泣く暇もないほど、気が張りつめていたんでしょうね。

 父は病気を繰り返していましたので、高齢になってからは「遺言書のこととか、ちゃんと考えて」と言ったこともあるんです。結局、のらりくらりとかわされて、書かずじまいでした。あんなに強かった父でも、自分が死ぬことを考えるのはやっぱりいやだったんじゃないかな。

 でも今となっては、遺言書なんてなくてよかったと思ってます。当事者になって初めてわかったんですが、遺言書があるからこそ家族でもめるケースもよくあるみたいで。うちは、母と私と娘の法定相続人3人だけで話せましたから、もめようもない(笑)。

 とはいえ、お仏壇の前で、よく父に恨み言は言いましたけどね。

「パパ、今日はね、銀行に行って、お役所に行って、仕事の打ち合わせして、なんやかんや、合計8つの用事を片づけましたよ。パパならできる? お付きの人がいて、身の回りのことはぜーんぶやってもらっていたパパに、できますか?」って、笑いながらね(笑)。

みなさんが思うほど、父に依存して生きていない

 父亡きあとの私の姿に、「意外と強いんだな」と、驚いている方もいらっしゃるみたい(笑)。

 父の死に対する心構えは、もう何年も前からできていたんです。がんを繰り返して手術を重ねる姿をずっと見てきましたから。母から着信があるたび「パパが亡くなったのかも?」と一瞬、身構える。そんな毎日でした。よく想像するんですが、もし事故に遭って死なれていたら今日この日も、私は立ち直れていないと思います。

撮影/佐藤靖彦

 それに私、みなさんが思うほど、父に依存して生きていないんです。ひとりっ子でしたから、自分で考えて答えを出すしかない。10代のころから、「自分で稼ぐ」「早く自立したい」ということを常に頭に置いて生きてきました。

 母は私とは正反対で、夫に守られ、梅宮辰夫という大きな大きな傘の下にすっぽりと入って生きてきた人。経済的にはもちろん、料理や洗濯など家のことも夫にやってもらって、本当に幸せな妻だったと思います。

 もちろん、私も父からたっぷりと愛情をもらって育ちました。父は「イクメン」のはしり。毎年、学校から配られる1年間の「行事表」の予定を手帳に書き込み、それをもとに仕事のスケジュールを決めるような人でしたから。でも思春期になってくると、そういうのがうっとうしくて(笑)。

 一方で、頑固で厳しい人でもありました。いまでも覚えているのが、高校の卒業旅行をめぐる騒動です。仲よしの友人たちと「ハワイに行こう!」と計画がもちあがったんですが、わが家だけは、父がどうしても許してくれない。

「みんな行くのに!」
「ダメと言ったらダメ!」

 の繰り返し(笑)。今までも、こんな言い合いなんてしょっちゅうだし、殴り合いをすることもありました。このときも私は折れることができなくて……。だって文句を言わないと、親も私の気持ちがわからないから。

「だったら旅行費用の49800円、自分で稼ぐなら行ってもいいよね!」
「勝手にしろ!」って(笑)。

 私は16歳からアルバイトをしていましたが、さらにがんばって、土日の朝はビル清掃、夕方は神宮球場の売店、そのほかにもアイスクリーム屋さんと、フルにかけもち(笑)。なんとか旅行費用を捻出(ねんしゅつ)することができました。

 親が金を出すとうるさいんです。父は「誰のおかげで〜」が口癖の昭和の父親。「お前だよ!」って言い返したこともあるけど(笑)。「自分のやりたいことをやるには、経済的に自立するしかない。成人したら家を出よう」と、考えるようになったのは、こういった出来事の積み重ねだと思います。

借金はすべて自分で返済しました

 だけど、口うるさい父がどんなにうとましくても、仕事をして家族を支える父への尊敬の念はいつもありました。「親をなめる」なんてことは絶対にありえませんでしたね。

 世間には、「娘に甘い父とわがまま娘」みたいに思われているかもしれない。そのイメージは、過去の恋愛にあるのかな(笑)。でも、そのときの恋愛のいざこざが原因で、20代で背負うことになった8000万円の借金も、最近まで自分ひとりだけで返してきました。すべて返済し終えるまで、父に負担してもらったことなんて、もちろん一度もありません。

 だって、自分の責任なんだもん。当たり前のことでしょう? 私は他人にものを頼むのが嫌いだし、自分のことは自分でケリをつけたい。絶対に他人のせいにしたくないんです。

 母・クラウディアと、娘の百々果(ももか)と、女3人だけの梅宮家になってもうすぐ1年──。1年前は父が亡くなったことより、泣いてばかりいる母をなだめるほうが大変でした。まるで大きな赤ちゃんが誕生した感じでした。このままうつ病になってしまうのではと心配だったので、少し落ち着いてからはあえて外に連れ出すようにしていたんです。コロナ禍でできることは限られますが、母のお友達の「未亡人連合軍」のみなさんの助けもあり(笑)、少しずつ元気を取り戻し、安心しています。

 娘は今年、高校を卒業し、もう大学生。夏からアメリカの大学に進学しましたが、新型コロナウイルスの影響で帰国し、日本でオンライン授業を受ける毎日です。

 父亡きあと、家族が新しい一歩を踏み出しています。そろそろわたしも、自分自身のこれからの人生を真剣に考える時期だと感じています。

◎取材・文/植木淳子

(※今日12時公開のインタビュー後編では、50代を目前に控えたアンナさんに、恋愛や仕事に対する今の率直な思いや、これからの生き方についてお伺いします)

撮影/佐藤靖彦

<PROFILE>
梅宮アンナ モデル・タレント。1972年8月20日生まれ、東京都出身。O型。父は’19年12月12日に慢性腎不全で亡くなった俳優の梅宮辰夫さん(享年81)。母はタレントの梅宮クラウディアさん。ファッション誌『JJ』の看板モデルとして活躍後、女優に転身。’01年に結婚、翌年に百々果さん(18)を出産し、直後に離婚している。’20年12月、オンラインで展開する新ブランド「anmo」を発表。
◎anmo official
https://anmo-official.com
◎anmoオフィシャルインスタグラム
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