現在、全国に100万人いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は今年初めて、40歳以上が対象の調査結果を公表した。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。(ノンフィクションライター・亀山早苗)

※写真はイメージです

新舛秀浩さん(38)のケース

 小学校6年生のときに始まった不登校。以来、どんなにがんばっても順調に学校へ通うことができなかった新舛秀浩さん(38)。だが彼は今、両親の理解と地域とのつながりによって、「とても幸せな毎日です」と穏やかな笑顔を見せている。

 ごく普通のサラリーマン家庭に生まれた。母は彼が小学3年生のころから地元で書道を教えていた。4歳年下の弟との4人家族である。

小6で心身の調子を崩し、学校へ行けなくなる

 両親から何ら圧力を受けることもなく育った。小学生のときはスイミングスクールと公文の教室に通い、地元のサッカーチームにも所属していたが、週末がつぶれるサッカーはあまり好きではなかったという。

「どちらかといえばクラスの中ではおとなしい子だったと思います。仲のいい“いつもの”友達とだけ一緒にいるようなタイプ。弟の友達などを引き連れて“ガキ大将”みたいになっていた時期もあります。学校ではゲームが流行っていたので、僕はあまり好きではないのに話を合わせるためにやっていたこともある……という感じですね」

 少し神経質かもしれないが、どこにでもいる子だったのだろう。だが、小学6年生の5月に少しうつっぽくなって、心身の調子を崩し、学校へ行けなくなった。

「両親がパニックになっていたのは記憶にあります。小児精神科へ連れて行かれ、少し薬を処方されたのかな。それ以外にどういう治療をしたのかはよく覚えていませんが、夏休み明けにはまた普通に、学校へ行けるようになったんです」

 次に不登校になったのは中学2年生のとき。学校が荒れていたこと、そして、もともと人間関係をつくるのに時間がかかるタイプなのに毎年クラス替えがあったことなどから、少しずつ学校へ行く意欲を失っていった。

「その学校の荒れ方はかなりひどかったんです。ゴミ箱の中はタバコの吸い殻であふれているような……。まったくなじめなかった。先輩後輩の上下関係や体育会系の雰囲気も苦手でした」

 中学1年の半ばから、急にいじめられるようになった。原因はよくわからないという。

不登校を責めずにサポートした両親

「気が弱くて言い返せないのに、どこか目立ちたがり屋みたいなところがあって、調子に乗るとすごくしゃべったりしていたからですかねえ。周りから見たらうっとうしかったのかもしれない。頭を叩かれたり、音楽教室へ移動するとき音楽の教科書をボールみたいに蹴られたりして、僕があわてて追いかけることがありました。

 そういうことが続いて、中2のときの林間学校に行けなくなってしまったんです。その後、もし学校へ行ったら“あいつはマザコンだ。だから親から離れて林間学校に行くことができなかったんだ”と言われるとわかっていたので、そのまま不登校になったんです。

 ちょうど親が家を買う時期と重なったので引っ越したんですが、すでに人間不信になってしまっていたので、新しい中学には1日しか通えませんでした。同級生とうまくやる自信をなくしていたんです

 家にひきこもる日が続いた。落ちこぼれた、先がないと絶望感にも見舞われた。当時は不登校からのリカバーの方法がわからなかったのだ。それでも自室にひきこもることなく、家族とは一緒に食事をしたという。両親がまったく彼を責めなかったからだ。母親は市が主催する親の会に通いながら、不登校に関して知識を得て、本人を焦らせることはなかった。自宅にメンタルサポートの担当者がやってきたこともある。当初は会うことを拒否した新舛さんだが、そのうち会って話せるようになった。

「その後、父親がうつっぽくなって会社へ行くのがつらそうな時期があったんです。父はその経験から僕のことも理解してくれて、サポートしてくれるようになりました。周りが理解してくれたので、僕自身は自分のしたいことをしていいと思えた。とはいえ思春期で、本当はカッコいい自分を演出したい時期でしょ。だからつらい気持ちを親にストレートにぶつけることはありませんでした」

家庭教師に感化されてマスコミ志望に

 高校へ通っているはずの10代後半、彼は新聞や雑誌を通して世の中を見ていたという。

 政治や事件など、あらゆる出来事の原因と経過を考えるのが好きだった。ただ、今思えば自分のことをわかっていなかったような気もすると話す。

「当時は冷静で客観的な気持ちでいましたが、実際は不登校であることを自分自身がいちばん受容できていなかったかもしれない。親は最大限、僕の主体性を尊重してくれていました。ただ、僕自身が自分の置かれている状況をきちんと把握できていなかったので、不登校の人たちが通う通信制高校や大検に関しては嫌悪感を持っていたんです」

 不登校であることを認めたくない気持ちと、不登校であるがゆえに何者にもなれないという不安が交錯していた10代後半。社会の背景を知りたいという彼の願いを聞き、親が家庭教師をつけてくれた。そして、慶應大学に通っていた家庭教師に感化されてマスコミ志望となる。自分が影響を受けた新聞という媒体で、記事を書いてみたいと考えたのだ。

理想とかけ離れた4年遅れの大学生

 19歳で不登校を解消しようと高校に進学したが、卒業までに3年かかる。早く大学に行きたかったので中退して、まずは大検に合格した。どんなに遅れても大学に入ろうと決意し、そこから猛勉強が始まった。

「ぎりぎり10代で目標を見つけてひきこもりから脱し、毎日、図書館に通いつめて6時間くらい勉強しました。体力もつけないといけないから自転車で2時間くらい走り回って。遅れはしましたが22歳でようやく大学に合格したんです。4年も遅れたからにはいい大学に行かなければと思いましたが、合格したのは理想よりずっと低い偏差値の大学でした」

 通い始めてはみたものの、学生たちも教授たちもモチベーションが低いようにしか見えなかった。「年齢的なこともあるし、この大学を出ても就職などできそうにない」と思うと、一気に気力が失われた。通うには遠すぎたことも一因だ。

 最終的に、やはり「ここは合わない」という思いが強まる一方だった。合わないと感じるとそれ以上、無理を重ねられないのだろう。

 半年で通えなくなり、1年で退学したときは落ち込んだ。

「やっと不登校から脱してあんなにがんばって大学に入ったのに、すべてが水の泡になってしまった。社会的地位を求めることはもうできない。恋をすることもパートナーを見つけることもできないだろう。友達すらできなかった。誰にも認められないまま生きていくしかないのか、と葛藤というより、絶望に近いものを感じました」

 精神科に行ってみると「メインの病名は適応障害、サブに広汎性発達障害」と診断された。クラス替えをするたびに人間関係が築きにくかったのも、理想と違う大学で「合わない」と思うと通えなくなるのも、適応障害だったからかもしれない。

人とのつながりで新たな人生が開けた

 それでも彼の「学びたい」意欲は強かった。「いい大学へ」というプライドや見栄よりも、「何かを学びたい」気持ちが勝ったのだ。純粋に学ぶことを考え、インターネットですべて学べる文部科学省認可の八洲学園大学に入学、生涯学習学部で教育を中心に人文科学を勉強した。

 一方で精神科に通いながら、NPO法人『メンタルコミュニケーションリサーチ(MCR)』という不登校やひきこもりへの支援を行っている団体に自宅訪問をしてもらっていた。そこからだんだんと地域のコミュニティーとつながりを持つようになっていく。

 地域若者サポートステーション、通称サポステともつながった。15歳から39歳の若年無業者の自立支援において、実績やノウハウのある団体を厚労省が認定、事業を委託して実施されている。現在、全国におよそ160か所あり、新舛さんも居住地近くのサポステとつながった。

 彼はさらにNPO法人『アンガージュマン・よこすか』で、元公立中学の教師である滝田衛氏と知り合う。のちに滝田氏が『子ども若者応援団』を設立したときは、当初から在籍し、応援団の通信における編集長を任された。

「次から次へと人とつながることで、新たな人生が開けたような気がします。特に、子ども若者応援団通信の編集長と言われたときは本当にうれしかった。やっと人に認められたと思いました。本当は慶應大学に行きたかったのに行けなかった、せっかく入った大学も中退してしまったなど、自己評価が下がってばかりだったので承認欲求が非常に高まっていたんだと思います」

専業主婦の言葉に救われて

 そうやってさまざまな団体でさまざまな人とつながっていく中で、彼は自分と同じような不登校の当事者や親たちとも知り合っていく。かつての自分と同じように学校へ行けないことで苦しんでいる子どもたち、そういう子どもを持つことで苦しむ親たちに向けて、自分が何かヒントになるような話ができるのではないか。ひきこもる人たちにも何か伝えることができるのではないか。そう思って講演活動も引き受けるようになった。

「最初は人前でしゃべるなんてと思っていたんですが、小学生時代、朝の学活でみんなの前で歌を歌ったり何かをひとりで話したりするのはけっこう好きだったと思い出しました。それで地域のひきこもり関係の講座で話したりするようになったんです」

 同時に知り合った人に「僕はひきこもりだったんです」「今でもお金を稼げていないんです」と自然に言えるようになった。

「そうしたら、ある専業主婦の人が、“私だって稼いでないわよ”って。それを聞いて気が楽になったんですよね。この地域では多様性を認めてくれる人が多くて、ひきこもっていたと言っても“いろんな人がいていいんじゃない?”という感じ。それでも一緒に市民活動をやっていこうと仲間に入れてくれる。だから僕、今はとても充実しているんです」

引きずり出しただけではダメ

 長い時間はかかったが、彼自身が「価値観」を変えていった。親も周囲もゆっくりとそんな彼を見守っている。彼は関わっている地域の人たちのことを生き生きとした表情で話す。自分の居場所を作り、受け入れられ、徐々に「ひきこもって、一流大学に行けなかったダメな自分」というレッテルを自ら剥がしていけたのだろう。

「僕自身が今、不登校やひきこもりについて話すとき、いつも思うのは引きずり出しただけではダメだということ。周りがきちんとその人を認め、本人が何でも話せる仲間を得る。情報もふんだんに手にする。そこからようやく学校へ行くとか働くとか、活動ができるようになるんだと思います」

 最近、彼はまたひとつ居場所を見つけた。地元の『30’s』という30代の人たちが集う活動だ。夜回りパトロールをしながらのランニングや、街のゴミ拾い、ときには仲間でバーベキューもする。主宰者も新舛さんのような不登校からのひきこもり当事者や、他のマイノリティーに対して、非常にフラットに接してくれるのだそう。

「この活動が楽しいんですよ」

 新舛さんは晴ればれとした笑顔で言った。

 私が彼に会ったのは、彼の地元近くのコミュニティーセンターだ。帰りに駅までバスに乗ろうとバス停で待っていると、同じように待っていた老夫婦に話しかけられた。「昨日はあったかかったのに、今日は寒いですね」と。なんということのない世間話だが、ふわっと心が温まるのを感じた。都心ではたとえバス待ちをしていても、知らない人に話しかけられることはめったにない。東京から遠くない神奈川県なのだが、高い建物などないのんびりした地域なのだ。ここで新舛さんがゆっくりと自らを取り戻し、そして人と切磋琢磨して成長していっていることが腑に落ちる気がした。

(※『週刊女性』2019年8月6日号に掲載、年齢は当時のものです)


かめやまさなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆