現在は、個人事務所で活動する新田恵利。この日はひとりで取材現場に現れた

「ファンが実家に忍び込んで服や写真など私物を盗むし、すぐに辞めたいと思うようになりましたね」

 ‘85年、フジテレビ系で放送されていた人気番組『夕やけニャンニャン』から誕生したアイドルグループ・おニャン子クラブのメンバーとして活躍した新田恵利

「『オールナイトフジ』という深夜番組で女子高生の出演者を募集していて、懸賞感覚で応募したのがデビューのきっかけです。その番組に何度か出演したあと、新しい番組でアシスタントとして出演しない? と声をかけられて。当時の番組アシスタントって、懸賞の商品をワゴンで運ぶぐらいだったので、それぐらいなら私でもできるかなと」

当時の彼氏とはデビュー後も交際を継続

 “ちょっと気になる可愛い同級生”というコンセプトでスタートしたおニャン子クラブ。その身近さが受けて、一躍、国民的アイドルになる。

レッスンらしいレッスンも受けないままレコードを発売することになったので、アイドルになったという感覚はなかったですね。当時は事務所にも所属していなかったので学校が終わるとひとりでテレビ局に向かっていましたし。収録後は取材を受けて、数時間だけ寝て学校に行って……と、目の前のお仕事をこなすだけで精いっぱいでした」

 人気が出るにつれて、私生活ではこんな弊害が。

「当時は個人情報も筒抜けだったので、実家近くにある広い駐車場にファンの人たちがたまるようになってしまって……。番組のギャラが1回5000円だったのですが、私物は盗まれるし、いま思うと稼いだ額より失ったほうが多い気が(笑)。父が亡くなった直後だったのですが、父の遺骨のある部屋から忍び込まれ……というのがいちばんつらかったです。

 なかじ(中島美春)と一緒に辞めようと思っていた矢先、初期メンバーの数人が喫煙写真を撮られ、辞めることに。その直後、私となかじが曲のメインボーカルを務めることになり、辞めるタイミングを失ったという感じですね

 メインボーカルを務めたデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』は大ヒット。しかし、こんな困ったことも。

「私のパートに“バージンじゃつまらない”という歌詞があったのですが、私はそんなことはないのに! って。当時は恥ずかしくて、親の目を見られなかったです(笑)」

 一方で、デビュー前から付き合っていた彼氏とは交際を続けていた。

「オーディションを受ける前から交際していたから、デビューしたから別れろと言われても困りますよね。取材で“彼氏はいるの”と聞かれたときは、ウソをつくのもイヤだったので、“今(この場に)はいません”とごまかしていました(笑)。

 でも本当に健全な交際で、デートも日帰りで遊園地に行くぐらい。1度、週刊誌にデート風景を撮られたのですが、それも実家の近くを自転車で2人乗りしている……というほのぼのとしたものでしたから。自分たちがアイドルだという意識はなかったから、彼氏のいるメンバーはほかにもいましたよ

おニャン子クラブの元メンバーには、工藤静香や渡辺満里奈など現在も活躍する人気タレントがズラリ

1億円でヘアヌード写真集を打診されて

 翌年の'86年には『冬のオペラグラス』でソロデビュー。オリコン1位に輝いたものの、同年グループから卒業。そして'90年にはいったん、芸能界から引退することに。

「ワンピースの水着だからとOKしたお仕事だったのに、いざ撮影現場に行ってみたらビキニが用意されていたり……。そういう事前のお話と違うことが重なって、人間不信になってしまったんです」

 ソロアルバムに収録された曲では、ペンネームで作詞を行っていた新田。引退後は、作詞家など文章を書く仕事をするつもりだったという。

「いくつか書くお仕事もいただいたのですが、人生経験も乏しかったのですぐに自分の引き出しが空っぽになってしまって。それで引き出しを増やすためにも、いろんな経験ができるタレントに復帰することにしました」

 こうして表舞台に再びカムバックしたものの、復帰後に待ち受けていたのは厳しい現実だった。

「いただくオファーが、暴露本やヘアヌード写真集ばかりで……。人間不信で引退したのに、今度は出版社不信になりました(苦笑)。復帰した'93年がヘアヌードブームだったということもあり、私のところにも1億円でお話がありました」

 高額ギャラに心が揺らいだときもあったそうだが、母親の言葉もありオファーは断った。

母親に相談したとき、“そんなふうに、あなたを産んだつもりはない”と悲しそうに言われてしまって、お金で魂を売っちゃダメだなって。1億円以上ならまた考えたかもしれませんが、それ以上の額を提示するところもなかったので(笑)」

 1度引退したことで、よかったことも。

おニャン子時代は仕事が入ったと言われると憂鬱(ゆううつ)だったのですが1度、芸能界から離れたことで、お仕事のあるありがたみを実感できるようになり人に感謝できるようになりました。きっぷの買い方とか一般常識を身につけられたことで、ひとりで仕事現場に行くこともできますしね」

ソロデビュー35周年を迎えて

 復帰後はマイペースに活動をしていたものの、'14年に母親が骨折したことで寝たきりに。突如、介護と仕事を両立せざるえない状況になる。

「最初は目の前にある問題をクリアしていくことで精いっぱいで、あっという間に2年がたったという感じでした。私が介護を始めた当時は介護をしていることについて公表しづらい風潮があり、手探り状態でやっていたのですが、気持ちを整理する意味も含めてブログで告白したんです」

 介護への悩みや本音を綴った投稿には大きな反響があり、現在は講演会を行うまでに。

「介護に関する知識レベルも高くなかったし、人前で何時間も話すのは無理! と思ったのですが、経験を話すだけでいいと言われて、やってみることに。例えば、認知症サポーターは自治体が行っている養成講座を受講するだけで誰でもなれるんです。そうした意外と知られていない情報を伝えることで、少しでも役に立てればうれしいですね

 昨年はデビュー35周年の記念ライブを行う予定だったというが、新型コロナウイルスの影響で開催を断念。

今年はソロデビュー35周年なので、その名目で開催を考えています。実は今年から人生初のボイストレーニングも始めたんですよ! 知り合いの方に頼んで新曲も作っていただく予定ですが、まずはコロナが終息しないことには……」

 改めておニャン子クラブの存在について聞くと、こんな回答が。

「当時からおニャン子の看板を背負わされていた部分もあったし、その肩書があることで苦労することが多かったです。でも私にそれを跳ね返せる実力がなかったからしかたないですよね。今でも活躍するメンバーは、元おニャン子とは言われないわけですから」

 苦労した彼女だからこそ、笑ってこう続ける。

「人生あっという間だし、つらいことがあっても最後は前を向いて進むしかないんですよ。今後は介護に関する講演会などを通じて、社会貢献やみなさんと触れ合っていければと思っています」