岩崎宏美

 2020年でデビュー45周年を迎えた岩崎宏美(62)。昨年12月には2枚組のベストアルバム『LIVE BEST SELECTION 2012-2020 太陽が笑ってる』を発売し、4月から延期となっていた45周年記念コンサートもようやく実現。この模様を収録した映像ソフトが、今年3月24日に発売となる。出産や育児、ポリープの手術、さらに、このコロナ禍などで一時的にペースがゆるやかになった時期はあるものの、45年間にわたって歌手活動を続けているのは見事だ。「アイドル出身の女性歌手で、還暦を過ぎても現役」という点で、彼女は類まれな存在だろう。

紅白歌合戦には14年間連続で出場

 岩崎の代表曲といえば、火曜サスペンス劇場の初代エンディングテーマと曲となった壮大なバラード『聖母(マドンナ)たちのララバイ』(1982年)、売上枚数が約89万枚(オリコン調べ)となり自己最高を記録した『ロマンス』('75年)、そして'77年の発売ながら、今でも秋になるたびテレビやラジオで頻繁に流れる不朽の名作『思秋期』など。近年における昭和歌謡の特番などで彼女を知った若い世代にとっては、この3曲だけがヒットしたという認識かもしれない。また、平成でもっとも歌われた昭和の女性歌唱曲(JOYSOUND調べ)となった『タッチ』('85年)を歌う、妹の岩崎良美のほうになじみがある読者も多いだろう。

 しかし、宏美はシングル2作目の『ロマンス』から12作連続でオリコンTOP10入りを果たし、春の“センバツ”の入場行進曲に女性ソロで唯一、2度選出され(『センチメンタル』と『聖母たちのララバイ』)、NHK紅白歌合戦には、出産および育児で欠場するまで14年連続で出場するほどの、長期的なヒット歌手なのである。

 さらに、'80年代に「最近の若い人は基礎がなっていない。歌手ではなく“カス”だ」と一刀両断してきたシャンソン歌手の淡谷のり子や、著書で大半の歌手を猛烈に批判した指揮者のダン池田からも、若いころから“例外的にうまい歌手”だと認められている。また、'20年に放送されたバラエティー番組『林修のニッポンドリル』(フジテレビ系)では、絶対音感を持つボイストレーナー100人が厳選した“本当に歌がうまい国宝級歌姫ランキング”で7位に入り、還暦を越えた現役歌手の中で最高位をマークするなど、実力と実績が伴う数少ない存在なのだ。

 そんな正統派の歌手である宏美だが、本人のキャラクターはまさに竹を割ったようにサバサバとしている。それでいてユーモラスで、人情深くもあり、まさに生粋の江戸っ子を思わせるような“男前”であることが、CDのセルフライナーノーツやコンサートのMCからも垣間見ることができる。彼女自身も「歌ったり、ステージでドレスを着たりしなければ、自分は男じゃないかと思う」と語っているほどだ。ここでは、正統派として語られない部分の、いわば“裏面のエピソード”を年代ごとに振り返ってみよう。

1. 「輝け!日本おてんば大賞」('70年代)

 宏美は中学のころから、オーディション番組『スター誕生!』でも辛口コメントで挑戦者たちを泣かせまくったソプラノ歌手の松田敏江に師事してきたが、その一方で剣道を習い、3歳下の妹・良美を引き連れ、近所でもガキ大将的な存在だったという。

 そのかいあって(?)、'75年にテレビ番組の企画『日本おてんば大賞』で優勝を果たす。これは山口百恵、桜田淳子、片平なぎさ、伊藤咲子、黒木真由美といった当時のアイドルたちが棒高跳びや腕相撲、ボール投げ、トイレットペーパー早巻き対決などを競う企画で、岩崎はその大半で好成績となったのだ。特に棒のぼりでは「“あーん、登れなーい”という周りの女子たちの手前、“このへんでやめておこう”と思ったのに、結果的にダントツとなった」らしい。かくしてデビュー後、岩崎が最初にもらった賞となり、今でもコンサートなどで話のネタとして観客を和ませている。

 なお、かつて宏美はレコード会社の決算期に合わせて毎年のように発売されるベストアルバムについて「同じようなベストばかり出すなんて、ファンの人たちのことをどう思っているの!?」と会社のディレクターに対してすごい勢いで怒ったこともあるそうで、こうした正義感の強さも、まさに昭和のガキ大将気質そのものだろう。

恍惚とした表情を浮かべファンの前で熱唱する岩崎宏美
桜田淳子や森昌子らと共演する岩崎宏美

歌い継がれるうちに当時より人気が上昇

2. 「『シンデレラ・ハネムーン』はコロッケにあげました(笑)」('80年代)

 14作目のシングル『シンデレラ・ハネムーン』('78年)は作詞:阿久悠、作曲・編曲:筒美京平というゴールデンコンビによる楽曲。「♪日暮れに始まり 夜更けに別れる〜」という、何やらわけありの男女の恋をディスコ調に歌ったアッパーチューンだ。岩崎宏美ならではのダイナミックな歌唱や、手をぐるぐる回す派手な振り付けが印象的で、その年の紅白歌合戦で見せた超早回しでのパフォーマンスは、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブが語り草にするほど。だが、当時はオリコン最高13位にとどまり、レコードの売り上げも岩崎の中で17番目(累計約15万枚)と、決して高くはなかった。

 しかし、'80年代前半に、コロッケがあごを突き出して得意げに歌い踊るというモノマネを披露して、お茶の間の人気が急上昇。そのあおりを受け、宏美のコンサートではこの曲の♪チャラチャチャチャーンというイントロが鳴るだけで、客席からクスクスと笑い声が上がるようになり、以降は岩崎も「『シンデレラ・ハネムーン』はコロッケにあげました(笑)」と言って、'00年代に入るまでコンサートでは封印していた。

 現在は黄色いハチマキを巻いた親衛隊のかけ声を伴って、大半のコンサートでクライマックスを盛り上げるとても重要なナンバーで、カラオケ人気も岩崎の中で4番手と非常に強く(JOYSOUND、2020年調べ)、当時の売り上げよりも、歌い継がれることの重要性がよくわかる。なお、かつて良美がコロッケに向かって「お姉ちゃんは、そんな顔をしていないもん!」と怒って反論した、という姉妹愛の強さを示すエピソードもつけ加えておこう。

3. 離婚後、シティポップのアルバムとミュージカルの薄幸な役で奮闘('90年代)

 岩崎は'70年代に阿久悠、筒美京平、三木たかしなど歌謡曲の重鎮たちが手がけたヒット作を数多く歌い、'80年代には『聖母たちのララバイ』をはじめとする大人のポップスや、2枚の海外録音アルバム(うち1枚はデヴィッド・フォスターやスティーヴ・ルカサーなど有名ミュージシャンが多数参加)を発表。さらに'88年に結婚してからは『誕生』『家族』『きょうだい』というタイトルがついた胎教・育児系の三部作を発表したのち、'95年に離婚した('09年に再婚)。

 その後、2人の子どもとは離れて暮らすこととなり、会えるのは2か月に一度の面会のみで、寂しさのあまり子どもたちの住むマンションの下まで車を走らせて泣いた日々もあったようだ。

離婚会見で報道陣に囲まれる岩崎宏美。表情には疲れもうかがえる

経験を糧に着々とスキルアップ

 そして、この時期に発表されたのが『SHOWER OF LOVE』('97年)というアルバム。角松敏生や吉田美奈子、SING LIKE TALKINGの佐藤竹善や藤田千章らが参加して、宏美が軽やかなシティポップやAORサウンドに挑んでいる。繊細な声でつぶやいたり、裏声を多用したりして、くつろいで聴ける曲が多いのも特徴だ。

 また、9年ぶりにミュージカル『レ・ミゼラブル』に出演。子どもと一緒に暮らせなくなる母親の役を自らの体験を通して演じ、最大の見せ場である『夢やぶれて』での絶唱が大きな評判となった。現在は2人の子どもとも自由に交流しているそうだが、彼女の歌がより慈愛に満ちた深いものとなったのは、この'90年代のつらい体験があったからだろう。

 '00年代以降は、ポリープの除去や更年期障害、甲状腺障害などさまざまな困難を乗り越えながらカバー・アルバム『Dear Friends』('03年)を発表し、これまで8作も続くほどの人気シリーズに。近ごろでは「のどにも寿命がある」ということを悟り、デビュー時のような強く張った高音は出さなくなったかわりに、筒美京平が早くからその魅力を見抜いていた響きのある低音から、離婚後に多用しはじめた優美に包み込むような裏声まで、幅広い音域を駆使するように。さらには歌謡曲のみならず、クラシックやジャズのアーティストとの共演を成功させるなど活躍の場を広げ、還暦を過ぎてもなお、歌い続けている。

 近年、昭和歌謡が再評価されているなかで、山口百恵、太田裕美、西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎らトップクラスとともに名前が挙がるのが岩崎宏美だと言えるだろう。

 当時の楽曲は歌詞もメロディーも口ずさみやすく、決して言葉や音符の数が多くはなくとも深い魅力を生み出していたのは、どの曲もドラマ性のある歌声で歌われていたからだ。逆に、岩崎宏美が近年のJ-POPをカバーするとしたら、そのドラマティックな歌声を味わう余韻なく言葉が詰め込まれることで、ときとして情報過多になってしまうのではないだろうか。

 だからこそ昭和歌謡は魅力的であり、それを忠実に歌い継ぐことのできる数少ない伝道師として、今後も岩崎宏美の活躍を祈っている。なんなら、紅白歌合戦にも30年以上ぶりに復活してほしいくらいだ。この歌謡曲ブームで、そんなふうに願う人がもっともっと多くなることを大いに期待している。

(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)