おりも政夫。近年はスター合同の『夢コンサート』で江木とともに全国を回っている。歌も司会も健在でライブ配信も行っている

 かつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、そして当時は言えなかった本音とは? 第20回は、ジャニーズアイドルの礎を築いたグループ『フォーリーブス』のメンバー・おりも政夫(67)。後輩たちとの思い出話など、当時のトップアイドルが語るエピソード。

ジャニーズアイドルグループの礎

 フォーリーブスがデビューしたのは'68年。ジャニーズ事務所の基盤を築いた超人気アイドルグループだった。

「テレビ全盛期だった当時は1日に4本、5本の歌番組出演は当然のこと。アイドルブームの草分けだったから、とにかく引っ張りだこでしたね。テレビ局にはたくさんの出待ちファンがいて、送迎の車がファンたちに押されて浮き上がることも。“追っかけ”という現象を作ったのは、実は僕たちなんです」

 今と違ってコンプライアンス意識は低かった。

「雑誌にタレントの住所が載っていて、僕の家に来ればお茶も出てくる(笑)。遊びたい盛りでしたけど、爽やかなイメージは守ったつもり。でも、当時の25歳というと、もうアイドルじゃなくなってくる。メンバーの青山孝史は'77年に26歳で結婚しました。やっぱりアイドルは結婚しちゃダメでしたね。今は結婚してもアイドルができる時代ですけど、当時は、ね」

 時代の変化に応じて、アイドルの意識も変わらなければならないと言う。

僕も若いころは遊んでいたし、彼女もいた。マッチも独身のときにさんざん遊んだんだから、身を納めるべきでしたね。アイドルというイメージでやっていて既婚者なんだから、そこは襟を正しておかなきゃダメです

 フォーリーブスは'70年から7年連続で紅白歌合戦に出場。'77年には『ブルドッグ』というヒット曲があったが、ついに落選した。

「アイドルとしては限界だと思ってキャバレーまわりをしてみたんですが、うまくいきませんでした。当時はアイドルを卒業して次に何をするか、という時代でしたね」

 グループとして活動しながら、4人それぞれの個性を伸ばすことに。

「ジャニーさんが“1人ずつの得意な分野をやってみろ”と。僕は司会と芝居とレポーター。ター坊こと青山は作曲。ジャニーさんに“なんで4人にいろんな仕事をさせるの?”って聞いたら“外で得たものを自分たちのステージに加えたら、ユーたちはもっと大きなことができる”って言うんです。武者修行してこいって意味だったんですよね。ところが僕たちは、それぞれ1人で勝負してみようって思ったんですよ

 '78年にフォーリーブスは解散。しかし、その前後には彼らを追いかけるように、次々とジャニーズアイドルが誕生していた。

郷ひろみに最初に会ったとき、こんなかわいい男の子がいるのってビックリしました。“フォーリーブスの弟分”ってことでしたけど、フォーリーブスをバックにつけたんです。人気絶頂だったグループの前で歌うなんて、通常とは逆ですが、ジャニーさんは、ひろみを売り出したかった。そうしたら、あっという間にフォーリーブスを追い抜きましたよ(笑)。

 田原俊彦は付き人をやってくれていました。遅刻してるのに楽屋に来て“ステージよかったです”なんて、当時から肝っ玉がすわっていましたね。でも愛嬌があるマッチと比べると口下手で、女性にはモテなかったな。最近のトシはモテるキャラだけど(笑)」

人気絶頂アイドルたちの秘密の前夜祭

 おりもは36歳で結婚し、41歳までジャニーズ事務所に在籍して、司会者やレポーターとして活躍した。

「クイズ番組の『ヒントでピント』や料理番組の『ごちそうさま』にレギュラーとして出演しましたね。『オールスター紅白水泳大会』には10年も司会で出演しました」

『水泳大会』はアイドルの登竜門的人気番組だった。

「僕はもともと選手として出ていて、そのころは五木ひろしさんや八代亜紀さんも水着で出ていたんですよ。僕が司会になると、アイドルばかりに。ひろみとか秀樹とか五郎がキャプテンやって、百恵淳子昌子の『中3トリオ』もいて、華やかでしたね」

 撮影現場の大磯ロングビーチを貸し切りにして前夜祭を行い、そのまま宿泊した。

「みんな忙しいんだけど、その前夜祭が楽しいから、どんなに夜遅くても来るんです。翌朝8時集合でも、朝方の5時まで、みんなでしゃべってる。普段は話せないし、恋心を持っている連中もいる。ここだけは自由な“空間”で、いい関係になったのを何人も知っていますよ。でも、ヤッくん秀美が結婚するとは思わなかったな……」

 とはいえ、本番は真剣勝負だったとも。

「トシに勝ちたくてマッチが水泳教室に通っていたというのは有名ですが、ひろみも秀樹も通っていましたよ。みんな本気だったんです。ただ、お笑いの人ですごく速い人がいると、“本気出さないで”って番組サイドが注意していたそう」

 女性タレントにとっても名前を売るチャンスだった。

「アイドルが水着姿で歌ってくれるなんて、それまではありえなかった。番組でいちばん輝いた女性として“フォトジェニック賞”をもらうと、それまで無名な人でもスターになれました。それくらい影響力があったんでしょう。河合奈保子は身体のボリュームがあってすごかったですよ。松本伊代聖子は華奢で清楚系。明菜もフォトジェニックだったな」

 こんなアクシデントも。

「ヤラセじゃなくて、ビキニで飛び込むから水着が取れそうになって、僕も何人ものアイドルがポロリするのを見ました。当時は楽屋が男女一緒は当たり前。カーテンがちょっと開いちゃった、みたいなことは日常茶飯事で……。百恵ちゃんのだって見ちゃいましたよ。“あ、ゴメンね”ですみましたけど(笑)」

「北も青山のジャニーさんに謝りたかった」

 解散後も4人はそれぞれ活動の場を広げたが、'88年に衝撃的な出来事が。メンバーの北公次が暴露本『光GENJIへ』を出版。その後、青山孝史も週刊誌でジャニーズ批判を始めた。

タレント同士や事務所内の確執とか、いろんな問題はありましたよ。でも、それって乗り越えられること。周りに乗せられた若気の至りだったんでしょう。ジャニーさんの個人的なことなんて暴露するもんじゃない。後になって北も青山も、ずっと“ジャニーさんに謝りたい”と言っていました。それは叶わなかったけれど……

 フォーリーブスは'02年に再結成を果たす。

「ジャニーズは“北と青山には敷居を跨がせない”って言うので、僕と江木俊夫でメリーさんに会いに行ったの。いろんな話をして、最後に言ってくれたのが、“下が見ているからね。恥をかかせるようなことはしてくださんな”。これは最大のエールですよね。どうぞ、ということですから。解散コンサートでメリーさんが僕たちを抱きしめてくれたことを思い出しました。すぐに北と青山に伝え、やるからにはジャニーズの後輩にすごいと思わせるようなものにしようと

 コンサートは成功、CDも発売。ファンは歓喜したが、'09年に青山が死去。'12年に北も後を追う。

'01年に復活会見したフォーリーブス。1年限定の予定が、今も解散はせず

再結成は、してよかったと本当に思います。それを後輩に伝えたいですね。嵐だってあれだけお客さんが来てくれるんだから、またやるべきだと思う。

 SMAPもぜひ再結成してほしい。メンバー間の亀裂があっても、年をとれば丸くなるし、ファンは何年でも待ってくれている。

 僕たちは24年も待たせたから、お客が来るかなって心配でしたが、ステージに立ったら会場は超満員で、足が震えましたよ。それで1年限定だったのが、7年も続いたんです。ファンとともに、僕たちもどんどん若返りました

 さまざまな困難を乗り越えてきたジャニーズの先輩だからこそ、言葉に重みがある。