光GENJI

 約30年前。星屑のようにきらめいていた最強、最後のスーパーアイドル。そんな彼らの驚きしかないすごさ、あの時代の盛り上がりぶりを、メンバーの数だけ振り返ってみました!

「光GENJI」とは

超新星からのメッセージ」をキャッチフレーズに1987年、『STAR LIGHT』でデビュー。内海光司大沢樹生からなる「光」と、諸星和己佐藤寛之山本淳一赤坂晃佐藤敦啓(現:アツヒロ)からなる「GENJI」の7人組ジャニーズアイドルグループ。甘いマスクと、ローラースケートをはきながら歌い、踊り、バック転まで! そんな斬新なパフォーマンスで瞬く間にトップアイドルの座に上り詰め、その人気は社会現象をも巻き起こした。

 1994年に大沢樹生、佐藤寛之が脱退し「光GENJI SUPER5」に改名。翌1995年に解散。鮮烈な輝きを放った彼らの偉業は今も伝説として語り継がれ「最後のスーパーアイドル」と呼ばれる。

【伝説1】レコードは入荷と同時に即、完売!

 1987年、英国から来日公演したミュージカル『スターライトエクスプレス』のキャンペーンに合わせ、テーマ曲『STAR LIGHT』でデビューを飾った光GENJI。歌番組の全盛期でもあった当時、彼らの人気ぶりを表すのがレコードの売り上げだ。デビュー翌年1988年のオリコン年間シングルチャートでは『パラダイス銀河』『ガラスの十代』『Diamondハリケーン』が1・2・3位を独占。中でも『パラダイス銀河』は同グループ最大のヒット作となり、第30回日本レコード大賞も受賞した。

入荷と同時にレコードが売り切れてしまう。生産が追いつかず、新聞紙上にお詫びの広告が掲載されたほどでした」(当時を知る音楽業界関係者)

 1stアルバム『光GENJI』もオリコン年間アルバムチャート1位を記録、ビデオ『太陽がいっぱい 光GENJI』は約30万本を売り上げ、当時の日本のビデオソフトとして異例の売り上げを誇るなどまさに記録づくし。「時代の寵児」と言われたのも納得だ。

【伝説2】トラック20台分! 大量チョコパニック

 人気絶頂期だった1988年のバレンタインデーには、11トントラック4台分(およそ3万個)のチョコがジャニーズ事務所に殺到。翌1989年には、4トントラック20台分のチョコレートが寄せられたという。最寄りの渋谷郵便局には全国から送られた小包が山のように積まれ、パニック状態に。

 ちなみにこのチョコレートの行方は?

タレントとスタッフ、家族に食べられるだけ渡したあと、同封の手紙などを整理し、児童福祉施設や海外の恵まれない子どもたちに送っていたようです」(芸能プロ関係者)

 ワイドショーでも毎年のようにこのニュースが取り上げられ、1995年には「トラック745台分のチョコレート」と報じられた。メンバーがチョコの山を前にガッツポーズする姿なども放送され、盛り上がっていたが、

「その後、別のタレントあてに髪の毛入りの手作りチョコが届くなど悪質な事例があり、ジャニーズ事務所がファンレター以外のすべての『贈り物』を禁止に。現在は、食品などは安全管理上すべて焼却処分にすると発表されています」(ジャニーズに詳しい記者)

 平和だったあの時代だからこそできた人気のバロメーターだったのかも!?

【伝説3】ビデオ10万本のプレゼントに応募殺到!

 1998年、フジサンケイグループがフジテレビ開局30周年&ニッポン放送開局35周年を記念して企画制作した光GENJIのスペシャルビデオ『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』。日本とサイパンでロケが行われ、彼らのプライベートがたっぷり詰まった非売品のプライベートビデオだった。開局記念の品ということもあり、10万本をプレゼントするという太っ腹な企画だったのだが……。「歌番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で応募要項が発表されるやいなや問い合わせが殺到。事務所とニッポン放送の電話はパンク寸前でした」(テレビ局関係者)

 また、「1人で2枚以上ハガキを出したら失格」という厳しい条件があったにもかかわらず、応募総数は250万通をはるかに超える記録的な数字に。ハガキのあて先となった東京中央郵便局も大パニックだったという。たかがハガキ……とあなどるなかれ、もし250万通のハガキを1列に積み重ねたとすると高さは600m、重量は2トントラック4台分になるというから驚き!?

【伝説4】ファンの歓声がすごすぎ! 放送事故寸前

光GENJI

「アイドルがバラエティー番組に出ることなど考えられなかった時代、ファンとアイドルをつないでいたのはテレビの歌番組でした」と話してくれたのは、元ジャニーズタレントで現在は映画監督の東真司さん。特に、ランキング形式で人気曲を紹介する『ザ・ベストテン』(TBS系)や『歌のトップテン』(日本テレビ系)は2大巨頭とされ、1980年代後半、光GENJIも両番組に毎週のように登場していた。

最大のヒット曲となった『パラダイス銀河』や『ガラスの十代』のころには、公開収録に集まったファンの歓声があまりにもすごすぎて、司会者同士の会話もままならず、進行が妨げられてしまうことも。まさに放送事故寸前のレベルでした」(テレビ局関係者)。

 こうした状況を受け、1988年2月22日放送の『歌のトップテン』(和田アキ子・島田紳助司会)では、会場のファンの歓声を騒音計にて測定。なんと100デシベル(当時は100ホン)を記録した。これは電車が走行する際のガード下の騒音に匹敵するレベルだというから驚異的! 当時のファンの熱狂ぶりを象徴するエピソードだ。

【伝説5】日本全国の親衛隊(応援グループ)

 おそろいのハッピとハチマキを身につけ、コンサート会場で応援コールを送る……。アイドルの黄金時代を盛り上げた熱狂的なファン集団といえば「親衛隊」。光GENJIファンも例外ではなく、全国各地に多くの親衛隊が誕生した。

「ジャニーズ事務所から『親衛隊という呼び名はイメージが悪い』というお達しがあり、途中からジャニーズの親衛隊は『応援グループ』という呼称に変わりました。

『大きなグループのリーダーになればタレント本人に会えるらしい』など不確かなウワサも飛び交っていましたが、実際にリーダーはジャニーズファミリークラブから連絡先を聞かれ、多少なりとも情報を与えられていたようです。このシステムが、のちの『オリキ』(“追っかけ”に“力”を入れる、の略語)文化につながったと言われています」(ジャニーズに詳しい記者)

 正確な記録は残されていないものの、「敦啓宗教」、「ピンクシャンパン」、「ZOO」、「メモリーズ」、「ストロベリージャム」、「めるしぃぼく」など多くの応援グループが存在。

中でも大阪の『紫SHIKIBU』は最大の勢力を誇り、巨大グループ『清少納言』と対立していたという都市伝説のようなウワサもあります(笑)」(前出の記者)

 メンバーは、コンサート会場でのスカウトや、雑誌の「応援グループメンバー募集」欄などで集められていた。県ごとに支部も設けられていたというから、一体、総勢何人が参加していたのか……いずれにしてもすごい!

【伝説6】国会をも動かした!?

 光GENJIのデビュー時、赤坂は14歳、佐藤敦啓は13歳。人気が爆発した1988年はふたりともまだ中学生だった。児童の深夜業を禁止する労働基準法(第61条)により、夜8時から朝5時はテレビ、ラジオへの生出演ができず、歌番組では2人が映る収録のVTRを、スタジオで5人が歌う映像と交互に流すなど苦肉の策も。しかし、ときには生放送の歌番組に7人そろって出演してしまうこともあり、曖昧な状態が続いていた。

 結果、1988年6月に労働省の労働基準監督署がジャニーズ事務所へ調査に入る。その後、議論の舞台は国会や関係機関へ。

 最終的に「歌や演技など、他者では代わりができず、人気など当人の個性が重要な要素になっていること、加えて雇用契約などの要件を満たす場合は『表現者』とみなし、労働基準法を適用しない」という「芸能タレント通達」が出された。実質的に当時、人気絶頂であった光GENJIのための通達とみなされ、通称「光GENJI通達」とも呼ばれた。

光GENJI

【伝説7】解散コンサートのチケットに最高100万円!

 1995年9月に行われた光GENJI SUPER5の「卒業コンサート」。「彼らの最後の姿を目に焼きつけたい」と願うファンも多く、名古屋レインボーホール(現在の日本ガイシスポーツプラザ)で行われた最終公演はチケット価格が驚くほど高騰したという。

ダフ屋の扱っていたチケットには最高で100万円もの高値がついたものもありました。それが実際に売れたというから驚きです」(業界関係者)

 当時、主流だった巨大なネームボードやジャンボうちわには「8年間ありがとう」「いつまでも大好き」「またあえるよね」などの文字が躍り、ラスト曲『Graduation』のイントロが流れた瞬間、会場中に響く嗚咽の声。 

 こらえきれずに涙をにじませる赤坂、歌いながら目を押さえる山本、そして挨拶では、最年少である佐藤敦啓が「このステージが終わったら卒業するってことはわかるんですけど……。だったら、このステージはやりたくないなって」と声をつまらせる場面もあった。

 脱いだローラースケートを中央に並べ、ステージから去っていった彼ら。その姿はファンの心に永遠に焼きついている。

間違いなく時代を動かしていた

 当時の彼らはどのような日々を送っていたのだろうか。同期のグループ「忍者」のリーダーであった柳沢超さんはこう語る。

「少年隊のバックについていた時代、ジャニーさんから『ローラースケートの練習があるよ』と声をかけられましたが『ああ、そうなんだ』というくらいにしか感じていませんでした。そこから光GENJIが誕生し、社会現象を巻き起こすほどのグループになるとは思ってもいませんでしたね。

 光GENJIと仕事で同じバスに乗ることもありましたが、高速を走っているバスに、タクシーが何十台もついてくるんですよ。僕たちにも似たようなことをするファンはいましたが、光GENJIはその数がとにかく半端じゃなかったです。あとは、同じ音楽番組に出演したとき、モニターに集まるスタッフの数が忍者と光GENJIでは明らかに違う(笑)というのも肌で感じましたね。

 15歳でジャニーズに入り、30歳そこそこで退所するまでの間、いろいろなアイドルと仕事をしましたが、僕の中で光GENJIほど輝いていた存在はないですね。雑誌も歌番組もステージも光GENJI一色で、間違いなく彼らは時代を動かしていました。あの熱狂を、同じ時代に近くで感じられたのは貴重な体験でしたね。

柳沢超、元忍者
柳沢超(やなぎさわ・すすむ)53歳、元忍者。1990年「忍者」のメンバーとして『お祭り忍者』でデビュー。現在は、ドラマやバラエティー、イベントなど芸能活動を続けながら、アイドルやアーティストの振り付け・演出などを担当。12月19日に東京六本木某所にて「Birthdayイベント 超☆party!2020☆」を開催。詳細は柳沢超ブログ、Twitter(@su_yanagisawa)にて。

メンバーたちは、今

内海光司(52)……現在もジャニーズ事務所に所属。舞台を中心に出演しているが、ペースは1年に1作品程度で、メディアへの露出もほぼない。2020年12月、佐藤アツヒロと大阪、東京にてクリスマスライブを開催予定。

大沢樹生(51)……株式会社ミキオオフィスを設立し、主に俳優として活躍。山梨大使も務める。2016年に諸星とライブ「Resumption 再開」で共演。ソロアコースティックライブの開催など歌手としての活動も続ける。

諸星和己(50)……ミュージシャン、俳優として活動中。2020年2月ミュージカル『Last Shangri-La』出演。2020年から2021年にかけてハワイ、東京、大阪、静岡でのバースデーイベントを予定している。

佐藤寛之(50)……ミュージシャンとしてファンクラブ会員向けのライブを定期的に行う。2020年9月、元忍者・正木慎也とのライブを東京などで開催。2018年、群馬県沼田市の観光協会アンバサダーに就任し、地元ラジオや市主催のイベントなどに出演。

山本淳一(48)……ジャニーズ事務所退所後、会社経営、タレント活動を経て2013年に活動休止。道後温泉のバーで店長を務めていたが、2014年より芸能活動再開。2016年にはプロレスデビューも果たす。近年はファンクラブ会員向けのライブを定期的に行う。

赤坂晃(47)……2007年10月覚せい剤取締法違反で逮捕されジャニーズ事務所を解雇に。自ら立ち上げた飲食店に勤務していたものの2009年に同罪で2度目の逮捕。2015年より芸能活動を再開し、舞台やライブなどで活動していたが、現在は宮古島で暮らし焼き肉料理&BAR「589」を営む。

佐藤アツヒロ(47)……現在もジャニーズ事務所に所属。舞台を中心にテレビドラマやバラエティー番組などにも時折、登場している。2020年12月、内海光司と大阪、東京にてクリスマスライブを開催予定。

そのほかにも……

 紹介した以外にも、彼らの超絶的な人気を表す伝説は多数ある。新幹線での移動時には、ホームの端から端までファンがびっしり。また、地方コンサートでホテル宿泊の際には、エレベーターホールや非常口にまでファンが詰めかけていたという。「一歩も外に出ることができずカンヅメ状態。人気絶頂の当時は、まったく遊ぶこともできなかったようですよ」(前出の東真司さん)

 1988年、当時中学3年生だった赤坂、佐藤敦啓が修学旅行に参加した際にも、京都駅や東京駅の構内に数百人のファンが詰めかけ、鉄道警察隊が動員される騒ぎに。「東京駅では郵便物の搬送用通路を通って駅から脱出することとなり、その姿は写真週刊誌でも報じられました」(芸能プロ関係者)

 人気者ゆえの宿命と言えなくもないけれど……。

(取材・文/平松優子)