複雑な家庭に生まれ、かつて日本一の不良を志した少女はいま、「女性たちを家事の負担から解放したい」と語る。洗濯代行サービスで狙うは変わらず日本一! ダブルマザーで子育て、社長業と自分らしい道を諦めなかった彼女が見据える未来とは――。

株式会社アピッシュ 代表山崎美香さん 撮影/渡邉智裕

 東京・中目黒駅から続く、高架下の商店街。しゃれたカフェや雑貨屋、居酒屋などが並ぶ一角に、異彩を放つ店がある。店名は『WASH&FOLD』。

 ガラス張りの店内には、壁一面にシルバーメタリックの洗濯機や乾燥機がずらりと並び、コインランドリーのよう。

 しかし、なぜだか店の中央では、男性スタッフが洗濯物をたたんでいる。

何やってんだ? って不思議ですよね(笑)。うちは、コインランドリーだけでなく、メインで洗濯代行サービスをやってるんです

 ざっくばらんに話すのは、WASH&FOLDを運営する、アピッシュ・代表取締役の山崎美香さん(52)。

 ショートヘアにスタッフジャンパーをまとい、ボーイッシュな印象だ。

洗濯代行って、まだ日本では一般的なサービスじゃないですからね。こんなふうに洗濯物を目立つ場所でたたんでコインランドリーのお客さんや、道を歩く人に、興味を持ってもらうようにしてます

 山崎さんが手がける洗濯代行とは、専用のランドリーバッグに、洗濯物を詰め放題で出してもらい、洗濯機で洗い、乾燥させ、きれいにたたんで返すサービス。家の洗濯を丸ごと引き受けてくれるわけだ。細かい点も行き届いている。

洗濯はひとバッグずつ洗うので、ほかの人の洗濯物と混ざることはありません。下着を出す場合はランジェリーネットを無料で貸し出すので、それに入れてもらえば人目につくことなく洗濯できます

 ちなみに料金は、Tシャツなら60枚が入る、レギュラーバッグ(大)で持ち込みの場合、2420円。玄関先で受け渡しができる集荷の場合、3520円(ともに税込み)。

 ここ中目黒高架下店だけでも、1日70~80バッグを洗濯しているという。

 サービスも斬新だが、店の雰囲気もカッコいい。

ひと昔前のコインランドリーって、やぶれた雑誌が置いてあって、切れかけた蛍光灯がチカチカしてる、殺風景な場所でした。だから、利用するときも『雨が続いたから乾燥機だけ使いにきた』って言い訳したくなっちゃう。そういうイメージを変えようと

 白を基調にした店内には、観葉植物のグリーンがふんだんに使われ、しゃれたカフェのよう。Wi-Fiも無料で使えるので、洗濯物を待つ客たちは、ソファでノートパソコンを開いたりと、思い思いに過ごしている。

洗濯代行サービスって、海外では気軽に利用されてるけど、日本にはその文化がなかったんです。日本の女性は頑張り屋さんで、洗濯を人まかせにするのが後ろめたいというか。堂々と利用してもらうためにも、人に自慢したくなる店、人に教えたくなるサービスにしたかったんです

 このサービスを日本に初めて持ち込んだのが、ほかでもない山崎さんだ。

 2005年に1号店を代々木に出店して以来16年。着々と店舗を増やし、現在は直営店とフランチャイズ店を合わせて27店舗を展開している。

 日本初のビジネスを軌道にのせた山崎さんは、さながらすご腕のキャリアウーマンといったところか。

 そう水を向けると、「いや、いや」と照れながら明かす。

私、昔はヤンキーで日本一の不良になるのが目標だったの(笑)。軽トラで焼きいも売ってたこともあるんです

「産みの母には会いたくない」

 山崎さんが育った家庭環境は、「複雑」のひと言に尽きる。生まれも育ちも東京・足立区だが、埼玉の越谷と行ったり来たりしていたという。

「未来を描けなかった」という学生時代

父親はもう亡くなってますが、建築関係の自営業でした。なんというか、酒好きのあらくれもんでね。私が2歳のときに両親は離婚して、母親が出ていったんで、お母さんの顔も知らずに育ちました

 4~5歳のころに、父親は再婚したが、山崎さんは継母と折り合いが悪く、父方の叔母が暮らす越谷に逃げ込んでいた時期もあったそうだ。

 その後、山崎さんが小学校高学年のころに、父親は再び離婚。継母が出ていったため、父親、継母が生んだ弟との3人暮らしが始まった。

「それからはもう、子ども天国(笑)。父親が留守がちだから、うちが不良のたまり場みたいになってました」

 生活は荒れていったが、当時はまだ小学生。子どもらしく、将来の夢を持っていた。

刑事になろうってね。カッコいいじゃないですか。だけど、身内が警察ざたになると採用されないって聞いてね。うちの父親、飲酒運転や酔っ払ってケンカしては警察に捕まってたんで、あーあ、ダメじゃんって。それで、思い切り逆側に振れちゃったんです。だったら日本一の不良になってやる! って

 中学に入ると、不良仲間とつるんでは、夜遊び、万引き、シンナー、タバコと手あたりしだいにやった。警察にも何度も補導され、教師からも見放された。

仲間たちと遊ぶことに全力だった山崎さん(左)

 しかし、当時を知る、中学時代の友人・土井山幸代さん(52)は、別の一面を語る。

美香ちゃんは中1からの転校生で、『超ヤンキーが来るらしい』って転校前から噂になるほど有名でした。確かに、制服のスカートはズルズルで、髪型も刈り上げのリーゼント。見た目は怖かったです(笑)。でも、すぐにクラスの人気者になりました。話してて楽しいし、弱い者いじめも絶対にしない、気持ちのやさしい子だったからです

 土井山さんが山崎さんと親しくなったのは頻繁に電話がかかってきたからだという。

「クラスで私たち2人だけ、母親のいない家庭だったので、美香ちゃんは私を選んだんですね。毎晩とりとめのない長話をしました。今でも覚えているのは、『本当のお母さんに会いたくない?』って聞いたとき、美香ちゃんが『会いたくない』って、きっぱり答えたこと。私は当時、母親に会いたかったので、美香ちゃんの強さが印象に残りました

 なぜ、母親に会いたくなかったのか──。

 母親代わりで面倒を見てきた叔母、天方香子さん(73)の話を聞くと見えてくる。

「昔の話になりますが、1度、生みの母親が美香に会いたいと訪ねてきたことがあります。でも再婚して、夫に美香のことを隠してるって言うんで、会ってもお互いつらくなるよって帰ってもらったんです。その話は、美香にも伝えました。あの子が母親に会いたがらなかったのは、お母さんの幸せを邪魔したくなかったからかもしれません」

 幼いころ、継母に冷たい仕打ちを受けたときも、「目から鼻水が出た」と涙を隠し、何事もなかったようにふるまったという。天方さんが続ける。

「中学の卒業式では、後輩たちが『山崎先輩!』って抱きついて別れを惜しんでました。先生方は美香を不良と決めつけてたけど、私は後輩に慕われるあの子を見て、誇らしく思ったほどです」

 中学卒業後は、進路が決まらず、「高校ぐらいは出てほしい」という叔母の希望で静岡の全寮制の高校に入学した。

 だが、「長くは続かなかった」と山崎さんは苦笑する。

そこは紡績工場で働きながら、高卒の資格が取れる学校で、監獄みたいでした。入学してきたのは、私みたいな普通の高校に行けないワルばっかり。で、悪い子同士で仲よくなって、『かったるいから逃げよう!』って、10人くらいで脱走したんです

 入学からわずか2週間で退学して、浜松の不良仲間の家に転がり込んだ。

「それからは、毎日遊んで、お金がなくなったらバイトに行くような、ぐーたらな生活を何年も続けてましたね」

移動販売のバイトで才能開花!

 山崎さんが移動販売の仕事に目覚めたのは、求人誌の『焼きいも屋さん募集』を見たことに始まる。

「ヤンキーは結婚が早いから、一緒に遊んでた仲間は子どもができて落ち着いちゃって。もう20代だったんで、私もそろそろ身の振り方を考えようと」

 とはいえ、学歴がないので就職も難しい。タイムカードのある仕事も嫌だった。

それで、焼きいも屋なら好きな時間に働けるっていうんで、これ最高! ってすぐに決めました

 1~2日の研修を受け、遊んでいて知り合った女性を相棒に、さっそく実践に移った。

元締めから軽トラを貸りて、いもを焼いて、あとは『焼きいも~』の音声を流しながら基本的にゆっくり走るだけ。団地のそばとか夜遅くなら繁華街を回るんです。そうすると、さらっとやっても1日2万~3万になりました

 焼きいも屋を数か月続けたあとは、くだものの移動販売に鞍替えした。

「くだものは焼きいもより売れたけど、間に的屋さんが入ってて半分以上、売り上げを抜かれちゃう。だったら自分で商売やろうと、中古で軽トラを買って桃とかスイカを一種類だけ仕入れて売るようにしたんです」

 新宿の歌舞伎町や上野のアメ横を拠点に、夜の街で商売はそこそこ繁盛した。

 ところが、じきに仕入れの金が底をつく。

遊ぶために働いてたようなものだから。仕事が終わったら、新宿や六本木でパーッと飲んで、稼いだ分だけ使っちゃう。気づいたら、仕入れのお金にも手をつけて、すっからかんになっていました

 住所不定で友達の家を転々とし、その日暮らしの日々。人生設計の仕方など、誰も教えてくれなかった。

 それでも、やんちゃの限りを尽くした元ヤンキー。ちょっとのことではくじけない。

お金がないなら、仕入れがただのものを売ればいいやって。知り合いで鈴虫を山ほど飼ってるおじさんがいたんで、ただでもらって商売にしてみたんです

 ピンクの虫かごを買い、拾った小枝で見栄えをよくし、ひとかご3000円。

 意外にも、これが売れた。

鈴虫って夜になるといい音色で鳴くんです。それにつられて、酔っ払いのおじさんや流しの演歌歌手が、お土産に買っていってくれてね。2500円にまけることもあったけど、それでも経費は安いかご代だけなので、かなりもうかりました

 その奮闘ぶりを、横で見ていた、相棒の石原千絵さん(仮名・52)が振り返る。

山崎は、安易に商売を始めるけど、とにかくアイデアが面白いんです。軽トラをパッと買って、商売になる場所を見つける行動力もある。人と壁を作らないから知り合いも増えて、そこから商売が広がっていくんです。当時から夢追い人で、いつも言ってました。必ず一旗揚げて社長になる! って

 その宣言どおり、大きなチャンスをつかんだのは、20代半ばを過ぎたころ。

 スニーカーの販売を手がけたことに始まる。

スニーカー販売で年商2億円

 ナイキ・エアマックス95──。'90年代半ばに発売され、日本中で大ブームになった、伝説のスニーカーだ。

飛ぶように売れ、大成功を収めたスニーカー販売事業

 それまで鈴虫を売っていた山崎さんが、突然スニーカーを売ることになったのは、「スカウトってやつ!」だという。

 行きつけの韓国料理店のマスターに、商売を持ちかけられた山崎さん。「これはイケる!」とピンときた。

韓国のナイキ直営店で、目当てのエアマックスを買って、日本で売る商売でした。なぜ韓国かっていうと、日本より先行発売されるから。日本で販売になる前に、売ることができるってわけです

 商売のカンは的中した。

 フリーマーケットを皮切りに、若者向けの雑誌に広告を掲載。通販で商売を始めたところ注文が殺到し、仕入れたそばから完売した。

「大ブームになってからは、相場も一気に跳ね上がってね。1足1万円で仕入れたスニーカーが、3万、5万で飛ぶように売れました」

 収入も一気に増え、生活も一変した。

居候生活を脱して、自分の名義で都心にマンションを借りてね。家賃は確か、30万くらい。車も、中古だけど、憧れだったスポーツタイプのベンツを買って、うれしくって乗り回してました

 2~3年の間で、実に2億円を売り上げた。仕入れ値、広告費などを引いても、1億円もの大金が手元に残った。

それで、ビジネスなんてチョロイもんって、甘く見ちゃったんです。会社を作って、原宿にアパレルの店を出したんだけど、そのころにはスニーカーのブームも終わって。輸入物のTシャツを売ったけど、大赤字でした

 月に80万円もの家賃と人件費が重くのしかかり、数年で貯金は底をついた。

 翌月の給料の支払いもままならない。瀬戸際に追い込まれていた。

 そんな折だった。山崎さんのもとに再びビジネスの話が舞い込んだ。

「常連だった喫茶店の店主から、『もうトシだから引退したい。店を引き継がない?』って声をかけられたんです」

 時は2001年。スターバックスが日本に1号店を出し、カフェブームが始まろうとしていた。

 神宮前という好立地にもかかわらず、家賃が30万円と割安だったこともあり、山崎さんは、原宿の店舗を閉め、カフェの経営へと舵を切った。

「相棒が料理上手だったので、ニューヨーク風のカフェにしようと。開店資金は彼女のお父さんに借金しました。場所柄、芸能事務所やアパレル関係のお客さんが、常連になってくれました」

 評判は上々だった。けれど、収支はトントン。早朝から深夜まで働き詰めでも、経営はラクにならなかった。

そのころ、やっと気づいたんです。カンと勢いだけの素人経営じゃダメだ。ちゃんと勉強しようと

 行動力は折り紙つき。

 さっそく渋谷区の商工会議所が主催する起業家のための講座、『チャレンジ塾』に通い、経営のいろはを教わった。

私、事業計画書や原価計算すら知らなかったんです。店のバイトだって、ノリと勢いで、『いいよ、おいで』って雇ってた。これじゃ、もうからなくて当然ですよね

 半年間、週1度の講座に欠かさず出席し、経営のノウハウを叩き込んだ。

 受講生でただひとり、皆勤賞だったことで、500万円の融資を半額の利息で受ける権利も得られた。

それを元手に、カフェ事業のひとつとして、イベントやパーティーに軽食を配達する、ケータリングサービスを始めることにしました。当時の日本には紙やプラスチックのおしゃれな容器がなかったので、開店前にアメリカに視察に行ってこようと

原宿のカフェを経営していた当時。社長になっても毎日店に立ち働き詰めだった

 向かったのは、知り合いが暮らす、ポートランド。

 視察にことのほか手間取り、滞在期間が延びた山崎さんは、たまった洗濯物を洗いにコインランドリーに行った。そこで運命の出会いを果たす。

日本初、洗濯代行サービス!

 コインランドリーで、洗濯物を洗っている間、山崎さんは店員と客のやりとりに目が釘付けになったと振り返る。

「お客さんが店の女性に洗濯物を渡し、重さを量って、お金を払って帰っていくの。何やってるのか気になって、片言の英語で聞いたら、『WASH&FOLD』って」

 滞在していたコンドミニアムに戻るとすぐに、インターネットで調べてみた。

 すると、『WASH&FOLD』とは『洗って、たたむ』の意味で、アメリカではドライクリーニングなどと同じ、サービス名称だとわかった。

 翌日もコインランドリーに行き、今度は自分の洗濯物を店の女性に出してみた。

「いつかよくなるから、みんなでベンツに乗ろう! って夢と希望を語っていましたが、ノリと勢いだったことを30過ぎて反省しました」

そうしたら、きれいに洗って、たたんで、袋に詰めて返ってきたの。もう、感動! これ、すごいじゃんって。私、家事が嫌いなんで、これがあったらどれだけ助かるか

 洗濯代行サービスはアメリカやアジアを中心に世界各国にあるが、日本にはまだ入っていない。

 商売のカンがひらめいた。

ひょっとして私、すごい発見しちゃったんじゃない!って(笑)。もうケータリングなんか吹っ飛んで、直感的にこっちだ! と。滞在中に徹底的に調べて帰国しました

 帰国後、山崎さんに報告を受けた、当時のカフェの店長で、アピッシュの広報・久湊良子さん(41)が話す。

山崎から、『WASH&FOLDやるよ』と言われたときは驚きました。私たち洗濯屋になるんですかって(笑)。それでもすぐに切り替えられたのは、山崎はいつも、『愛を持って接しなさい』と言っていて、その気持ちで働く限り、どんな仕事でも同じだと思えたからです。スタッフも仕事内容より、山崎と一緒に働きたいメンバーばかりだったのでついていこうと」

 それにしても、ふつうなら見落としそうな『チャンスの芽』を、なぜ山崎さんは鋭くキャッチできたのだろう。

店内のコインランドリースペースはスタイリッシュでおしゃれ

 そう投げかけると、「うーん」と、しばし考えて口を開く。

こう見えても、すごく悩んでたんです。何があってもスタッフに給料を払う責任があるし、借金の返済もある。これからどう進むか、四六時中、考えてました。そういうときって、神経が研ぎ澄まされているから、目の前のチャンスを、パッとつかめたんだと思う

 20年来の友人で投資会社を経営する吉村美由紀さん(51)の言葉がそれを裏づける。

「美香ちゃんとは、『友達は誰?』って聞かれたら、お互い最初に名前を出すような間柄です。でも、これだけ親しくても私は彼女から、1度も仕事の愚痴や悩みを聞いたことがありません。

 決して弱さを人に見せない。自分だけで考え、答えを出していくんです。美香ちゃんは、そうやって苦しむことすら楽しんでいるように見えます。急斜面を登るロッククライマーのイメージかな。この断崖を登りきったら次はどんな景色が広がるか、ワクワクしながら乗り越えていく人なんです

 断崖を登った先に広がっていたのは、洗濯代行サービスという新たな景色。

 山崎さんは開店に向けて一気に突き進んでいく。

「洗濯のストレスから解放された」

私、気が早いのでアメリカに行く前に、代々木にケータリング用の物件を借りておいたんです。そこを使うことにしました

 店舗が決まったところで保健所に相談し、営業許可をとるための細かい条件もクリア。

 チャレンジ塾で学んだ、「事業計画」も綿密に立てた。

「コインランドリーのレンタル料って、使った分だけ払うので、仕入れがあるカフェやアパレルと違って、低リスクの商売なんです。コインランドリーで家賃分を稼ぎ、経営を維持して、洗濯代行サービスを軌道に乗せていこうと」

 内装はコインランドリーのイメージを打ち破り、海外のカフェ風にした。

最初は、女性が入りやすい淡いピンクの色調にする案が出たけど、いやいや違うって却下したの。クリーニング屋さんのポスターって、ピンクのエプロンママがトレードマークですよね。それって洗濯は女の仕事って言ってるみたいで抵抗があったから

 コインランドリーにありがちな、『お忘れ物はございませんか』などの貼り紙も、いっさいしないことに決めた。

せっかく受付カウンターに私やスタッフがいるんだから、お客さんとコミュニケーションをとって、そこから洗濯代行サービスを提案していきたかったんです

 日本初のサービスに、不安はなかった。それどころか、うまくいくと確信していた。

カフェやアパレルの仕事は、憧れから入ったけど、洗濯代行は正直、ダサい仕事ですからね。憧れがないぶん冷静に伸びると判断できたんです。この仕事を私たちでカッコよくしていったら、必ずお客さんはつくって

 こうして、2005年にオープン。海外でのサービス名称、『WASH&FOLD』を、そのまま屋号にした。

洗濯代行サービスを広く認知してもらうため、店内でたたむ作業を行う店員の姿も

 覚悟していたものの、容易に客はつかなかった。

チラシを配ったり、いろいろ宣伝したけど、反応は鈍かったですね。クリーニングの詰め放題と勘違いして、洗濯できないスーツが何着も入ってたり、旦那さんが奥さんにすすめても、『私の洗濯の仕方に不満があるの?』って怒られたという話を聞くこともありました

 しばらく赤字が続き、苦戦した。それでもコツコツと仕事を続けること2年──。

 やがて、風向きが変わった。

「うちを利用してくれてたお客さんが新聞記者さんで、面白いサービスだからって記事にしてくれたんです。小さな記事だったけど、それから雑誌やテレビの取材が立て続けに入って。メディアの影響力ってすごいんです。紹介されるたびに、お客さんがどんどん増えていきました」

 共働きの夫婦や独身男性を皮切りに、単身赴任者、高齢者、子育て中の主婦と、利用者のすそ野が広がった。

受付カウンターには英語のメニュー表を設置し、注意書きや貼り紙は最小限に

 その多くはリピーターとなり、「洗濯のストレスから解放された」と口をそろえる。

仕事から帰って、山のような洗濯物を取り込み、たたんでしまう。この作業がなくなって子どもとゆっくり夕飯を楽しめてます」(40代・女性)

高層マンションで洗濯物が干せなくて利用したら、玄関まで取りに来てくれ、仕上がりも大満足」(50代・女性)

 個人の顧客のほか、スポーツクラブやスパ、エステサロンのタオルやガウンの洗濯など、法人との契約も増えた。

 店が軌道に乗ったところで、カフェを閉め、業務内容を洗濯業に一本化。以来、直営の支店に加え、フランチャイズの出店と規模を拡大した。

 昨年の洗濯代行サービスの年商は、6億円にのぼる。

「一昨年の年商が8億円弱だったので、実は昨年は減収なんです。コロナの影響でイベントやスポーツ協会さんの仕事が減ったので」

 それでも、山崎さんの表情は明るい。昨年4月の緊急事態宣言以来、個人の利用客が右肩上がりだからだ。

リモートワークになって、共働きのご夫婦はもちろん、専業主婦の方も旦那さんに3食作らなくちゃいけないし、家事の負担が一気に増えたんですね。洗濯だけでも外に出そうという流れができたんだと思います

 洗濯は外注して、空いた時間で生活を豊かにする。新しい文化が根づきつつあると、手ごたえを感じている。

『洗濯、まだ自分でしてるの?』って言える日が早くくるようにしたいですね。そのためにも、全国に店舗を増やし、5年くらいで、100店舗にするのが目標です

女性パートナーと双子の子育て

「写真、見ます?」

 ちょっと照れながら、スマホをこちらに向ける。そこにはハーフの女の子2人が笑顔で映っている。

「家では英語を禁止にしているんですけど、ケンカをすると私にはわからないと思って、娘たちが英語で文句を言うんです(笑)」

ローマとパール。10歳になる双子の娘たちです。うちは母親2人で子育てする、ダブルマザーなんです

 女性パートナーとの間に子どもを持とうと思ったのは、山崎さんが39歳で早期の乳がんを患ったころ。

アメリカで治療を受けたんですが、医療コーディネーターから『子どもをつくる予定はないの?』って聞かれて、パートナーと本気で考えるようになりました

 そのパートナーが、移動販売時代からの相棒、石原千絵さんだ。千絵さんが話す。

山崎は最初、子どもを持つことに消極的でした。母親を知らずに育ってきたので、親になる自信がないと。でも、半ば強引に説得しました。山崎は自分の出生に不信感を抱えて生きていました。親になることで、それを乗り越えてほしかったんです

 双子が誕生してからは、怒濤の育児が始まった。おむつを替えたり、ミルクを飲ませたり、2人の世話をしながら、山崎さんは改めて思ったという。

赤ちゃんは、お世話しないと生きていけないんだって。そう考えると、いま私が生きてるのは、あんな親でも世話をしてくれたからだって。感謝とまではいかないけど、なんとなく、ありがたかったな

 そう話す一方で、「だけど、うちのお父さんはやっぱダメだったと思う」と笑う。

「私は親になって自分より子どもがいちばんになったけど、うちのお父さんは何にも変わってなかったから(笑)」

 娘たちへの愛情は深く、ダブルマザーということで、いじめにあわないかと心配したこともあった。

幼稚園や小学校で先生に、事前に相談したり。だけど、拍子抜けするほど自然に受け入れられました。私たちも母親2人で、子どものイベントにどんどん参加して、ママ友やパパ友とも仲よくなって、世界が広がりましたね

 そうやって子どもたちと歳月を重ねながら、「育てられているのは私のほうだ」と折に触れ感じているという。

小さいころは、怒ってばかりでした。でも、娘たちが『怒られるとやる気がしない』って(笑)。親は失敗させたくないからガミガミ言うけど、子どものタイミングでやらせればいいし、失敗も力になるって気づきました。そのころから、スタッフへの接し方も変わりましたね

 広報の久湊さんが話す。

「以前の社長は、思ったことをわーっと注意してましたが、子どもを持ってからは、ひと呼吸おいて、ソフトに伝えるようになりました。積極的に人と会い、情報収集して、新たな挑戦を始めたのも変化です」

 WASH&FOLDでは、新たなサービスとして、スーツやコートなどを、石油系有機溶剤を一切使わずに水洗いできるクリーニングを始めたという。

子育てを通して環境問題にも関心を持ち、エコグッズも扱うように

 地球環境に配慮したビジネスを取り入れたのは、「未来」を意識してのことだ。

やんちゃしてたころは、未来なんか描けなかった。生きる意味すらわからなかった。でも、子どもを持って、彼女たちが育っていく未来に目が向いたんですね。自分にできる洗濯の分野で、環境を守っていきたいと。そういう活動を通して、うちのスタッフが胸を張れる会社にしていこうと思っています

 ここ数年、洗濯代行サービスは同業他社が参入し、ライバルが増えつつある。しかし、『元祖』の独走態勢は変わっていない。

うちのスタッフにはいつも気合を入れてます。ずっと1番でいようね! せっかく日本一なんだから絶対、死守するよ! ってね


取材・文/中山み登り(なかやまみどり) ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー