仏壇に手を合わせる宮沢みきおさんの母・節子さん

「犯人逮捕をお土産に5人のお墓に入りたい……」
 東京都世田谷区の会社員、宮沢みきおさん一家4人が殺害された事件は、未解決のまま昨年12月30日で20年たった。ある日突然、被害者遺族になってしまった母・節子さんがこれまでの無念の思いを明かしてくれた──。(取材・文/水谷竹秀)

現場の家に近づくのが「怖い」

 20年ぶりに遠くから眺めた息子一家の自宅は、当時の記憶のままだった。

「傷んでいるとか言われていましたが、そんなに変わっていないなあと感じました。事件の進展がない中、4人がいないのはすごく寂しい。そんな思いで見つめていました」

みきおさん一家を描いた絵

 東京都世田谷区上祖師谷にある区の施設で昨年暮れ、宮沢節子さん(89)は、その小さな身体から声を絞り出すように語った。

 節子さんのひとり息子、みきおさん(当時44歳)、妻の泰子さん(同41歳)、孫のにいなちゃん(同8歳)と礼君(同6歳)の一家4人は、2000年12月30日深夜から翌未明にかけ、この施設の近くにある自宅で、何者かに殺害された。最初に礼君が絞殺され、続いて、みきおさんら3人は柳刃包丁などで刺殺された。

 大みそかに日本社会を震撼させた「世田谷一家殺害事件」。犯人は現在も見つかっておらず、警視庁は有力情報提供者に懸賞金上限である2000万円をかけている。

 節子さんは毎年この時期になると、追悼集会のために自宅がある埼玉県から世田谷区へ足を運んでいたが、現場の家にだけは近づけなかった。

事件現場。現在は塀で囲われて出入りできないようになっている

「怖いんですよ。事件前、週2回、家に通っていたんですが、孫たちが『ちっちゃいおばあちゃん!』って飛んできていましたからね。必ず『ちっちゃい』ってつけるんです。その姿がもう見られないのを確認するのがつらくて」

 当時、泰子さんは自宅で塾を経営しており、塾の日にあたる月曜、木曜の週2回は、節子さんが孫の面倒を見ていた。

「教室のほうへ泣き声が聞こえたりするといけないから、近くの公園まで行って2人を遊ばせていたんです。そのころの楽しい思い出が蘇ってくると、悲しくなっちゃう。だから家には近寄れない」

 昨年末はコロナで集会が中止されたため、施設では代わって、メディアへの個別会見が開かれた。主催した殺人事件被害者遺族の会「宙の会(そらのかい)」(東京都千代田区)の役員関係者がその日の朝、節子さんを家の近くまで連れて行ったのだ。

「柵があって入れませんでした。だから中までは全然見ていません。ちょっと行って帰ってきただけです」

 あれから20年──。

 どれほどの歳月が流れようとも、まるで時間が止まったかのように、節子さんは変わらぬ思いを引きずっていた。

証拠多数残るも動機不明

 発生当時、現場からは犯人の指紋や血痕のほか、犯人が脱ぎ捨てたトレーナー、靴、帽子などの衣類一式、犯行に使われた柳刃包丁など多くの遺留品が見つかった。

 犯人はA型で身長170センチ前後の比較的若い男とみられている。DNA型鑑定の結果、父系が東アジア系民族、母系が欧州系(地中海)民族であることがわかっており、警視庁は、「アジア系含む日本国外の人」および「ハーフの日本人」の可能性も視野に捜査を進めている。

 犯行後、犯人はそのまま長時間現場に居続け、冷凍庫に入っていたカップのアイスクリームを素手で絞り出して食べたり、みきおさんのパソコンでインターネット検索をするなど、その異様な行動に注目が集まった。それだけ証拠が残っていながら、犯人の侵入経路はわかっておらず、事件は迷宮入りした。

 当時、捜査を指揮していた警視庁元幹部は語る。

「普通の犯人ならば、現場に長時間居座るなんて考えられない。目的を達していないことの表れだ。そこには犯人しか知りえない動機があるのだが、それが解明されていないから、捜査に混乱が生じるのです」

 現場となった一軒家は現在、公園の側にぽつんと立っており、ひび割れなどの経年劣化がみられる。周囲にはフェンスが張り巡らされ、近くにある電話ボックス大の詰め所は昨年2月、捜査本部が置かれた警視庁成城署の署員が引きあげたため、中には誰もいない。公園でスケボーなどを楽しむ若者たちの声がこだまする中、その一角だけは、薄気味悪いほどひっそりしていた。

事件現場。現在は塀で囲われて出入りできないようになっている

 息子をすべり台で遊ばせていた会社員の男性(40)は、こう素直な気持ちを語った。

「あの家が事件現場だというのは知っていますが、公園に通ううち、その感覚は薄れていきました。取り壊すか否かの問題がありましたね。証拠はもう出てこないだろうから、何のために残しているのかという疑問はあります」

 現場の一軒家は昨年1月に取り壊される方向だったが、事件の風化を恐れた遺族の意向で、延期された。

事件後になくなった記憶

 あの年のクリスマスパーティーは、イブより1日早まり、12月23日に開かれた。

 世田谷の家に集まったのは、節子さんと夫の良行さん(享年84)、みきおさんをのぞく一家3人の計5人。外資系企業に勤めていたみきおさんは仕事で不在だった。節子さんが回想する。

「いちごがのせてあった丸いデコレーションケーキを、にいなと泰子さんが作ってくれたんです。ごちそうになった後、おじいちゃん(良行さん)を頼むよって別れました」

節子さんの仏壇には、にいなちゃんと礼君の可愛い写真がたくさん飾られている

 節子さんは、義兄の世話をするため、実家の岩手県に帰省した。良行さんは埼玉県の自宅に1人残されるため、面倒をみるようお願いしたのだ。

 年越しの準備をしていた12月30日夜、親戚の1人が突然、実家へ慌てて訪ねてきた。

「すぐに帰る準備をしろ!」

 そう伝えられた節子さんは、何が起きたのかわからないまま親戚たちと一緒に急きょ、東京へ車で向かった。その途次、ラジオで事件の報道が流れた。

「聞いているとうちのことじゃないかとは思ったんですが、車中でみんな黙っていて、ひと言も発しなかったんです」

 重苦しい空気が流れる長時間のドライブを経て、埼玉県の自宅に到着したのは、年が明けた後だった。そこに良行さんの姿はなかった。

「2階の部屋でみんなが私を寝かせようとしたんですが、そこから何も覚えていないんです。お葬式もちゃんと参列してたよって言われるんだけど、全く記憶がないんですよ」

 親戚の1人が発生から1か月ほど自宅に残ってくれたが、その記憶もおぼろげだ。

 節子さんは、手帳に簡単な日記を毎日つけていたが、その年は白紙だったという。

「夫は事件に関する話は家では一切しませんでした。私に考えさせたり、思い出させたりするのが嫌だったんじゃないかと思います」

 メディアへの対応を含めた対外的な用事は、良行さんがすべて対応した。講演などの行事には一緒についてはいくが、節子さんが表に出ることはなかった。2009年、良行さんを初代会長とする「宙の会」が結成され、翌年には公訴時効制度の撤廃を実現させた。ところがその2年後、良行さんが他界。その代わりを節子さんが務めると、隣近所から「お宅だったんですね」と声をかけられるようになった。

19日、節子さんは記者会見を行い、約20年ぶりに現場付近を訪れた

「自分が対応して初めて、夫にだけ大変な思いをさせていたんだな、つらかったんだなって。その気持ちがようやくわかるようになりましたね」

 良行さんがいたころは毎月、4人が眠る墓に車で通ったが、現在は、良行さんを含む5人の誕生日に、電車を乗り継いで通っているという。

毎年行う「儀式」

 台所の冷蔵庫に貼ってあるカレンダーの日付欄には、ボールペンで斜線が引いてある。事件後しばらくしてから、節子さんが自宅で毎晩、行っている「儀式」だ。事件の進展を知らせる警察からの報告がないと、毎日午前0時を過ぎた段階で、その日にボールペンで斜線を引く。

「警察から『今日捕まりました』という連絡が来るかなと思っている間に、夜更かしするようになり、それが習慣になって今は寝られないんです。そればかり考えて、待って待って待っているうちに、20年がたってしまいました」

みきおさんの母・節子さんは毎日、台所に飾るカレンダーの日付欄に犯人が捕まらなかった印として斜線を入れている

 自宅には警視庁から返却された遺品など思い出の数々が眠っている。物作りが好きだったというみきおさんが小学生のときに作った瓶細工や恐竜のおもちゃ、孫2人と一緒に公園で拾ったどんぐりの瓶詰め、にいなちゃんの同級生から届いた手紙、一家4人の写真が描かれている食器……。

 にいなちゃんが直前まで使っていた赤い筆箱は、ところどころはげ落ちているが、開けると年明けの3学期を待ち望んでいたかのように、鉛筆5本がきれいに削られていた。

「毎日学校へ行く前に削っていたんだなっていうのがわかりました。こういう遺品を見ていろいろ考えると、頭がおかしくなるっていうか、本当に気が狂いそうになります」

にいなちゃんの筆箱。きれいに鉛筆が削られている。冬休み明け、学校に行くのを楽しみにしていた少女の希望は突然犯人によって打ち砕かれた

 仏壇のある和室の床の間では、長期休みで泊まりに来たにいなちゃんがよく歌を歌っていた。そこには今、片目だけ墨が入っただるまが5体、並んでいる。事件を担当した女性警官が退職後も嘱託で残ることになり、5年間、毎年だるまを持ってきてくれたのだという。しかし両目になる日は、ついぞ訪れなかった。

 節子さんが胸中を吐露する。

「どうして子どもまでもが……。何でこんなことが起きたのか理由がわからない。教えてほしい。目的も全然わからない。せめて私が生きている間に、なぜ起きたのかについては知りたいです」

 節子さんはひとり暮らしを続けているため時折、思い詰めそうになるが、いつかの日を信じて、生き抜いていた。

「私がくじけたらダメっていうか。犯人逮捕や事件が起きた理由を知って、それを土産に5人のお墓に入るのが希望なんです。せめて最後まで残った私が、それだけでも、あの子たちに報告できたらと。あんなに隠れてばかりいた私も頑張ったんだよって言いたいですね」

 そう語る節子さんの背中は小さく、すっかり曲がってしまったが、はっきり受け答えするその声色には、強い使命感のようなものが宿っていた。そんな「ちっちゃいおばあちゃん」は半年後に90歳。今日もまた、カレンダーの前で待ち続けている。

水谷竹秀●ノンフィクションライター。1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。近著に『だから、居場所が欲しかった。 バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社文庫)など。