川崎麻世 撮影/伊藤和幸

「ジャニーさん、メリーさんにずっと申し訳ないという気持ちがありました」
 
 そう語るのは、川崎麻世(「崎」は正しくは「立さき」)。
 
 ジャニーズ事務所を離れて30年。昨年7月に亡くなり、同9月に東京ドームで行われたジャニー喜多川さん(享年87)のお別れ会に出席。そこで、1989年に退所して以来、顔を合わせることができなかったメリーさんに謝罪した。

 川崎は当時、交際していた恋人のカイヤさんが妊娠、マスコミなどの喧騒を避け、静かな環境で出産させたいとアメリカ行きを決断。13歳でデビューした大阪出身の川崎にとって、ジャニーさんとメリーさんは“東京のお父さん、お母さん”という存在で「大事にしていただいたので、感謝しかないです」。

 そのふたりに酷な報告をし「すごいショックを受けていました」。光GENJIが人気を集めていたころで、後輩たちへの影響やアイドル事務所のイメージを考慮、話し合いの末に退所した。
 
 退所後は、舞台やミュージカルを中心に活動。ジャニーさんやメリーさんに連絡をとることがないまま、月日が流れた。
 
 あるとき劇場で偶然ジャニーさんと会い「YOU、元気? たまには電話しなよ」と声をかけられ、電話番号を交換。しかし、「何を言ったらいいのかわからないし、いまさら“ごはん連れてってよ”とも言えない」と連絡をすることができないままになっていた。

スカウト翌日に野音に出演

 川崎はデビュー前、大阪のテレビ番組にレギュラー出演し、大好きな西城秀樹さんの歌フリまねが評判になっていた。作曲家の平尾昌晃さん主宰の歌謡教室に通っていて、夏休みにCM撮影で上京した際に、平尾さんからジャニーさんを紹介され、スカウトされた。

「合宿所に遊びに行ったら“YOU、野外音楽堂に出ちゃいないよ”と言われて、翌日には日比谷の野外音楽堂で歌っていました。(東京にいた)1週間、ジャニーズのタレントとして紹介され、ドラマやバラエティー番組の出演が決まっていった」と川崎。
 
 夏休み後、再び上京。正式にジャニーズ事務所所属となり、'77年に歌手デビューした。4人組のフォーリーブスが解散( '78年)し、看板アイドルになったが「事務所が氷河期みたいな時期だった」と振り返る。

 20歳を迎えたころ、後輩のたのきんトリオが大ブレイク。
 
 川崎は「アイドルにしがみついていてもダメ。ステップアップしたい」と、子どものころから夢見ていたミュージカルに挑戦し、オーディションで劇団四季の『キャッツ』や、海外ミュージカル『スターライト・エクスプレス』への出演を射止めた。

 ジャニーさんは「武道館を一夜にして満席にするよりも、ひとつの劇場を毎日、満席にする役者になってほしい」と応援、メリーさんは「オーディションを受けなさいよ。麻世が、そのための勉強に使うお金は惜しくない」とバックアップしてくれた。

メリーさんからハグとキス

 心残りを抱え続けていたなかで届いたジャニーさんの悲報。お別れ会でのメリーさんとの逸話を明かした。

「ちゃんと謝りたくて、メリーさんに本当にごめんなさい。かわいがっていただいたのに、いろいろとご迷惑をおかけしました」と、頭を下げた川崎に、メリーさんは「そうよ。でも頑張りなさいよ。今度、行く?」と飲む仕草をした。

 そして、川崎を近くに寄せ、ハグと頬にキスをしたという。「メリーさんが“I LoveYou”と言ってくれて……。ドーンと肩の荷が下りました。ジャニーさんが、そういう機会を作ってくれた」と目を潤ませた。

「外の厳しさを知って、自立して生きていくことができたので(退所は)後悔してないです。(最近、ジャニーズ事務所を退所した後輩たちには)大人になって、新しいことにチャレンジしたいとうずうずしているんじゃないかな。それぞれの生き方があるけど、心の中にはジャニーさんへの思いがずっとあると思います

川崎麻世(かわさき・まよ)
 ジャニーズ事務所退所後、30年所属した事務所をやめ今年7月、新事務所に移籍した。「(コロナ禍の)ホームステイ期間中にいろんなことを考えての決断です。令和の時代を生き抜きたいなと思い、間口を広く活動したいです」。これまでは舞台中心だったが、映像にも意欲的で、初主演映画『ある家族』が来年6月公開予定。舞台『夜明けのうた』(来年1月17日~東京・渋谷区文化総合センター大和田さくらホール)に出演