昨年12月に松村邦洋さんの取材が終わりホッとしていたところ、年末に「松村邦洋、新型コロナウイルス感染」のニュースが飛び込んできた。原稿はほぼ書き終えていたが、元気になった松村さんに話を聞きたくて「無事に退院した」との連絡を受け、電話インタビューの追加取材を敢行。2009年の東京マラソンでの心肺停止と今回の新型コロナウイルス感染、二度死の淵から生還した男は何を語るのだろうか?

インタビューに答えてくれた松村邦洋さん(撮影/吉岡竜紀)

これで俺の人生は終わった……

 新型コロナウイルスの感染者数が急増する中、松村さんの新型コロナウイルス感染のニュースにはびっくりさせられた。というのも、マラソンで倒れた事のある松村さんだからこそ人一倍、感染予防には気をつけていたからだ。2020年12月26日に38・4度の熱が出て、28日にPCR検査で陽性が判明。3日間の自宅待機後、1月1日に入院して1月8日に退院することができた。

──後遺症に苦しんでいる人もたくさんいると聞いていますが、調子はいかがですか?

「深呼吸すると胸が苦しい感じがあったり、風邪のときのような喉の痛みがあるくらいで、ありがたいことに、そのほかはないです」

──陽性が判明したときは、どんな気持ちでしたか?

「“とんでもないことになってしまった、これで人生終わった”くらいに思いました。自分のことよりも、ほかの方に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 最初、38・4度の熱が出たときに検査をしたら陰性で、その後、熱も下がったので仕事をしてしまったんです。“あのときになんでちゃんと対応していなかったんだろう、そのせいで誰かにうつしてしまったかもしれない”って悔やまれました」

──自分を責めてしまいますよね。自宅待機中に亡くなられる方もいらっしゃいます。松村さんはひとり暮らしですが、待機中は不安ではありませんでしたか?

「片岡孝太郎さんや和田アキ子さん、出川哲朗さん、島崎和歌子さん、水道橋博士、戸田恵子さんなど、たくさんの方が『生きてる? 大丈夫?』って電話やメールをくださって、気が滅入る中、本当に救われました。陽性が判明してから3日後には入院できたので、とてもありがたかったです」

──お医者さんからは、「発症から6、7日以降に発作が起きて、重症化することもある」と言われたそうですね?

「入院したとき肺炎にもなっていたし、危なかったと言われていたので、自分でも覚悟をしたんですが、薬のおかげで悪化することはなかったのでホッとしました」

──お医者さんを始め、看護師さんもみなさん全力で向き合ってくださったと思います。

「お医者さんも看護師さんもPHSの呼び出しのバイブ音が鳴りっぱなしでした、もう次から次へと。看護師の方々は、部屋に入ってすぐ防護服に着替えられては処置をして、また次の病室へ向かうという、そういう姿を見てますと感謝しかないです」

コロナに負けるわけにはいかない

 コロナが治ってもそれがゴールではなく、精神的に追い込まれていく人も多い。松村さん自身も退院した今、まわりの目を気にしてしまうことがあるそう。

──無事に退院されても、退院後はメンタルの面でやられてしまう方もいると聞きます。

「そうですね。病気の『病』のほうはお医者さんが治してくださいますけど、『気』のほうは患者が頑張らないといけない。僕もそうですけど、気持ちの部分は本人次第ですから」

──松村さんも退院後、腫れ物に触るような扱いをされたのですか?

「あからさまにされたわけではないですけど、しばらくは外を歩いてると石を投げられはしないかという、肩身が狭い思いはありました。近づくと怒られるような空気を出してる方もいらっしゃって。『頑張ってね』と言いながらそういう空気もあって、仕方がないことなんですけどね。退院した直後は、そういうふうに思ってました。

 でも、高田文夫先生のラジオに電話出演したときに、『(ものまねの)腕が落ちたんじゃないか?』って言って笑わせてくださって、その言葉に救われましたね

「高田文夫先生の言葉に救われましたね」(撮影/吉岡竜紀)

──気を遣われるよりも、気が楽になりますね。新型コロナウイルスに感染したからこそ、今、伝えたいことはありますか?

品川庄司の庄司くんもしばらく胸が痛かったっておっしゃってましたし、完治したから退院ではなくて、退院されてからも後遺症で苦しんでる方はたくさんいらっしゃいますので、そんなに甘い病気ではないということですよね。

 最低でも緊急事態宣言の期間だけは、不要不急の外出を自粛していただきたいと思います。もちろん、みなさんそれぞれの生活がありますけども、平和な時期が来るまでコロナに負けるわけにはいきませんので、今だけでも辛抱して頑張ってほしいです

──いまだに、「風邪に毛が生えたようなものだ」と言ってる人もいるようです。

「とんでもないです。それぞれ立場などあるでしょうけど、体調が悪いときは休みますっていう勇気が大事かもしれません。抵抗力が落ちると言いますか、僕も若いうちは徹夜しても全然平気だったんですけど、53歳となると若いときとは違うんだなというのは骨身に染みて感じました。

 人と会うっていいことですよね。ふれあいとか。鶴瓶さんも『負けたらあかんで』っておっしゃってました。『鶴瓶の家族に乾杯』のように、ホッとする番組が好きなんですけど、早くみんなが笑顔で人と接する事ができる世の中になるといいなと思ってます

(ここからは、新型コロナウイルス感染前にインタビューさせていただいたものです)

いい出会いは、いい芽が出る

 松村さんの芸能界デビューのきっかけは、九州産業大学在学中『発表!日本ものまね大賞』に出場して、グランプリに輝いたこと。それから片岡鶴太郎さんに見出され、夢に見た芸能界に足を踏み入れた。

──大学を中退してまで芸能界に入ることに、ご両親は反対しませんでしたか?

高校時代から小さめのジャブを打ってたといいますか、家族で食卓を囲むときはいつも『タレントになりたい』と言い続けてましたので、親としては覚悟していたと思います。でも、『お前がなれるか』とは言われてましたけど(笑)。

 なので、最終的に行くってなったときは親の許可だけは得ようと思って、当時、大学生でひとり暮らしをしていたので、公衆電話から実家に電話を入れました。そうしたら、母親が出まして、『そんなもんで飯が食えるわけがない!』と猛反対されたんですよね。

 僕としては、鶴太郎さんから声をかけていただいたっていうこともあって、行きたい気持ちはあったんですけど、父親に反対されたら諦めようと思ってました。最終的には『「もう好きにしろ」ってお父ちゃんが言いよるよ』と言われて、無事上京することができました

「父親に反対されたら諦めようと思ってました」(撮影/吉岡竜紀)

──東京での生活は大変でしたか?

「ショーパブでアルバイトをしたり、営業も入れていただいてましたし、事務所の寮があって住むところも困らなかったんですよね。お給料も少ないながらいただいてましたんで、今の芸人さんと比べたらはるかにいい生活ができてたと思います。同じ事務所の有吉(弘行)くんからは、『お前は事務所の王子様だな』って言われてました(笑)。

 挫折は毎日のようにあって、今日行ったらもうやめようっていうのはいつも思ってましたね。でも今振り返れば、続けることって大切だなって身に染みて感じます

──芸歴33年ですが、転機になったと思える出来事はありますか?

「出来事というか、僕は人との縁が大きいなと思ってます。この世界に誘ってくださった鶴太郎さんに始まり、ラジオでご一緒させていただいている高田文夫先生、ダチョウ倶楽部さんや浅草キッドさん、爆笑問題さんも当時うちの事務所でしたし、『進め!電波少年』で一緒にMCを務めた松本明子さんもいい出会いでしたねぇ。今思えば、いい出会いはいい芽が出るような気がします」

大切なのは健康で生き続けること

 松村さんは、高田文夫さんのものまね「バウバウ」や『進め!電波少年』のムチャぶり企画「突撃アポなしロケ」の出演で、一躍子供たちの人気者に。当時、『進め!電波少年』を見ていない子供は、翌日、学校で話の輪に入れないほどだった。順風満帆のように見えた松村さんだったが、2009年3月『東京マラソン2009』に出場中、急性心筋梗塞で倒れ、一時、心肺停止となり世間に衝撃を与えた。41歳のときだ。

──倒れたときのことは覚えていますか?

「それが覚えてないんです。目が覚めたときは、ベッドの上だったので。自分としは完走したつもりでいました。でも、日刊スポーツの一面を飾ったし、親は『うちの息子がNHKの7時のニュースに出るとはなあ!』って喜んでくれました(笑)」

──(笑)。当時はご両親も心配されたと思いますが、心肺停止から復活して死生観は変わりましたか?

「劇的に変わったわけではないですけど、生きるって続けるってことなんだなと思うんです。仕事を続けることは大事っていうけど、それ以前にもっと大事なことは生き続けることなんですよね。生きていればまた次もありますから

──健康で生き続けることが大切なんですね。

「そう、健康で生きる、なおかつ仕事も一生懸命やる、これを続けることが大事なことで、それで生涯が終わればいちばん幸せだと僕は思います。……と言いながら、実はこれがいちばん難しいんですけどねぇ」

 松村さんと言えば、2017年の『ライザップ』のCMも記憶に新しい。ぽっちゃりからほっそり体形にイメチェンして、日本中をびっくりさせた。

──『ライザップ』では、8か月で30キロの減量に成功されたんですよね。

「うちの実家は農家なので、炭水化物を控えてたら、『お前は農家の敵だ』って言われました(笑)」

「生きていればまた次もありますから」(撮影/吉岡竜紀)

──(笑)。ダイエットしたことで何か変わりましたか?

「電車に乗っても僕だって気づかれなくなりました。透明人間の気持ちがやっとわかりましたね(笑)。前までは街を歩いていても、“あの太ってる人は誰だ? あ、松村か”ってなっていたのが、痩せてからは、僕のことを誰も見てくれなくなっちゃいましたから。気づかれなくて、ちょっとさみしくもありましたね。テレビの露出が減ったからかなって思ったりもしたんですけど、やっぱり30キロの減量は大きかったです」

──今も健康維持のために、何かされてますか?

「僕も健康についていろいろ考えています。特に食べ物には気をつかっていて、鍋を作って野菜をたくさん取るようにしてます。コロナ禍ということもあるので、毎日自炊ですよ。僕、お酒もたばこもやらないですし。

 鶴太郎さんからも『野菜を食べろ、ヨガもやろう』ってススメられるんだけど……。今、鶴太郎さんは浦辺粂子さんの「そーですよーだ」が、「そーですヨーガ」になってますからね(笑)。

 あとは洗面所に鉄アレイを置いて、風呂上がりにトレーニングしたりしてます。やっぱり痩せてるほうがいいですからね。食べ物だけじゃなくて身体を動かすことも大事だと思うので、近所を歩いてます。とろい歩きですけどね。おばあちゃんに抜かれるときもあるくらいだから(笑)。3時間とか4時間とか歩きだしたら歩き続けちゃうんです。休みだしても止まらないけど、歩きだしても止まらない(笑)

53歳には53歳の輝きがある

 現在、53歳の松村さん。人生100歳と言われる時代、マラソンでたとえるならちょうど折り返し地点に来たところだ。健康志向に変わってきた松村さんだが、50歳になったときに心境の変化はあったのだろうか。

「心境の変化は特になかったですね。ただ50歳になったときは、織田信長はもうすでに死んでる年だなあとか思いましたよね(笑)。

 あと、50歳過ぎてから記憶力が落ちてきたなという実感があります。まず人の名前を覚えられなくなりましたね。でも、ドラマ『半沢直樹』のセリフとかは覚えられるので、興味のあるものに関してはまだまだ大丈夫みたいです(笑)」

──人生をもう一度やり直せるとしたら、いつからやり直したいですか?

「一からやり直したいですね(笑)。でも、人生に悔いがないなんて言ったらウソになりますけど、僕は生まれたときにシナリオって、できあがってる気がしてるんです。僕が高校を留年したのも、マラソンで心肺停止になったのも、シナリオができてたのかなあって思うんですよね。いいこともイヤなこともちゃんとシナリオ通りにいくのが、人生なのかなってね」

──松村さんのシナリオに結婚はありそうですか?

「ないような気がしますね。でも、ナイナイの岡村(隆史)くんが“支えられ婚”だったから、僕も“おしゃべり婚”とかあるかな(笑)。ふたりでずっとしゃべり倒す夫婦っていうのも楽しそうですよね。

 岡村くんがまだ独身のときに、『老後はシェアハウスみたいなところで独身芸能人たちと助け合いながら生活するのもいいね』って話してたんですよ。岡村くんも乗り気だったのに、結局、結婚しちゃいましたからね(笑)

──松村さんは山口県出身ですが、将来的に田舎に帰りたいとは思いませんか?

「60歳で山口に帰るのもありですね。まだ芸能界にいてもいいよって言われたら、山口から通ってもいいですし。サラリーマンのように社員でもないし、明日から来るなって言われたら仕事がなくなりますから。

 60歳というのは自分の中ではひとつの区切りと思っているので、60歳までやれたらいいですね。で、60歳までやれたら61歳に向かおうかなと思ってます

「60歳までやれたら61歳に向かおうかなと思ってます」(撮影/吉岡竜紀)

──求められたらやり続けますか?

「そうですね。でもわからないですよ、54歳で来なくていいよって言われるかもしれないし、こればかりはわからないですね。本当に使っていただくだけでありがたいですよ。

 僕、今がいちばん幸せなんじゃないかなって思うんです。仕事もあるし、YouTubeもやって、自分の好きなことができてるので、満足してるんです。そういう意味では、今は仕事の意欲も強いし、いろいろと楽しいですね

──これから年齢を重ねていく上で、準備していることはありますか?

「準備というか、マイペースにコツコツですかね。……あ、悪口を書いてるノートとかは、処分したほうがいいかな(笑)。それから、連絡網を作って置いておくのも大切ですね。近所に仲よくさせていただいてるご夫婦がいるので、僕に何かあったときは各所に連絡していただくようにお願いしてます」

──50歳からのほうが、肩ひじ張らずに生きていけそうですね。

「そう思います。50歳を過ぎたらある意味、自由に楽しめる年なんじゃないかなって思います。53歳には53歳の輝きがありますからね。

 50歳ってまだまだ若手だと思うんですよ。“若いという字は苦しい字に似てるわ♪”ってね(笑)。アン真理子さんの『悲しみは駆け足でやってくる』にそんな歌詞がありましたけど。人生100年時代で言えば、僕なんてまだまだひよっこです(笑)」

(取材・文/花村扶美)

〈PROFILE〉
まつむら・くにひろ/1967年8月11日、山口県出身。A型。大学在学中に『発表!日本ものまね大賞』などに出演し、『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』で片岡鶴太郎に見出され、1988年大学を中退し上京、芸人の道へ。以後、バラエティ番組やドラマ、ラジオなど幅広く活動。高田文夫のものまね「バウバウ」やビートたけしのものまね、『進め!電波少年』出演(1992年~1997年)で大ブレーク。2009年、『東京マラソン2009』に出場し、急性心筋梗塞で倒れるが、後遺症もなく見事復帰。2020年8月、YouTubeチャンネル「松村邦洋のタメにならないチャンネル」を開設。2020年12月30日、新型コロナウイルス感染を公表し、2021年1月8日、療養先の病院を退院。